他者との交通

 社会関係のなかでの交通のありかたがある。これは他者との関わりであり、また自分との関わりでもある。それで、しばしば単交通(一方通行)のようになってしまうところがある。そのようなふうではなくて、できれば双交通(双方向)であるのがのぞましい。しかし、このように口で言うのはたやすいが、じっさいにやるとなると難しいこともたしかだ。

 社会関係のなかでは双方向(ツーウェイ)である双交通であるのがのぞましい。そのほうが、自己と他者との関わりにおいて、お互いの意思疎通が柔軟におこなわれるからだ。共同したり協調したりする余地ができる。

 交通が一方向(ワンウェイ)であると、単交通になってしまう。単交通になってしまうとは言え、もしそうだとしても、別によいではないか。いったい何が問題となるというのか。そのように言うことができる。問題になるとすれば、それは独断におちいりやすくなってしまう点があげられる。

 一方向の単交通だと、専制主義的になりやすい。自分(たち)が上であり、相手が下だ。または、自分(たち)は正しく、相手はまちがっている。こうした態度になると、専制主義的な言動をとるようになる。なぜなら、正しさを自分(たち)が独占しているとなるからだ。

 自分(たち)が上だとしたり正しいとしたりする。そうした認識をもったとしても、必ずしも悪くはないではないか。少なくとも、自己卑下におちいったり自己蔑視をしたりするよりは、ましなのではないか。自信をもつのはよいことだ。不信に悩まされるよりかはよい。光と闇があるとすれば、光の側でありたいものではないか。それが自然といえば自然である。

 光と闇があるとして、闇を選ぶというのも、変といえば変だ。陰気であるよりは、陽気なほうが何となく景気もよさそうである。あえて不景気に振るまうことはない。光には明らかな効用がある。ただ、光のもつ危険性というのもまた無視できない。両義性がある。

 光は、いっけん正しいようだが、気をゆるすとたやすく野蛮に転じる。強い支配への誘因をもつ。こうした支配と被支配の図式によって、近代の歴史上の悲劇が多く生まれてしまったのも否定できない。多くの暴力が振るわれ、生命価値が損なわれた。その痕跡がいまも残っている。

 不信をもつよりかは、自信をもっていたほうがよい。気分もそれだけ上がる。あえて自虐を選ぶことはないだろう。なぜ自分(たち)を上にではなく下に置かなければいけないのか。こうしたことが言える。ひとつには、あまり自信をもちすぎると権威主義を呼びこむ。それでなくても、いったいに日本では権威が幅をきかせるふしがある。われわれの心理的な不確実感に、つけこんできてしまう。知らずうちに、他の意に沿うように自分(たち)が動かされてしまうことになりかねない。うかつな軽信につながるところもある。

 光と闇は、いっけんすると質がちがうようにも受けとれる。しかし、闇もまた光の一種であるとも受けとれるそうなのだ。画家のポール・セザンヌはこのように言っているという。以下がその引用である。デッサンとは二つのトーンである白と黒との対照の効果として生まれてくる。影は輝きがより少ない部分である。影もまた色なのであり、光である。光と影とは二つのトーンのあいだでの相関関係でしかない。

 絵画にはくわしくないから、表面的な受けとり方をしてしまっているかもしれない。そのうえで、このセザンヌの言うことをふまえてみると、二者の質のちがいであるとしていたのを、改めて見直せる。構造として見る。絶対化するのではなく相対化するきっかけがつかめそうだ。歩み寄りみたいなことができればさいわいである。というのも、もし歩み寄れないくらいに厳しい対立となってしまうと、専制主義的な言動になってしまうし、主義や主張の宣伝(プロパガンダ)に終始してしまいかねない。主義や主張の宣伝とは、イデオロギーと言ってもさしつかえないだろう。