日本をとり戻す。そのとり戻そうとしている日本は、よいものだということだろうけど、その逆に悪いものだとしたらというふうにも見られる。悪いものをとり戻すということになってしまう。悪いものなのであれば、とり戻さないほうがよい。
日本をとり戻すというのは、日本的なあり方と言える。この日本的なあり方というのは、よいものとしてではなく悪い意味で言っているものである。日本をとり戻すというさいには、これまでしばらく日本でないものが主となっていたのを、それが駄目だというのがわかったので、日本をとり戻すという流れである。この流れはよいものだとは言えそうにない。
非日本と日本という二つがあるとすると、非日本になっているのを改めて、日本をとり戻すとなる。非日本は駄目なものだったとして、日本をのぞましいものとして価値づける。こうして見てしまうと、非日本と日本をねばりをもって見ることにつながらない。非日本の中にもよさと悪さがあり、日本の中にもよさと悪さがある。それぞれによさと悪さがあるというふうに見られればよいが、そうではなく、どちらかを駄目なものとして、もう一方をよいものとして割り切ってしまう。この割り切りは、日本的なあり方だと言える。
割り切ってしまう日本的なあり方は危ないものだと見なせる。できるだけ割り切らないようにして、ねばって見ることができればのぞましい。ねばらずに割り切ってしまうと、非日本を駄目だとして日本をよいとするとらえかたになる。これが危ないのは、日本をよいものとしているのが、ほんとうは悪いことがあるからである。悪いものをよいとしてしまうと、とらえちがえてしまい、悪い方へ進んでいってしまう。
非日本を駄目だとして、日本をよいものだとするのは、二元論によるものであり、これはそれぞれを実体化するものである。日本を実体化することになるが、非日本あっての日本なのであり、関係によるものなので、実体であるとは見なしづらい。実体なきものが日本なのであり、それはとり戻しようがない。よさだけをもつ日本というのは無いものであると言えるだろう。