改革に耐えうる頑丈さの見こみ

 アメリカは建国当初のころは、もともと孤立主義だったらしい。なので、そのころにまた戻ろうとしているわけなのだろうか。過去への憧憬だ。ただ、そのころと違うのは、経済のグローバル化が定着してしまっている点だろう。主権国家として、一国で決められる部分が少なくなっている。統制や効力がきかせづらい。そうした国際的な政治の根本の前提をふまえたほうが、とりあえずは妥当といえそうである。あきらめにはなってしまいそうだが。

 グローバル化の流れに抗えないとすれば、不可抗力や不可逆性がはたらいているわけである。しかし、あえてそこに抗おうとすることにも、まったく意味がないとはいえそうにない。たとえ見せかけだけであるにせよ。ただ、抗うにしても、川の流れに逆らうような不毛さも出てくる。時代錯誤になってしまうおそれがありそうだ。いま置かれている現状の前提条件をまったく否定してしまうようではまずい。

 あたかも、批評でいわれる、精巧にできた壺のように現実がある、とも見られる。どこか一部であっても、無神経にいじると壊れてしまうおそれがあるわけだ。効率化が進んだせいで、思っている以上にもろくなっている。また、現実の社会は、山のように動かしづらい。そうした動かしがたさについても、あえて強圧的に動かしてしまうことで、吉と出る可能性もわずかにはあるかもしれない。人為による、設計(企て)の発想だ。

 一国のなかにおいては、山のように動かしがたい現実に、多くの人がひそかに耐えしのんでいるような現状もありそうだ。欲求不満がしだいにたまってゆく。耐久戦のようなところもなくはない。

 文豪の夏目漱石は、科学の線的な発展が人間をどこに連れて行こうとしているのかに、得体の知れなさと不気味さを見たのだという。科学とはちょっとちがうけど、グローバル化なんかについてもまた当てはまりそうだ。グローバル化は巨視的にはそれなりに合理的なのだろうけど、益が具体的には分かりづらい面もいなめない。恩恵が偏っているとも見ることができる。

 現実の微妙なつり合いがもし崩れてしまえば、一気に国そのものが、あるいは世界そのものが流動化(難民化)するおそれもありえなくはない。連鎖反応がおきる。そこがちょっと怖い気がする。

 歴史に客観的な法則はないだろうけど、一説には、歴史は単純から複雑へ、そしてまた単純へ戻るというのがあるそうだ。それでいうと、いまは複雑さから単純さへ戻る地点にあるといえるかな。複雑な内部の問題を、外部の存在者のせいにしてしまうのは、単純さを求める気持ちのあらわれかもしれない。

 あらゆる行為は治療的である、とも言えるそうだ。そのさい、用いる薬なんかが、両面価値を持っていることに注意がいる。薬には効能だけでなく、副作用がつきものだ。それに、良薬だと思っていたものが、いざ試してみたら毒薬だったといったこともなくはない。ドミノ倒しのようにして、うまくもくろみ通りにことが運び、ねらったドミノが倒れてくれるとはかぎらないのが現実だろう。そこをむりに押し通してしまうと、呪術のようになってしまうから、危ないところがある。