こじらせる

 作家の雨宮まみ氏が亡くなったと報じる記事をみた。40歳であるという。正直いって、著作を読んだことがないので、詳しいことは分からないのだが、こじらせ女子のフレーズを考案して流行らせたのは功績とされている。これは、自意識や性についての自己評価をこじらせているといった意味だそうである。

 こじらせとは、ポスト・モダンなありようをとらえたものであるともいえそうだ。モダニズムにおいて、これまでの社会の古い呪縛から多少なりとも解きはなたれ、型にはまらなくてもすむようになった面がある程度はある。そうした解放の裏では、暗影として、自己証明(アイデンティティ)を失いがちになってしまうようになる。

 どういった目標をもって、どういう方向に進んでゆけばよいのか。その解答はなかなか得られない面がある。いろいろな助言や、分かりやすい物語などは世に多くあるにはあるが、既成品としてのそれらは、うまく自分に合うとはかぎらない。サイズが合わない洋服を着るみたいになることもある。

 資本主義の一辺倒となってしまった今では、自分たちがどこの地点にいて、これからどこに進むのかがわかりづらくなっている。自分を持つ(保つ)ことが困難になりやすい。現状や状況をたしかに分析することができづらいところがある。

 われわれの存在感とは、あたかもプールに敷きつめられた大量の砂のうちのたったひと粒にすぎない。そうした指摘もされているようだ。社会としての価値の面である、象徴がうまく機能していなく、一体感をもちづらい。まるで根無し草のようになってしまうとしてもおかしくはないのである。かといって、昔にかえれといった単純な発想も的を得ているとは必ずしもいえそうにない。

 雨宮氏が名づけたこじらせ(女子)の現象は、おそらくひとつの原因にあてはめることができないものなのだろう。人によっていろいろな事情をかかえ、いろいろな重荷を背負っている。そのうえで、資本主義のなかで、人もまた商品として市場のなかにすえられ、厳しい評価にさらされる。それも、必ずしも公平とはよべない基準ではかられてしまう。

 その行きすぎの先に、生きる意欲を削いでしまうような、人を物としてあつかう現状があるのではないか。その現状を少しでも改めることがいるのではないかという気がする。社会のなかに、もっと抜け道のようなものをつくることもいりそうだ。そうすることで、多様性をより得やすくなる。