夢を見ることによる観念論と現実を見る現実主義のどちらが正しいか―二者の関係と三者の関係

 夢を見ることによる観念論か、それとも現実を見る現実主義か。そのうちで、現実主義が正しいものであるとして、D(ドリーム)と R(リアリズム)との対立による戦争がおきている。そう言われているのがあった。

 D と R というのだと二元論だが、じっさいには二つではなくて三つの関係になっているのだと見るようにするのがふさわしい。観念論かそれとも現実主義かという二つではなくて、現実と虚偽意識と批判という三者の関係によってとらえるようにする。

 政治においては、時の権力が、自分たちでこれが現実なのだと言うのは、現実そのものではなくて虚偽意識になっていることが少なくない。虚偽意識であるものを現実なのだということで自分たちに都合のよいようにカタル(語る)のである。それで時の権力にとって都合の悪い、批判に当たるものが排除される。

 人間の社会においては、二つのものが結びつくことで成り立っているのではなく、三つのものが最低はないとならない。三つのものがあって、その中の一つを排除することによって、残りの二つが結びつく。そういう仕組みになることが多い。一つのものを排除すると、それをなした残りの二つはお互いに同じだということで関係を持ちやすくなる。

 人間は模倣の欲望をもつとされるが、そこにおいては、二つではなくて三つの関係性となるのだと、文芸批評家のルネ・ジラールは言っているそうだ。二つの結びつきというのは真実のようでいてじっさいには虚偽だという。模倣する対象と主体とがじかに結びつくのではなくて、そこに第三者である媒介が入る。模倣の欲望というのは、欲望の欲望だ。社会の中においては、自分が何かを欲望するというよりは、他者が欲望するものを自分が欲望している。

 恋愛では、二人の人間が結びつきを深めて行く。そこにもう一人が加わると不倫の関係になることがある。恋愛は不倫の関係があったほうが盛り上がることがある。これは不倫がよいか悪いかというのは置いておいた上での話だ。不倫の関係というのは、一人の人間をめぐって二人の人間が争い合うという三者の関係になっている。そこでは二人の人間は互いの欲望を模倣し合っていて、他者の欲望を欲望している。

 現実ということについては、現実そのものは誰にもわからないものであって、じっさいには、現実はこうだという情報を介した疑似環境だ。その疑似環境が現実から離れすぎると虚偽意識におちいる。現実だとされる虚偽意識をお互いによしとする者どうしと、そこから排除される者、というふうに分かれる。排除される者は、虚偽意識について批判を投げかけることで、うとましいとされて排除されることになるのだ。

 中心に虚偽意識があるとすると、排除される者は、そこから追いやられて辺境に置かれることになる。それで、辺境に置かれることになるもののほうが、むしろ現実をとらえているということは少なくない。そういうことから、本当か嘘かといった二つで見るのとは別に、現実と虚偽意識と批判というふうに三つで見ることがないとならない。とくに、うとましいとされて排除されることになる批判している者の言うことを受け入れることが有益だ。

 参照文献 『交易する人間(ホモ・コムニカンス) 贈与と交換の人間学今村仁司現代思想を読む事典』今村仁司