悪口のルール

 相手が悪く言ってきたから、こちらもまた相手を悪く言う。そういう個人のなかのルールのもち方もある。このルールの持ち方にたいして疑問を感じるところがある。これをやってしまうと、けっきょく泥仕合のようになってしまう。どちらが先に悪く言ってきたのかというのは、にわとりと卵の関係のような気もする。先か後かというのは、当事者にとっては軽んじられないにせよ、客観的にはそこまで大差がないような気もしてしまう。何か言い訳のようにも響いてしまわないでもない。

 こちらから先にしかけないだとか、悪く言ってこない相手には何もしないなどの心がけは、決してまちがったものではない。偉そうな言い方になってしまうが、それはそれなりに褒められたものである。しかし、他者依存的なところが少し引っかかるのである。それは、自立したありようとはいえないのではないか。

 自立などといっても、そうかんたんにはできないときもある。ただ、他者依存的であると、関係や構造がぶつかり合っているようでいて、じつは大きな範ちゅうの中におさまってしまう。差異(アイデンティティ)が解消されると思うのだ。その解消は、プラスに出れば愛であり、マイナスに出れば憎しみだ。

 こちらが悪口を相手から言われるのは、事実としてみたらそれは実証的なものである。しかし、それとは別に、なぜそうなのかという点も見ることができる。完全に相手に非があるとは言い切れない。すると、そこに誤解みたいなのが関わってくることがありえる。誤解とは意思疎通における渋滞であると言えるそうなのである。

 この意思疎通の渋滞をどう解決するのかはけっこうやっかいではあるようだ。まず、双方が意思のやりとりをして、少しずつ解いてゆく。もしくは、解決は困難であるとして、一方もしくは双方がさじを投げてしまう。そしてまた別なものとしては、達観してあきらめてしまう、というのもあるという。気にしないようにする。

 勝手な注文ではあるかもしれないが、はたから見ていて、快くはないメッセージのやりとりや投げかけはできればつつしんでもらいたいかな。まったくやるなというわけではないけど、それは局所的な劇的効果として用いられればよい。でないと、方法として自覚してやっているというよりは、むしろ素朴に無意識(脊髄反射)で言いつのっているようにも見えてしまう。

 自己ルールというのは、自分もまたそのルールが適用される場に参加しているから、自分が第三者の立場に立つわけではない。だから、ルールの運用において完全に俯瞰して見ることはできそうにない。三権が分立していないみたいな感じだろうか。まったくルールなしというのよりは態度としては立派ではあるけど、ルールに寄りかかってしまうと、自己正当化になりかねない危うさもありそうである。