税金どろぼうと、これまでの愚政や失政と、いまの暴政

 税金どろぼうということが、ツイッターのツイートで言われていた。そこには、できるだけ税金の助けを受けないことをよしとするような、恥のあり方が関わっているのではないだろうか。

 むしろ日本では逆に、税金どろぼうというよりも、税金によって救われるべき人が十分に救われていないというのがある。とり落とされている。うまいぐあいに救われるべき人が救われれば、効率性と公平性において理にかなっているが、現実はそうではなくて、非効率と不公平になっていると見られる。

 権力をもつ政治家や高級な役人による、公共政策のおかしさがある。低賃金の労働者が働いて得るお金よりも、生活保護の受給のほうが上回ることがあるのや、恵まれるのがある。これはとられている公共政策の調和が崩れていることを示す。

 権力をもつ政治家や高級な役人が、馬鹿みたいなお金の使い方をこれまでに(いまもまた)して来てしまっているために、国の財政の赤字がたまっているのだし、社会の中で救われるべき人が救われなくなってしまっている。

 もしも、権力をもつ政治家や高級な役人が、これまでに(いまもまた)馬鹿みたいなお金の使い方をして来ていなかったのであれば、社会の中が劣悪なあり方にはなっていないはずだ。理想とまでは行かないとしても、人(労働者)の人格権が損なわれたり、ヘイトスピーチやフェイク・ニュースや各種のハラスメントがたくさんはびこっていたりしていないはずである。

 すべてのことを、お上の責任にするのは必ずしも適したことではないかもしれないが、これまでの失政や公共政策の失敗や説明責任の欠如があることは、無視することができそうにない。それによって、社会の中の合意(コンセンサス)がとりずらくなっていて、統治(ガバーナンス)ができづらくなっている。

 正義というのは、社会の中において、人々を結びつけるつなぎの役を果たす。接着剤のようなものとしてはたらく。その正義が少なからず損なわれてしまっているのではないだろうか。不正義がはびこってしまっている。差別や偏見や排除などだ。これらを何とかするようにしないと、社会の中がばらばらになったり、分断化したり、階層化することが深刻化しかねない。

 参照文献 『大貧困社会』駒村康平(こまむらこうへい) 『罪と罰を考える』渥美東洋(あつみとうよう)