新型コロナウイルスへの感染が広まる中で、生活に困る人がおきていることへの支援がさぐられている

 新型コロナウイルスへの感染が社会の中でおきはじめている。人々の活動が十分には行なえなくなるから、経済の景気が悪くなることが予測される。経済の活動が色々なところで制限されることがおきている。

 経済の活動ができなくなっていることで収入が得られづらい。収入が得られなくなると生活が苦しくなったり成り立たなくなったりする。生活に苦しくなる人が出てくることを救うために政府は手だてをすることを打ち出している。それそのものはよいことである。

 支援の策として政府は和牛の商品券を配る案をさぐっているという。なぜ和牛に限定したものなのかが定かではない。何らかの理由によって牛の肉を食べられない人はどうなるのだろうか。牛の肉を食べられない人は和牛の商品券をもらっても困るのではないだろうか。

 新型コロナウイルスへの感染が広まっている中で、生活に困る人が出てくるの救う。ウイルスへの感染が広まっていることとはじかには関わらない話になってしまうのはあるが、なぜ生活に困る人が出てくるのかということに目を向けてみたい。

 生活に困る人がおきてしまうのは、たんに経済として苦しいことになることだけではなくて、そこには精神や心理における差別や偏見が関わっている。自己責任論のようなものがまかり通っていることで、生活に困る人はその当人が悪いからだというふうに見られてしまいやすい。

 生活に困る人が出てくるのを救うのであれば、物質として支えることが行なわれることのみならず(それが行なわれるだけでも、行なわれないよりかはずっとよいことではあるのだが)、精神や心理のところにも目を配ることができればよいのではないだろうか。生活に困ることになる人は当人に悪いところがあるのだとか、当人の努力が不足しているだけだとかとする見なし方だけで片づけてしまうことには待ったをかけるようにしたい。

 新型コロナウイルスへの感染が広まっているのはある意味では特殊で緊急の状況だが、そうした状況のときだけではなくて、ふつうのときの状況においてもまた、生活に困っている人がいることについて、その当人だけが悪いということだけで片づけてしまわないようにするようであればよい。

 当人をとり巻く社会の状況に目を向けられることがあればさいわいだ。物質の支援が行なわれないよりかは行なわれたほうがまちがいなくよいことではあるが、たんに物質の支援だけが行なわれるのではなくて、社会の中に誤解や差別や偏見があることについて目を向けられて、それが少しでも改められることがあれば、生活に困る人が減ることにつながりやすくなるのではないだろうか。

 参照文献 『事例でみる 生活困窮者』一般社団法人社会的包摂サポートセンター編