憲法の改正をかかげるのはよいにしても、それとは別に、できるだけ正確な情報をもとにするのでなければ信用がおけないのがある

 教科書には、自衛隊違憲だと記述してある。自由民主党安倍晋三首相は、党首討論のさいにこのように述べていた。これについては、二重に正しくないおそれがあげられる。

 自衛隊違憲であるとはっきりと記述している教科書はさして見あたらない。そういう意見もあるとしているのが多い。そのうえ、違憲を匂わせているとしても、それはそもそも憲法がかかげる平和主義にずれているのではないか、としている。

 かりに安倍首相が言うように、教科書に自衛隊違憲だと記述されているとしよう。もしそうであるのなら、そこから憲法の改正に向かうのではなく、教科書の記述を改めればすむ。高度な政治の判断については断定を避けておく。そのほうがてっとり早いのではないか。教科書の記述に憲法を従わせないといけないとすれば、ちょっとちぐはぐだ。

 まず、現実の誤認というのがある。そして、それをもとにした対応のしかたのいかんがある。このさい、現実の誤認が一番目の誤りである。ついで、それをもとにした対応のしかたが二番目の誤りとなる。このようにして二重に正しくないことができあがってしまう。

 誤認とか誤りだとかいうのは、見かたが一面的になってしまっていたり、認知の歪みがはたらいていたりすることをさす。そうしたふうになるのはまずいから、なるべく気をつけられたらよい。

 そもそも憲法の改正をすることがほんとうにいるのか。改正をせずともほかに打てる手段はないのか。そうした点を見られたらよさそうだ。これはいわば、石破四条件のようなものである。石破四条件では、大学の学部の新規開設にいま一度の再考をうながす。そのために四つの条件をつけている。この条件の中身がはたして正しいのかどうかはとりあえず置いておくとして、決定の前に再考をうながすことに意味があると思うのだ。

 憲法の改正がほんとうにいるのかについては、いると断言する。そして、改正をしなくてもほかに打てる手段がないのかについては、ないと断言する。こうしたふうになってしまうと、自分が断言したことを疑うのがなくなってしまう。確証バイアスがはたらく。このバイアスは歪みであるから、ひどいものであるとまずい。いったん一次情報なり事実なりにあらためて立ち返る機会があったほうがよいだろう。

 憲法が硬さをもつのでなければ、やわらかくなる。そうしてやわらかいのだと、一回あらためて、またそれを元に戻して、またあらためて、なんていうふうになってしまいかねない。それだと不毛である。それを避けるために硬さをもたせるのがよいとされる。これは、一つだけではなく、いくつもの視点を関わらせるのをさす。見る角度が変われば、映り方もまたちがってくる。よっぽどおかしな見かたでないかぎり、色々な角度から見られたほうがよい。そうすることで理解が少しは増す。あせる必要はそれほどないだろう。

 憲法の改正をするのだけが正しい。こうしてしまうと、一つのあり方だけをよしとすることになる。こうしたあり方も現実にはとれるわけだけど、一か〇かや白か黒かになってしまうのを避けづらい。そうではないあり方もとれる。一か〇かや白か黒かとしてしまうと、きつくなってしまうが、ゆるくすることもできる。ゆるくするのなら、一でもよいし〇でもよく、白でもよいし黒でもよい。このようにしてゆるくする試みがあってもよいのがある。こうすることで、偽りの二分法におちいってしまうのを少しは防げる。

 自主憲法がのぞましいとは必ずしもいえない。そうしたのもある。というのも、自主的に憲法をつくったからといって、その中身がのぞましいものになる根拠がとくにない。場合分けできるとすれば、のぞましいものになることもありえるが、そうでないものになるおそれもある。どちらになるのかは定かではない。当事者が決めることと、当事者にとって(長い目で見て)益になるのとは、必ずしも結びつかないものである。そうしたのがあるから、国内外の識者からの助言や、国外ではどういうふうなのかや、戦前と戦後の対照さなどについての、比較と分析がじっくりと行なわれるのがあったらよさそうだ。