個人の闇と社会の闇(表面のうえでの繁栄としての光)

 九人の男女が殺害された。神奈川県の座間市でおきた事件である。容疑者の男性は、ウェブのソーシャル・ネットワーキング・サービスによって被害者と知り合った。容疑者の男性の自宅に誘いこみ、そこで犯行が行なわれたという。

 この事件について、容疑者の男性は特異な性格の持ち主だという意見がある。殺人を犯したり、遺体がそばにあったりしても、とくに動じない。こうした人は社会の中に一定の数で存在する。なので、社会学や心理学での分析はおそらく無効なのだというのである。

 こうした意見はまったく的はずれではないだろうけど、疑問に感じた。容疑者の人物の性格に原因や責任を帰属させることはできるが、それは個人要因としてとらえることになる。そのようにとらえることで、帰属エラーとなるおそれがある。

 容疑者の人物の性格に原因があるとするのは、そうした内的特性をもっているとすることであり、これは対応バイアスと呼ばれるものがはたらいている可能性がある。この可能性を避けるためには、個人をとり巻く状況の点について見てゆくことがいるだろう。

 殺人を犯したり、遺体がそばにあったりしてもとくに動じないのは、特異といえばそう言えるかもしれない。しかしながら、だからといってその人物がほかの普通の人と決定的に異なっているとは必ずしも決めつけられない。そこには、社会全体の問題がからんでいるのではないかという気がする。社会の底辺におかれてしまった人の一部がおちいらざるをえないような、経済の困窮や視野の狭窄がある。こうした苦境による希望のなさや虚無感のようなものが少なからず影響しているのがありそうだ。

 人格形成責任論というのがあるそうだ。これによれば、犯行を犯した人物がいるとして、その人の性格がかくある形となったのはすべて当人の責任というわけではなく、当人をとり巻いていた環境や社会にも少なからぬ責任があるとする見かたである。はたして社会が公平で公正なものなのかといえば、それは大いに疑問がもてるのがある。個人が生きてゆく中でかかえてしまう不安や脅威が、自己責任として片づけられてしまっているふしもある。そうした点はあるとして、それとは別に、やったことの悪さは確かにあるわけだけど。