車やバイクの走って行く音がうるさいので、何とかならないものだろうかという気がした

 バイクや車が走って行く音がうるさい。たんに、ふつうのバイクや車であるのならまだしも許せる。しかし、改造してあって、ふつうの車やバイクよりもよけいにうるさいので、許容するのができづらい。

 改造してある車やバイクが、一台だけ通ってゆくのならまだよい。しかしこれが何台もえんえんと走って行くのである。休日の日中の、車やバイクが走るのにうってつけの道路では、改造した車やバイクが大きな音をたてて、ひっきりなしに走って行く。

 経済学では、共有地の悲劇だとか、外部効果だとかというのがあるそうだけど、そうしたものがはたらいているのだと見なせる。たとえ改造してうるさくしてある車やバイクでも、一台だけならよいだろうと、みなが思っていれば、たくさんの車やバイクがそこにやって来ることになるから、共有地の悲劇がおきることになる。うるさい音というのは、市場でお金がやりとりされるものではないから、外部効果(外部不経済)がはたらく。外部性がある行為がうながされているのである。

 改造した車やバイクがたてるうるさい音というのは、人間の暴力性をあらわしていると見ることができる。大きな音には人は受動的にならざるをえない。必要にして最小の音であればまだ許容できるかもしれないけど、ほんらい必要のないようなよけいなうるさい音を、車やバイクを改造することによってたてているのだから、受け入れづらい。

 哲学者の中島義道氏は、うるさい日本の私ということで、日本では音がうるさいことが多いということを言っていたと思うけど、それについては同感の思いがする。うるさいということは、暴力的なことだというふうに言ってもまちがいではないだろう。そのことに鈍感になってしまうから、なおさらまずいものである。