読みまちがえと固有の世界(信念のもち方)

 云々はうんぬんと読むけど、これをでんでんと読む。自由民主党安倍晋三首相は、云々をうんぬんとは言わずにでんでんと言ってしまったことがあった。これは客観的にいうと読みまちがいにほかならない。人間は誰しもたまにはまちがってしまうことがあるし、何ごとも完全かつ正確に理解しているわけではないから、ついあやまってしまうこともある。致命的なまちがいでなければそこまでとがめられることはいらないだろう。

 客観的にいえば、正しくはうんぬんと読むわけだけど、もしまちがってでんでんと読んでいれば、それを指摘されるまでは気がつきづらい。それをうら返せば、指摘されるまではでんでんと読むことが正しいといった内的な認識がもちつづけられる。そして、それはそれとして、でんでんと読むことが正しいとする独自の体系みたいなものが形づくられる。やや大げさではあるだろうが、このようにも言うことができるようだ。

 安倍首相の過去に言いまちがったことを例としてとり上げたのは、もしかすると悪意からあげつらっているのではないかと疑られるかもしれない。支持者の人は気分を害するかもしれないが、その点はできれば大目に見てもらえればさいわいだ。そのうえで、言いまちがいというのをあらためて見てみると、そこで何がおきているのかなというのがちょっとだけ気になった。

 云々をでんでんと読むのが正しいと見なしていたとすると、云々をでんでんとして主体が意味づけしているともいえる。意味づけというよりは響きづけといったほうがよいかもしれない。この意味づけ(響きづけ)は、客観的にいえばまちがいなわけだ。それを他から指摘されて、自分でまちがいに気がついて、それを受け入れて修正する過程をふむことがいる。そのさい、他から指摘されて、自分でまちがいの可能性に気がつきはしたが、しかし受け入れないで修正もしない、というありかたもありえる。あくまでも自分のありかたのほうが正しいとして、その姿勢を固持する。補正されず、補強されるわけだ。

 云々をでんでんと読むくらいのことは、さして重要なことではないから、それをまちがっていたとして受け入れて修正するのはとくにむずかしいことではない。しかし、自分の思想信条にかかわるようなことであれば、ことはそう簡単には進みづらい。思想信条についてはどうしてもゆずりがたいところがある。なので、反証(反論)を受け入れることをせず、それから逃れようとすることが少なくない。

 かりに、云々をでんでんと読むようなまちがいが、思想においておきているとしても、客観的には正しいうんぬんの読みをすぐさま受け入れて修正するとはならなそうだ。よほど素直な人でないかぎりは、少なからず抵抗を示しそうである。でんでんの読みが正しい、という意識があって、その意識が崩れるのを嫌う。なぜ嫌うのかというと、その意識というのが主体から出発しているからである。揺るぎない主体というのがあり、そこから発している見なしかたであるため、それを揺るがすのは非合理であると判断される。そうはいっても、主体が抱いている理がもともとおかしいものであれば、そこから導かれる非合理であるとする判断もまちがってしまうことになるのはたしかである。