権利と特権はちがうので、権利についてはもっと認められることがあってよいものだというのがある

 さまざまな性の指向を認めると、同性婚を認めるのだけにとどまらないことになる。兄弟婚や親子婚やペット婚や機械との結婚をさせろとの声が出てくるかもしれない。自由民主党に属する議員は、雑誌の記事で、こうしたことを言っている。

 さまざまな性の指向を認めるとすると、兄弟婚や親子婚やペット婚や機械との結婚をさせろとの声がおきてくるということだが、やや荒唐無稽な例が入ってしまっている。同性婚を認めるのと、兄弟婚や親子婚やペット婚や機械との結婚をさせろとの声は、いっしょくたにしてしまわずに、それぞれを分けて見るようにすることができる。

 さまざまな性の指向を見て行くさいに、同性婚という一つを認めることで、そのほかの極端なものまで認めることになりかねないというのは、滑りやすい坂道の論法だろう。これは詭弁につながってくるところがあるので、そのままうのみにすることはできづらい。一つを認めることで、ほかの極端なものまで認めなければならないことには必ずしもならないのだから、一つひとつを見て行けばよいものである。

 一部から叩かれている自民党の議員は、雑誌の記事の中で、このようなことも言っている。常識やふつうであることを見失って行く社会は、秩序がなくなり崩壊してしまいかねないという。結婚の制度でいえば、男性と女性との結びつきが常識でありふつうであることだというのだろうが、これを改めて見れば、つくられたものであり、擬制(フィクション)であるのはいなめない。現実にはほころびがおきていて、うまく行かなくなってしまっている。家庭の崩壊というのは決してめずらしい例ではない。

 結婚の制度はつくられたものであり擬制であるのだから、常識やふつうであることとは必ずしも言えそうにはない。自民党の議員が雑誌の記事の中で言っていることは、一つの見かたとしては成り立つだろうが、それとは逆の見かたもまた成り立つ。秩序が人々にたいして抑圧としてはたらくのであれば、それをそのままにするのではなく、改めるのは一つの手である。

 常識やふつうであることをとるのではなく、それらをカッコに入れるようにして、疑うことがあれば有益である。常識やふつうであることは、それにしたがっていればよい方向につながるのを必ずしも保証するものではない。逆に悪くなることもあるのだから、その点に注意することがあるのがのぞましい。常識やふつうであることは、たんにある集団や社会の中でそう見なされているのにすぎないものであり、それを唯一にして絶対の価値とすることはできづらい。内において常識やふつうであることは、外から見れば非常識やふつうではないことになることがあるから、相対化して限定することが大切だ。常識やふつうであることは、それを自然なものとする神話作用がはたらいていることがある。