証拠の自然さ

 証拠の自然さとははたして何だろうかという気がする。基本として、ほとんどの証拠は、でっち上げられている可能性を持っているのではないか。というのも、証拠というのは、たまたまそれが残されていたというだけであって、あらかじめ事件がおきることを前もって予測して存在しているものではない。超能力による予知でもできないかぎりは、将来のことを確実に見通すことはできないものだろう。

 そうしてみると、人為的にでっち上げられているおそれがあるからといって、その証拠の信ぴょう性が損なわれることにはつながらないとも見ることができる。むしろ逆に、人為的にでっち上げられる可能性があるからこそ、その証拠は自然であるということもできる。細部まできちんとつくりこまれていて、まったく疑う余地のないような、非の打ちどころがないようであれば、そのほうが不自然なふうにも受けとれる。

 証拠をどういうふうに解釈するのかというのは、そこに見る人の先入見が入りこむから、そう簡単ではないのかもしれない。それをとりまく一連の流れや文脈との整合性もかかわる。証拠というのは一つの痕跡であるという気がするんだけど、その痕跡をどう見なすのかはやっかいなことがらである。疑おうと思えばどこまでも疑うことができるし、また逆に信じようと思えばどこまでも信じられてしまう。