山本太郎氏による炊き出しの活動への参加からうかがえること―関心のもち方

 れいわ新選組山本太郎氏は、年末に炊き出しの活動を行なっているという。この活動について、たんなるパフォーマンスにすぎないとか、偽善だという見かたが投げかけられている。

 (元)政治家のやるべきことは、炊き出しの活動に参加することではなくて、もっと大局から日本の社会をよくするようなことをするべきだ、という声もあった。

 山本太郎氏がやっている炊き出しを手伝う活動は、意味があるのかないのかといえば、意味があることなのではないだろうか。

 炊き出しでは、社会の下層に位置する人におもに料理がふるまわれる。その現場にじかに触れることは、益になることだろう。たとえ形だけであっても、または一時的なものであっても、まったく少しもやらないよりは役にたつ。

 社会の下層の人たちとの距離が少しでも近くなることが見こめるので、そのことが政治にとってよいほうにはたらく。

 いまの日本の社会では、社会の下層に落ちてしまうことが、その人の自己責任とされてしまうのが強い。その人の自己責任なのだから、しかたがないことだとか、しかるべきわけがあってそうなっているのだとかと見なされがちだ。

 個人ではなくて社会のあり方についてに目を向けられるとすると、社会のあり方が正しいとは必ずしも見なしづらく、そこは自明とは言えない点だ。

 どういう社会がのぞましいのかには、色々なあり方があげられるかもしれないが、一つには、人を食う社会であるのがよい。人を食う社会とは、文化人類学者のレヴィ・ストロース氏が言っていることで、これは人を包摂する社会をさす。その反対に、人を吐き出す社会は人を排除する社会だ。

 いまの日本の社会は、人を食う社会ではなくて、人を吐き出す社会になってしまっているきらいがある。悪い社会や、悪い共同体になっているところがあって、金の切れ目が縁の切れ目となっている。全面として悪いとは言えず、よいところがあるのもまたたしかだが、すべての人が包摂されるような理想のあり方になっているとは言えず、それにはほど遠いだろう。

 れいわ新選組山本太郎氏が、人からやらされるのではなくて、自分から自発として炊き出しの活動に参加するのは、山本氏がどういうことに関心を向けているのかがそこから見てとれる。その関心のもち方から、どういうことに価値を置いている(置こうとしている)のかが見えてくる。

 れいわ新選組山本太郎氏のことをとくに支持しているのではないから、かかげている政策について全面によいとは見なしていないし、まだ十分に知っているのでもないので、客観に評価づけができるわけではない。よいか悪いかと単純に二つに分けるのを避けられるとすれば、少なくとも山本氏の関心のもち方や価値の置き方について部分的にはよい評価づけをすることができる。とくに何の関心も示そうとはしない人(政治家)に比べればである。

 参照文献 『ほんとうの構造主義 言語・権力・主体』出口顯(あきら) 『きみがモテれば、社会は変わる 宮台教授の〈内発性〉白熱教室』宮台真司(みやだいしんじ)