批判をすることよりも、行動とその結果のほうが値うちがあるのだろうか

 批判をすることなら誰にでもできる。それよりもじっさいに行動をして結果を出すことが大事だ。政権はそうしたことを言っていた。

 たしかに、政権にたいして批判を投げかける声があるとして、その声がうとましいものだというのはあるだろう。できればそうした声を聞きたくはない。きびしい批判の声は政権にとってはまったく耳に快くないからだ。批判の声は、行動をするさいの邪魔な足かせにもなる。

 政権が行動をして結果を出すためには、どういうことをするべきなのだろうか。どういうことをやらないとならないのだろうか。政治において政権がよい行動をして少しでもよい結果を出すためには、他からの批判の声をまともに受けとめることがあることがいる。それがなくてただつき進むだけだと、まちがった方向にどんどん進んで行ってしまう危なさがおきてくる。

 人間ができることには限界があるし、人間がもつ合理性にもまた限界がある。まったくまちがいをおかさないような無びゅう性をもつのではない。可びゅうであるのをまぬがれるものではないから、まちがっているさいには、他からそれをさし示されることがあると益になることがある。

 政権がなしたこととそれによる結果については、一つの物語であるのにとどまる。手がらとなるようなことをなしたのだとしても、それがほんとうに政権の手がらといえるものなのかには疑問符がつく。手がらの横取りということがあるだろうし、悪いことは他の人のせいにしてなすりつけることもあるだろう。とるべき責任をとらずに無責任に逃げつづけることが許されてしまっている。客観の現実そのものなのではなく、見なし方が取捨選択されているのだ。

 政権そのものが、自分たちで物語にもとづいているあり方になっているので、そこについて批判をすることは欠かせない。政権そのものが持つ物語が正しいものだという確かな保証はない。大きな物語はなりたちづらく、小さな物語による多元のあり方になるのが現実としてはふさわしい。

 できるだけ国民のためになるような正しいことを政権がやろうとしていて、国民のためになるような結果を少しでも出そうという気があるのであれば、他からの批判にたいして開かれているようであるはずだ。その反対に、閉じているようであれば、ほんとうに国民のためになるようなことをしようという気があるのかはやや疑わしくなる。

 閉じたあり方になっていて、まちがった方向に進んで行ってしまえば、国民にとって大きな損や害がおきることになる。とにかく正しいのだということで政権がやって行くのだとしても、それがほんとうの意味で正しいのかどうかとはまた別である。

 まったくもって正しいというような大きな物語はなりたちづらいから、そこに多かれ少なかれまちがいを含まざるをえず、まちがいを多く含んでいることが見逃されるとまちがうことにならざるをえない。そうしたまちがいが見逃されてしまうのを少しでも防ぐためには、批判を含めて色々な意見が言われたほうがよいし、それがしっかりと聞き届けられてくみ入れられたほうが安全だ。聞き逃されてしまうのであれば、せっかくのまともな意見が無視されてしまうことになりかねない。

 参照文献 『正しく考えるために』岩崎武雄 『反証主義』小河原(こがわら)誠