反対勢力だからといって工作員というわけでは必ずしもないだろう(反対勢力を陰謀勢力とすぐに決めつけるのは早計だ)

 立民は、北朝鮮の、工作員。このようなツイートがされていた。野党である立憲民主党は、北朝鮮工作員だというのである。五七五によるものだから、文ではなく、断言はされていない。そうではあるけど、少なくともそれを明らかにほのめかしているものである。

 立憲民主党は、野党であり、野党は与党にたいする反対勢力であるのが一般である。そうではない野党もなくはないだろうけど、反対勢力としての野党ということでは、与党にたいして批判をするのがあることがいる。なので、与党にたいして批判をすることはおかしいこととはいえそうにない。

 なぜ立憲民主党のことを北朝鮮工作員だというのだろうか。なにか具体の証拠があるというわけではないものだろう。与党のことを批判するから、北朝鮮工作員であると見なす。そうした見なし方をとっているとすると、与党のことを批判するから、北朝鮮工作員だとなるわけだけど、それは確実なことであるわけではない。

 与党のことを批判するからといって、北朝鮮工作員だとは決めつけられない。なので、与党のことを批判することから、北朝鮮工作員だというのは、必ずしも導かれないわけであり、そこには少なからぬ隔たりや開きがある。そこを批判することができる。

 北朝鮮工作員だと見なすのは、戦前や戦時中において、特定の人を非国民だと見なしたことに通ずるものがある。そのようにして、特定の人をすぐに非国民だと決めつけてしまうようなのは、寛容なあり方ではない。

 北朝鮮工作員は、国民にあらずということで、非国民だということになる。そのようにして、国民と国民にあらざるものとを分けてしまうのは、国家主義によるものである。国民と国民にあらざるものとで分けてしまうのに、待ったをかけることができればよい。国民とされる人であっても、まちがったいい加減な弁論をしていることがある。国民にあらざるものとされる人であっても、きちんとした弁論や批判をしていて、弁が立っていることがある。そうであるとすると、国民とされる人はだらしがないし、国民にあらざるものとされる人は立派である。

 国民と、国民にあらざるものというのは、国家主義からくるものであり、そうしたあり方がとられないようであればのぞましい。国民と、国民にあらざるものとはいっても、より正確にいえば、国民の代表と、国民にあらざるものの代表となる。代表という点では共通していることになる。代表というのは間接のものであり、直接のものではない。直接の国民からは、多かれ少なかれ隔たっているのである。ぴったりと一致しているものではない。それを、ぴったりと一致しているとするのであれば、それは虚偽意識(イデオロギー)であり、批判をすることができる。その批判をするのを、国家主義は、国民にあらざるものとすることになる。

 国民か、国民にあらざるものかというのは、二元論である。この二元論では、あれかこれかとなっていて、白か黒かとなっているものである。しかし、白か黒かしかないのであれば、色の選択肢が少なすぎる。白として見なされるものは、本当に白なのではないし、それは黒もまた同じである。白そのものというのも、黒そのものというのも、あるものではない。白そのものであるとしたり、黒そのものであるとしたりするのは、騙(かた)りである。

 国民は主体であり、実体であると見なすことはできづらい。国民であらざるものがいないのであれば、国民もまたいない。国民であらざるものがいることによって国民が成り立つわけだから、関係によるものである。その二つの関係のあいだに引かれる線は、国家主義においては揺るぎないものとされるわけだけど、じっさいにはそうとうに揺らいでいる。もともとが、国民や国民であらざるものは、どちらもが虚構の産物であり、共同の幻想によるものである。創作であり想像のものである。つくられた観念によるものであり、思いこみによるものだ。玉ねぎの皮を向いてゆくと、最後には何も無くなってしまうように、同一さの根拠には穴が空いている。差異によっているからである。