問題の大小のちがい(図なのか、地なのか)

 政策にたいする議論がまるでない。そうではなくて、政策がどうかについてをお互いに勝負するべきではないのか。それをないがしろにして、瑣末なことがらに目を向けて熱心になるようでは本末転倒だ。政策で議論して相手に勝てないから、あげ足とりのように、とるに足りないところへ目を向けてしまうようになるのである。じつにくだらない。

 そうした意見は、たしかに的を得たものであるという気がする。そのうえで、そこに疑問をもつこともできなくはない。政策が話の中心になるべきだというのはたしかだとしても、それが全てであるとは言い切れない面もある。あんがい、一見するととるに足りない細かい問題にこそ、本質につながる重要な問題があらわになっていることもありえる。

 森の全体を見ていても、どこに核となる負の問題があるのかはとらえづらい。なので、森のなかの一本の木なんかに着目することで、そこをしつように追求するというのは一つのやり方である。このような方法をとらないで、ただばく然と森の全体を眺めてそれがよいだとか悪いだとか言うだけでは、一向にらちがあかない。森の全体はたとえ充実しているように見えても、その中のある一本の木がなにか変に虚ろな響きをたてているのなら、そこに何か本質的な問題が隠されていることが少なくない。

 政策についての話し合いというのも、じっさいにはけっこう難しいところがありそうだ。というのも、かりに今おこなわれている政策が間違っているとして、その非を相手が指摘したところで、当事者がはいそうですかと素直に認めるとは考えづらい。間違いを間違いと認めるのは、当事者の沽券や名誉に関わるせいだろう。そういうのを抜きにして、たんに政策の是非だけを純粋に話し合うのは現実には難しいのではないか。

 かりに今おこなわている政策が正しいものであるとしても、だからといってそれ以外の細かいところの問題を大目に見ることにはつながらないのもある。それとこれとはまた別の問題だと見ることができる。ただそうはいっても、別な問題であるからといって、政策であるとかまたは間近の大きな事態をないがしろにしておいて、とるに足りない細かいことにかまけっぱなしではまずい。

 けっして小さいとは言いがたいような腐敗がある。それを大目に見て水に流すとすれば、その条件としては、よほど政策なんかがうまく行っているときに限られるのではないかという気もする。もしそこまで(万人が認めるくらいに)政策や行政の運営がうまく行っているとは言いがたいのであれば、腐敗を大目に見て水に流すまでにはいたらない。かりに腐敗が小さなものであったとしても、ぼやのうちにきちんと正しておいたほうがよい。でないと、のちのちすごく大きな火があがってしまいそうだ。