まちがいなく白とは言い切れないのではないか(黒や灰色であっても大したことはない、とは言えるかもしれない)

 白さも白し富士の白雪だ。疑惑が一部から追求されている首相について、それをまったくの事実無根にすぎないというのである。身の潔白をうったえている。これは、首相に賛同している、地方行政の長だった人による発言である。

 ふつうに見たら、権力者のやることがまったくの真っ白ということはないだろう。一か所も汚れがないというふうにはちょっと見なしづらい。完全に黒だとするような、誰が見てもわかるような証拠はないにしても、それだからといって白になるとは言えないのがある。とりあえずは灰色であるとするのがよいのではないか。

 首相に賛同する地方行政の長だった人は、白さも白し富士の白雪だと首相のことを言っている。これは少し文学がかったというか時代がかった言い方のような気がする。時代劇のように、白か黒かの勧善懲悪みたいなとらえ方によっていそうだ。

 白か黒かということでは、日本のこれまでの歴史観にもつながってくる。日本のこれまでの歴史観を白とするのが、歴史修正主義であり自由主義史観である。これまでの日本は、白さも白し富士の白雪のようであり、そうしたよい歩みをほんとうはとってきたのだとするものだ。

 そうした白ではなくて逆に黒だとするのは、負の歴史を引き受けようとするような歴史の見なし方である。罪と罰ということで、国家が多大なる罪を過去に犯してしまったとする。とてもではないけど償いきれないようなものである。罰の一つとして、過去の負の歴史をごかまさずに、きちんと認めて見てゆこうとする気持ちをもつのは、当然の義務であるにすぎない。

 はたして白さも白し富士の白雪というのは、あらためて見るとどうなのだろうか。それは動機についてなのか、それとも結果についてのものなのかが分けられる。動機がまったくの純粋なものであるとすれば白なわけだけど、そうしたのは現実にはちょっとありえづらい。そんな聖人みたいな人が政治家をやっているものなのかは大いに疑問だ。それに加えて、内面の動機は本人にしか分からないものであり、忖度をはたらかせるのはあまりよくないことである。

 結果について見てみるとすると、まったくどこからどう見ても非の打ち所のないようなふうになるものではないだろう。危ぶまれる点があるとすれば、そこをくみ入れないのはちょっとおかしい。白と出るかもしれないし、黒と出るかもしれないとすると、白とは決めつけられないだろう。

 ある文脈からすれば白だけど、また別の文脈からするとそれが黒となる。そうしたことがあるとすると、ある一つの文脈から白とできたとしても、それは絶対化されないほうがのぞましい。東洋の陰陽の発想では、陰と陽は転化し合うものだという。一方が極まればもう一方に反転することがある。そうしたふうにして、動きによってすり合わせみたいなのができたらよい。

 いくら体によいものであっても、摂りすぎれば害になる。厳しい自然の中で生き抜くには、塩は薬のようなものとなるけど、いっぽうで塩を摂りすぎると体に毒である。食べものについていうと、そこには利と害があるのが見うけられる。利を白として、害を黒とすると、利だけをとろうとしてもうまくは行かないものだろう。作用における反作用のように、利の裏には害があるというふうに見なせる。白であるように見えても、ひっくり返せば黒であるのだとすれば、裏返して確かめてみるのがいりそうだ。

 まったくの白であるとして、白さも白し富士の白雪というふうに言ってしまうと、純粋をかたっていることになる。そのように見なしたいだとか思いたいだとかいうのはあるとしても、現実にそうだとはちょっと言えそうにはない。真実を白だとすると、そうしたのばかりを語ったら政治がむちゃくちゃになる。現実の政治を立ちゆかせるためには、どうしても黒もしくは灰色の嘘を混ぜて語らざるをえないものなのではないかという気がする。本人はそれを真実だとむりやり思いこむのはあるかもしれないけど。