反日や売国とされるものは不正義というのではなく、一つの実在ということがある(正義は単一となることがあるが、実在のありようは複数である)

 日本の負の面をえがいた内容の映画を、反日によるものであるとする。はたしてそうしたことが言えるのだろうか。かりに、日本のことを持ち上げるような内容の映画があるとしても、それが正しく日本の現実を映し出しているとは言い切れないのがあるから、そのまま受けとることはできづらいものである。

 日本のことを持ち上げるのが正しいとはかぎらないのだから、日本の負の面をえがいた内容だからといって反日売国だと決めつけることもできないだろう。反日売国として決めつけてしまうと、象徴化することになるが、そこから捨象されてしまうところに本当の現実があるとすると、それを切り捨ててしまうことになる。退廃(デカダンス)の現実というのがあるとすると、それをあらわすことがあるだろうし、映画は芸術でもあるから、芸術には退廃は欠かせない。

 反日売国と決めつけるのは、排除することであるが、排除されるものに本当の現実が映し出されているということがある。排除されているものは毒であり、表面としては薬ではないわけだけど、薬が毒になり、毒が薬になるといった転化がおきれば、逆のものになる。排除されるものは、中心から周縁へ追いやられるものである。追いやられることで周縁に位置づけられるわけだけど、周縁が中心のおかしさやまちがいをつくのがあり、それを受けとめることがあったほうがよい。

 日本のことをのぞましいとするのは、そうしたものとして日本のことを仕立て上げることである。しかし、日本のことをのぞましいものとして基礎づけることはできづらく、先見や予断による解釈がはたらいている。ものさしを当てているわけである。生の現実をうつしとっているとは見なしづらい。一つの文脈だけによらずに、二つ以上の文脈があったほうが、単眼にならないですむ。単眼よりは複眼のほうが情報量が多いので、そのぶん相対的に現実をすくいとりやすい。

 光があれば、闇もあるのであり、光だけに光を当てるのではなく、闇のところに光を当てることがいる。闇に当たるのは、社会の中の呪われた部分である。光が光であるという同一性は、仕立て上げているものであり、基礎づけてしまっているものだから、単数になっているのを複数化することができればよい。単数になっているのは、否定の契機である闇が隠ぺいされて抹消されているのによる。闇のところに焦点を当てることで、光が単数であるのを複数化することができる。ずらすようにする。闇がなければ光もないのだから、光のところよりも闇のところのほうがより重要だということも言えそうだ。