気候や環境のことをうったえることのもつ弱みと可傷性―排除のされやすさ

 グレタ・トゥーンベリ氏は国際連合のサミットで気候や環境のことについて演説をした。トゥーンベリ氏はスウェーデン出身で環境活動家として行動をしている。

 もともと、気候や環境のことというのは弱みをもつ。それがあるために、そのことをまっこうからうったえかけるトゥーンベリ氏にたいして、まだ子どもなのにとか、誰かに操られているとかといった批判が投げかけられることになった。

 気候や環境のことをまっこうからうったえかけるトゥーンベリ氏には可傷性(ヴァルネラビリティ)があるために悪玉化されやすい。気候や環境のことはもともと弱みを持っているうえに、トゥーンベリ氏がまだ子ども(十六歳)であるのも弱みとなる。

 気候や環境のことが弱みをもつというのは、それがないがしろにされやすいことをさす。わりあいにないがしろにされてしまいやすい。優先順位が引き下げられてしまいやすい。そこに弱みがあって、それはおかしいのではないかということで、もっと気候や環境を重んじなければならないという声を上げることになる。

 気候や環境のことが弱みを持っているのとともに、それをまっこうからうったえかけるトゥーンベリ氏もまたその弱みを引き受けることになる。背負うことになる。それで、トゥーンベリ氏によるうったえかけは、現実にとってうとましいということで排除されやすくなる。

 上方に排除されたり、下方に排除されたりする。上方だとうやまわれるが、下方だとさげすまれる。そうしたちがいがある。あまり上にたてまつりすぎるのは駄目だろうが、下にさげすみすぎるのもまたよくない。どちらかに偏りすぎないようにしたい。批判的に受容することはいるが、まともに(できれば中立や虚心に)声を受けとめることがいるだろう。

 世界と反世界ということでいうと、世界のおかしさというのがあって、それをうったえかけるのは反世界からの視点だ。世界はまったくもって非のうちどころがなく正しいというふうにしたて上げることはできづらい。気候や環境のことがないがしろになってしまっているのがいなめない。それについてを、反世界の視点から批判を投げかけるとして、その批判は世界から排除されてしまいやすいのがある。

 一か〇かや白か黒かといった二元論ではないので、完全に正しいものと完全にまちがったものというふうにはならないものだろう。絶対のものとして断定はできず、正しさやまちがいのていどをふまえないとならないのはあるが、一つの仮説としては、気候や環境にとってのぞましくないことが多く行なわれて、自然が壊されてしまっているのがある。それは人のせいにすることはできず、とくに先進国の大人たちに少なからぬ責任があることなのではないだろうか。

 哲学者のハンナ・アーレント氏は、何が悪なのかということで、それは思考を停止させることだと言っている。それでいうと、気候や環境について、きちんと思考を働かせているのかと言えば、それはそうとうに心もとないところがあるのだと見られる。気候や環境について、悪と言ってしまってもさしつかえがないようなところが先進国の大人たちにはあって、善だと言い切ることはできそうにはない。大勢や易きに流されてしまうような弱さがある。それぞれの人(大人)が悪いというのとは別に、構造の問題もまたあるだろう。

 ハンナ・アーレント氏はこうも言っているという。世界に埋没するだけなのではなくて、世界から撤退せよ。これは、現実や現状にただ埋没するだけなのではなくて、そこから離れてみることがいるということだ。忙しかったりせわしなかったりして動いていると、それはできづらい。あるていど以上の物理および精神のゆとりがあることが条件としている。そうして離れてみることによってはじめて現実や現状がもつおかしいところが色々と見えてくるようになる。現実や現状をよしとするだけではなくて、異化してみることもたまには必要だ。

 参照文献 「近代世界と環境問題」(「生活起点」No.五六 二〇〇三年一月) 今村仁司現代思想を読む事典』今村仁司編 『寺山修司の世界』風馬の会編