表現や言論の自由は、絶対で完全な自由を意味するものだとは言えそうにない―絶対性と相対性

 表現や言論の自由がある。その自由があるので、少数者を差別したり否定したりすることを言うは自由だ。ツイッターのツイートでそうしたことが言われていた。

 たとえ表現や言論の自由があるからといって、少数者を差別したり否定したりするようなことを言うのは、のぞましいことだとは言えそうにない。このさいの少数者とは、政治の権力者をのぞく。

 表現や言論の自由は、少数者を差別したり否定したりすることを言ってよいということを含意しているとは言えそうにない。それらを含意しているとは言えないので、たとえ表現や言論の自由があるからといって、少数者の権利などまったくどうでもよいということにはならない。

 絶対の自由か、それともまったく自由が無いか、という一か〇かや白か黒かの二元論であるのではない。現実は中間のところにあると見られる。

 絶対や完全の自由か、それともまったく自由が無いか、という二つではなくて、その二つの中間にあるのが現実だ。中間にありながらできるだけ自由を重んじて、自由が多くなるのがのぞましい。

 社会の中にはさまざまな価値があるので、たんに表現や言論の自由ありさえすればそれでよいというものではない。自由とともに、ほかにもそれに並び立つような重要な価値があって、たとえばそれには少数者の権利がある。

 民主主義においては、一つの権利(自由の権利など)だけがいちばん上にあるというのではなくて、さまざまな権利がお互いにけん制し合う。そうしたあり方になっているのだと、思想家のツヴェタン・トドロフ氏は言う。

 たった一つだけではなくて、さまざまなものによって成り立っていることから、できるだけ表現や言論の自由は大きいほうがよいのはあるものの、それはあくまでも自由ができるかぎり重んじられるのがよいということであって、絶対で完全な自由ということを必ずしも意味するものではないだろう。

 野球でいうと、ぜんぶの表現や言論がぜんぶストライクになるとは言えそうにない。中にはボールになるものがある。ストライクとなる範囲ができるかぎり広いほうがのぞましいが、中にはその範囲から外れるものが一部ではあるがある。

 ストライクとボールのあいだの分類線は、誰がどう見てもはっきりとしているというものではなくて、揺らいでいるものではあるだろう。そうではあるが、いちおう線はあるのであって、それは個別のそれぞれの状況によってもふさわしい線引きは変わるだろうが、許容できる範囲の内と外とがあると見るのが現実的だ。

 人々がほんとうに自由であるためには、みんなが平等に自由であることがいるのであって、自由というよりも(それとともに)平等であることも大切だ。また、形だけ自由であるのは、そうでないよりもずいぶんよいことであるにしても、ほんとうに内実から自由であるのと同じことではない。ある人は自由で別の人は自由ではないということにならないことがいるし、それぞれの人にとって(たんに形だけのものではない)内実からの自由とは何かということもまた問われなければならない。

 参照文献 『論理パラドクス 論証力を磨く九九問』三浦俊彦 『非国民のつくり方 現代いじめ考』赤塚行雄 今村仁司他 『シャルリ・エブド事件を考える』鹿島茂他編 『構造主義がよ~くわかる本』高田明典(あきのり) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ)