佐川急便が中国製の電気自動車を導入するそうだ

 佐川急便が、中国製の電気自動車の導入を決めたという。二〇三〇年までに約七二〇〇台のすべての配送の軽自動車を電気自動車に切り替えるという。

 中国でつくられた電気自動車を佐川急便がとり入れることを決めたことから、もう佐川急便はこれから先は使わないといったことが、ツイッターのツイートでは言われていた。

 佐川急便が中国でつくられた電気自動車をとり入れることを決めたことは、よくないことだったのだろうか。これから先はもう佐川急便は使わないと言われるほどに悪いことだったのだろうか。

 中国でつくられた電気自動車を日本で使うようにすることが、中国の国を利することになり、それが日本の国に悪くはたらくのかどうかは定かとは言えそうにない。

 まずひとつには、中国の国はあまりにも大きい。巨大な国なのが中国だ。そこでつくられた電気自動車だからといって、それを日本で使うようにすることが悪いとはいちがいには言い切れないだろう。

 どこかひとつの企業に悪いところがあるといったことであればまだわからないではない。たとえば具体としては日本の有名な化粧品の会社は、会長が差別や憎悪表現(hate speech)を行なっているのがある。政治の公正(political correctness)からして会長がよくないことを言っている化粧品の会社は悪いということは言えるだろう。

 ひとつの企業ではなくて、さまざまな企業をかかえる国である中国は、何々である(is)に当たる。何々であるから何々であるべき(ought)を導けるかといえば、それは誤りになるのがある。自然主義の誤びゅうだ。

 どこであったとしても自動車は製品としてはそれなりにつくれるのがある。自動車の製品をつくるには、それをつくるのにいる生産手段があればよい。

 生産手段とは、そのものを形づくるための材料や技術などだ。それがあればそのものをつくれるといった必要となる条件だ。飲みもののコーヒーを生産するのであれば、生産手段としてはコーヒー豆と水とコーヒーミルクと砂糖とコーヒーメーカーの機械とやかんと電気などがあればよい。

 生産手段がありさえすれば、機能としてそれなりによい自動車の製品はつくれるものだから、どこの国でつくられたものなのかはあまり重大な意味あいはもたないものだろう。ものは英語では goods と言われるのがあり、もとから良いものの含意をもつ。はじめから悪いものをつくってやろうといったことは基本としてはあまりないものだろう。

 ものとしての機能や品質の点では、中国でつくられたものだからといってそれが悪いとは言い切れそうにない。それなりによい機能や品質があるのであれば、中国でつくられたものであったとしてもとり入れる。佐川急便はそうしたあり方によっているのかもしれない。そのあり方は経済の点からすると合理性があると言えるだろう。あくまでもものとして見たさいには、それなりによい機能や品質をもってさえいればそれでよいのがある。情をさしはさむものではなくて、もっと乾いた経済の合理性の動機づけ(incentive)によって動く。

 効率性と適正さの点からすると、まったくもって非の打ちどころがないほど適正な企業はまずないものだ。経済において利益をあげるには効率性を優先させざるをえない。叩けば何かしらのほこりが出てくるのがある。たとえ中国の企業であったとしても、または日本の企業であったとしても、完ぺきに適正な企業はありえづらい。さがせばどこかには悪いところがあるのにちがいない。とんでもなく悪いことをしているのならまずいが、多くはていどの問題である。ていどの問題なのは企業だけではなくて国にも言えることだ。一か〇かや白か黒かの二分法では割り切りづらいものである。

 日本の物流においては、そんなにゆうちょうでゆとりのあることを言ってはいられないのがあるだろうから、そうとうな企業の努力が行なわれていて、佐川急便もその例外ではないのがありそうだ。ウェブでの販売などによって、個人の家への宅配がかなり増えているのがあり、日本の物流は危機におちいっていると言われているのがある。佐川急便にたいしてきびしい目が向けられることとは別に、日本の物流の全体はこれから先においてもまちがいなく大丈夫だとは言い切れない。物流が崩壊したら大変だから、そこについての心配を完全に払しょくすることはできそうにない。

 参照文献 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『物流大崩壊』角井(かくい)亮一 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一

汚染水を処理した処理水を海洋に放出することと、理と気

 トリチウムはそれほど危なくない。危なくなさを知らしめるために、復興庁はトリチウムのかわいらしい漫画の絵のキャラクターをつくっていたという。少しでもあたりを柔らかくしようといったことでのものだろう。

 理と気でいうと、あたりを柔らかくしようとするのは気に当たるものだ。気によるのだとごまかしになってしまうのがあり、子どもだましのようになるのがある。ふさわしいやり方だとは言えそうにない。放射性物質の危なさは理つまり現実主義(realism)によってあつかうべきものであり、それを気によってあつかおうとするのは取りちがえになる。日本は理がいるところでそれが欠けて気に走ることが少なくなく、復興庁がトリチウムを漫画化することにそれが見てとれる。

 放射性物質をふくむ汚染水を処理した処理水を海洋に放出することを政権は決めたが、それは正しい政治の意思決定だったのだろうか。処理水の海洋への放出には反対の声がおきていて、そこには理と気の両方が関わっているのだと見られる。風評の害がおきることは、気に当たるのがある。気だけではなくて理もまた関わっている。

 気に当たることとしては、処理水を海洋に放出することの正当性についてがある。正当性があるかどうかでは、上から政権が一方的に決めるのではみんながよしとはできづらいことになりやすい。

 風評の害がおきるのがあり、その害がおきることで損をこうむる人たちが政治の意志決定の過程にきちんと参加しているようでなければならない。害がおきて損をこうむる人たちが政治の決める過程に参加していないで排除されているようだと、包摂性が欠けている。

 処理水を海洋に放出することを政権が決めたさいに、強引に上からの理によって決めたのだと、それがほんとうに正しいものなのかには疑問符がつく。これが正しいのだといったことで、政権が上からの理によって強引にものごとをおし進めるのはまずさがおきてくる。

 もう決めましたといったことで、政権が政治の決定をしてしまうことで、ものごとが既成事実化される。日本が既成事実に弱いことを悪用することになる。もう決まったことなんだからそれに従えといったことであれば、ものによってはそこにほんとうに正当性があるのかどうかがきびしく問われなければならない。空気を読ませるような集団思考(groupthink)がはたらくと集団がまちがった方向に向かってつっ走って行ってしまう。

 日本で原子力発電所をつくるさいに、理であるよりも気によってそれをおし進めてきた。理によるのよりも、気であるお金を大量に流すことによって原発をたくさんつくってきたのである。原発はよいものだといったことで、安全神話が形づくられてきた。気である大量のお金が原発をよしとする広告の宣伝に使われていたのである。気である原発にかかわるお金が芸能界などの色々なところに流れていたとされる。

 日本の社会のなかの負のところである呪われた部分に当たるのが原発についてのことがらだ。呪われた部分である原発についてを見て行くさいに、政権が決めたことなのだからそれが正しいのだといったことで、そこに完全な理があるのだとしてしまわないようにしたい。

 原発には予測ができづらいところがあり、科学では完全に制御できないところがあるから、完全な理はなりたちづらく、不完全な理にならざるをえない。日本は自然災害が多くて地震国だから、その条件をくみ入れると、原発を完全に予測して科学によって制御し切れるとは言えそうにない。

 完全に安全なものであり、完ぺきに安心してしまえるとは言えないところが原発にはあり、絶対にぐらつかない確かな土台に乗っかっているものではないだろう。原発の土台はぐらつきや不たしかさがあり、非の打ちどころがないような自明性を持っているのではない。

 原発にかかわることがらである、処理水を海洋に放出することは、完全にまちがいがないような自明性を持っているとは言い切れず、まったくもって正当なものだとしたて上げたり基礎づけたりできないおそれがある。

 原発にかかわることがらが、十分ではない理によっておし進められたり、気である大量のお金を流すことによっておし進められたりしてきたのがあるから、そのいびつさによるゆがみやひずみがあることはいなめない。小さくないゆがみやひずみがあり、理が失われているところがあり、不満の声である気がおきてくるのがある。不満の声をふくめて、もっといろいろな声があげられるようにして、正当ではないところが明らかになるほうがのぞましい。

 参照文献 『韓国は一個の哲学である 〈理〉と〈気〉の社会システム』小倉紀蔵(きぞう) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『絶対幸福主義』浅田次郎 『情報生産者になる』上野千鶴子 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『きずなと思いやりが日本をダメにする 最新進化学が解き明かす「心と社会」』長谷川眞理子 山岸俊男

放射性物質をふくむ汚染水(処理水)を海洋に放出するべきかどうか―海洋への放出には反対の声もあげられている

 汚染水を海洋に放出することに反対する。ツイッターのツイートなどではそうした声が言われている。

 福島県原子力発電所の事故によって、放射性物質をふくむ汚染水がたまりつづけている。この汚染水を科学技術によって処理して、中に含まれている放射性物質をとり除く。その処理水を海洋に放出することを、与党である自由民主党の政権は決めた。政権がそう決めたことは正しいことなのだろうか。

 たしかに、汚染水をためつづけるのはずっとできることではなくて、ひとつの説としてはあと一年くらいでためておくための場所が一杯になってしまうという。だから汚染水を科学技術によって処理水にして海洋に放出することは一定の合理性があるのだと政権は見なしているのだろう。

 汚染水を処理した水を海洋に放出すると、風評の被害がおきる。それが危ぶまれている。そこから処理水を海洋に放出することに反対の声があげられている。風評の被害がおきることはありえることであり、それがおきることで地域の漁業の関係者などに大きな害がおきることになるから、ないがしろにすることはできづらい。

 政権が処理水を海洋に放出することを決めたのは、いっけんすると科学の合理性があるかのようでいて、少なからぬ引っかかりをおぼえるところがある。個人としては政権が決めたことには引っかかりをおぼえるところがあり、それはなぜなのかといえば、政権に科学のゆとりが欠けているうたがいがあるからだ。

 政権には政権の利害関心がある。そのいっぽうで、処理水を海洋に放出することに反対の声をあげる人たちには政権とはまたちがった利害関心がある。おたがいの利害関心がちがっているので、そこから処理水をどのように処理するか(海洋に放出するかどうか)についての対立つまり政治がおきているのだ。

 処理水を海洋に放出することに反対の声をあげる人たちがもつ利害関心があり、その枠組み(framework)は政権がもつ利害関心による枠組みとはちがっている。反対の声をあげる人たちは、漁業の関係者をふくんでいて、生活がかかっているために、切実なのである。政権がもつ枠組みには、生活がかかっていることからくる切実さが欠けていて、そこをとり落としているのはいなめない。

 枠組みのちがいがある中で、政権がもつ枠組みは正しいのかといえば、かならずしもそう見なすことはできないところがある。自民党は与党ではあるが、すべての国民をくまなく代表しているとはいえず、国民のうちの一部分しか代表していない。自民党が政党(political party)だからである。国民のうちの一部分(part)を代表しているのにすぎないから、すべての国民の声をすくい上げているのではない。

 原発についてを科学によって中立に見なしているのが自民党の政権だとは言えそうにない。政権がもつ枠組みはゆがんでいるうたがいがあるので、原発についてまちがった意思決定が行なわれる見こみはそれなりにある。そこが引っかかる点である。

 政権が決めた処理水の海洋への放出にもそれなりの科学の合理性があるのだろうが、そのことについてを改めて見て行くようにしたい。政権がほんとうに国民のすべてにとってよくはたらくような政治の決め方や進め方をしているのかどうかには少なからぬ疑問符がつく。そこをうたがうことができるので、政権が言うことをそのまま丸ごとうのみにはできづらい。

 たとえいっけんすると政権が決めた処理水の海洋への放出が科学として合理性があるかのように見なせるのだとしても、ほんとうに国民のすべてにとってよくはたらくような全体の最適(global optimal)になるようなものごとの進め方だとは言えない見こみがある。政権が決めたことは部分の最適(local optimal)にすぎず、部分の最適のわなにはまりこむものである見こみがある。

 国民のすべてにとってよくはたらくようにして、よりよい最適化をなすためには、人々が自由に色々な声をあげられるようにして、政治のものごとができるだけていねいに慎重に進められることがいる。政権は科学のゆとりが欠けているように見えるのがあり、そこが危ぶまれる点だ。

 処理水をどのように処理するかは、原発にまつわることがらだが、原発は日本の社会がかかえる負のところである呪われた部分だといえるものだ。自然の災害が多い地震国である日本にとって原発は危険性が大きいものであり、科学の技術でそれを制御できるかどうかは確かではない。日本の政治は無責任の体制になっているために、いざとなったさいにだれが責任をとるのかが定まっていない。

 参照文献 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ 『現代思想を読む事典』今村仁司

ミャンマーの軍事政権に見られる、政治における絶対論と相対論とのあいだの矛盾や分裂

 ミャンマーでは七〇〇人ほどの国民がこれまでに軍事政権によって殺されたという。そのなかで軍事政権がとっている行動についてどのようなことが言えるだろうか。

 軍事政権がとっている行動についてを絶対論と相対論の二つによって見てみられるとすると、その二つのあいだのずれや矛盾を軍事政権はかかえている。

 いうことを聞かずにさからう国民を殺している軍事政権の行動は絶対論によっている。国家の公を絶対化するものだ。国家の公を肥大化させて個人の私を押しつぶす。

 どれくらいの正しさが軍事政権にはあるのかといえば、それについては絶対論はなりたたない。不たしかで心もとない正しさによっているのが軍事政権であり、まちがいなくたしかな正当性をもっているとは言いがたい。相対論になっているのだと言わざるをえない。

 絶対論がなりたつのであればものごとを割り切れる。それがなりたたないのであれば絶対の合理性はなりたたない。相対論によることになり、ものごとをかんたんには割り切れない。相対の合理性によることになる。

 政治における相対主義の表現が民主主義なのだと法学者のハンス・ケルゼン氏は言う。政治においてまちがいなく正しいといったことで絶対論によるのではないようにして行く。まちがいなく正しいといった絶対論によってしまうと、相対論による民主主義を超え出てしまい、絶対化された教義(dogma、assumption)によることになる。

 ミャンマーの軍事政権は絶対論によっているが、そのことによってかえって絶対論がなりたたないことが示されているところがある。絶対論によって軍事政権が正しいことを完全に基礎づけたりしたて上げたりすることができない。一か〇かや白か黒かの二分法では割り切れないのである。

 絶対論によることでかえって相対論のあり方が浮きぼりになっている。絶対論によるのだと科学のゆとりを欠く。科学のゆとりを欠くことによって、勝とうとするのがかえって負けにいたる。負けることがかえって勝つことにつながる。ことわざでは負けるが勝ち(stoop to conquer)と言われるが、何が何でも勝とうとすることでかえって勝つことから遠ざかってしまい、実質としては負けているのに等しくなる。

 純粋な正しさはなりたちづらい。純粋な正しさによるのだとするのは絶対論によるものだ。純粋な正しさによるのは、それによってまちがった方向に向かってつっ走って行ってしまう危なさをもつ。社会の中には人それぞれによってさまざまな思わくの遠近法(perspective)があることが切り捨てられてしまい、捨象されてしまう。じっさいの社会の中にはいろいろな人々によるさまざまな遠近法があり、それが実在の社会のありようである。

 かくあるべきの純粋な正しさによってしまうと、絶対論によることになり、社会のなかのいろいろな人々によるさまざまにある遠近法をとり落とす。ことわざでは十人十色(It takes all sorts to make a world.)と言われているのがある。社会をなすのには、いろいろな人々によるさまざまな遠近法がいるのがあり、その実在のかくあるあり方を切り捨てないようにしたい。かくあるべきを、かくあるよりも優先させてしまうと、まちがった方向に向かってつっ走って行ってしまうおそれが高まる。

 絶対論による完全な正しさによっているつもりが、かえって不完全さや不たしかさがあらわになる。絶対論と相対論とのあいだの分裂が引きおこる。時代の状況が相対論によっているのがあり、絶対論による大きな物語がもはやなりたちづらくなっているのである。ミャンマーの軍事政権による物語は絶対化されるのではなくて相対化されざるをえない。

 スマートフォンなどの高度な文明の利器を個人が持てる。情報化が進んでいる時代の状況があるので、国の政治の権力が悪いことをやったらそれが広まりやすい。ことわざでは悪いことはすぐに広まりやすい(Bad news travels fast.)と言われる。スマートフォンなどの高度な文明の利器を個人が持てるのがあるから、できごとを記録化してほかのところに広めることができやすい。文明の利器の発達を無視することはできづらい。

 いくら絶対論によってまちがいのない正しさをとろうとしても、相対論とのあいだに矛盾が引きおこることになり、正と誤とのあいだの分類線が揺らぐ。正が誤に転じて、誤が正に転じるといったことがおきてくる。正と誤とのあいだにはっきりとした分類線を引きづらくなっているのが相対論によるあり方であり、それが浮きぼりになっている。

 あくまでも絶対論はなりたたず、相対論しかなりたちづらい。大きな物語はとれず、小さな物語しかとりづらいのをくみ入れるようにして行く。相対論によるようにしたほうが、民主主義によりやすくなり、絶対論と相対論とのあいだにおきる分裂や矛盾を小さくできる。

 いきなり全体の最適(global optimal)をなそうとするのではなくて、少しずつ部分の最適(local optimal)を行なうようにして行く。部分の最適のわなにはまることに気をつけるようにする。そこを気をつけることがおろそかになると、思いきり部分の最適のわなにはまりこんでしまう。ミャンマーの軍事政権は部分の最適のわなにはまりこんでいるうたがいが小さくない。

 参照文献 『相対化の時代』坂本義和 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『正しさとは何か』高田明典(あきのり) 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『〈現代の全体〉をとらえる一番大きくて簡単な枠組 体は自覚なき肯定主義の時代に突入した』須原一秀(すはらかずひで)

化粧品の会社の会長による自然主義の誤びゅうと、日本の無責任の体制

 NHK はほとんどが在日の朝鮮の人たちで占められている。NHK は在日の人たちにのっとられている。NHK は日本の敵であり、不要なものだから、つぶすべきだ。テレビの広告では在日の人が多く起用されているのが目だつ。化粧品の会社の会長はそうしたことを言っていた。

 化粧品の会社の会長が言っていることにたいして、NHK は人権の侵害をうれえるような内容の番組を報じた。在日の人たちへの差別や憎悪表現(hate speech)が行なわれていることを番組のなかでとり上げて、それを人権の点から問題であるとしている。

 NHK は在日の人たちによって占められているとか、のっとられているとか、日本の敵に当たるものだといったようなことは当たっていることなのだろうか。

 化粧品の会社の会長は、在日の人たちが NHK をのっとっていて、在日の人たちはもはや日本の社会のなかの少数派ではなくて多数派だといったことを言っている。それがはたして事実だと言えるのかの点においては、信ぴょう性や信頼性がとぼしいものだと言わざるをえない。

 たしかに、NHK にはまずいところがいろいろにあり、いろいろに批判されるべきなのはあるが、それを在日の人たちのせいだとは言うことはできない。NHK にいろいろとまずいところがあるのは日本の社会のなかの多数派である日本人にそのもとがある。NHK は国家のイデオロギー装置の色合いが強く、自律性(autonomy)がない。それを在日の人たちのせいにするのは責任の転嫁にすぎないものだろう。日本の社会のなかにある無責任の体制の悪い性格があらわれ出ている。

 多数派が少数派を否定したこととしては、ナチス・ドイツユダヤ人をせん滅(genocide)していったことをあげられる。ナチス・ドイツは多数派を代表していて、少数派であるユダヤ人を悪玉化(scapegoat)したのである。それで少数派に排除の暴力をふるった。

 なぜナチス・ドイツユダヤ人を悪玉化したのだろうか。集団が危機にみまわれると、集団の中の少数派がやり玉にあげられやすい。少数派に排除の暴力がふるわれやすくなる。それが見られたのが、ナチス・ドイツユダヤ人をせん滅していったことだ。ユダヤ人が集団のなかで可傷性(vulnerability)をもっていたためである。

 ナチス・ドイツに見られたのは自然主義の誤びゅうだ。ユダヤ人であることの事実(is)から、何々であるべきの価値(ought)を導いたのである。それと同じように、在日であることの事実から、何々であるべきの価値を導くのは誤りであり、まちがいのもとである。日本人であることの事実から、日本人は優れているといった価値は導かれないのがあり、自民族中心主義(ethnocentrism)におちいらないように十分な注意をしたい。

 歴史の縦の軸を見てみれば、日本の社会のなかで多数派である日本人が優とされて、少数派である在日の人たちは劣とされてきた。そのあり方がとられつづけてきて、いまにまでいたっているのである。日本が帝国主義朝鮮半島を植民地支配していたときからそうしたあり方がとられてきた。

 縦の軸によって見てみれば、日本の社会のなかで多数派の専制がおきていて、少数派である在日の人たちに排除の暴力がふるわれることがあった。関東大震災がおきたあとに、在日の人たちが暴動を引きおこすといったデマが言われて、在日の人たちが殺されたのである。そこで殺された人の中には、誤って在日の人だと見なされた日本人を含む。

 縦の軸からすると、日本の社会のなかの多数派である日本人は、どちらかといえば被害者ではなくて加害者だ。多数派である日本人を加害者ではなくて被害者だとするのは、とらえちがいになる。多数派である日本人を被害者だとしてしまうと、化粧品の会社の会長のような見なし方になってしまい、他に責任を転嫁することになり、日本の社会のなかにある無責任の体制の悪い性格があらわになる。歴史修正主義におちいる。危機の管理ができず、危機から逃げつづけることにしかならない。日本の社会のなかにある負のところである呪われた部分から目をそむけつづけるようになる。

 NHK の番組のなかでとり上げられたように、差別や憎悪表現が日本の社会のなかで行なわれないようにして行きたい。NHK のなかでどのような人たちが組織の中核を占めているのかとは別に、日本の社会のなかで基本の人権(fundamental human rights)が守られるようにして行く。人権が侵害されないようにして行く。

 修辞学の議論の型(topica、topos)の比較からの議論によって、お互いの言っていることを比べて見てみられるとすれば、化粧品の会社の会長が言っていることは劣で、NHK の番組で言われていることのほうが相対的には優だ。化粧品の会社の会長は、自分の本音のようなものをぶちまけてしまっている。会長の信念は現実とずれているのがあるから、修正されることがいるものだろう。そうとうに認知がゆがんでいるおそれがある。

 国家の公によって個人の私が否定される。それによってとくに否定されることになるのが少数派であり、在日の人たちをはじめとした少数派の人権が侵害されないようにしたい。国家の公の道具や手段として個人の私があるのではないから、個人の私のそれぞれのちがいを認めるようにして、ちがいを否定するようなことがないようにしたい。ちがっていながらも同じであるといったようなあり方になるようにして、個人の私が尊重されるようにしたいものである。

 参照文献 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦NHK 問題』武田徹 『公私 一語の辞典』溝口雄三現代思想を読む事典』今村仁司編 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『差別と日本人』辛淑玉(しんすご) 野中広務(ひろむ)

ウイルスの感染がふたたび広まり出しているのは、国民の気のゆるみのせいなのか―心でっかちな精神論による見なし方

 国民の気がゆるんでいる。そのせいで新型コロナウイルス(COVID-19)が日本の社会のなかでまた広まり出している。専門家はそう言っている。国民の気がゆるんでいるせいでウイルスが広まってしまっているのだろうか。

 国民の気のゆるみによるのだとするのは心でっかちな見なし方だろう。精神論によるものだ。

 どのようなことでウイルスの感染の広まりがふたたびおきてしまっているのだろうか。それを見て行くさいには、その要因をできるだけ体系として見て行くようにして行きたい。日本の社会が苦手としているのは、要因を体系として見て行くことである。ウイルスの感染を防ぐなかで日本の社会がもつ苦手なところがあらわれ出ている。要因を体系として見られていないうたがいがある。

 修辞学の議論の型(topica、topos)の因果関係からの議論で見てみられるとすると、ウイルスの感染がふたたび広がっているのは結果だ。その結果がどういった原因によっておきたのかを見て行く。結果がおきてから原因をさかのぼって見て行くのがあり、そこで国民の気のゆるみが原因だと言われても、時すでに遅しといったところがあり、事後になって気のゆるみのせいだと言われても、後づけの理由のようなところがある。

 何のせいかわからないのではまずいのがあり、とりあえず何かのせいにしなければならないから、気のゆるみが持ち出されているようなふしがある。もしもウイルスの感染が広まり出したとしたら、国民の気のゆるみのせいにしておこうとか、気のゆるみのせいにしてしまおうといったような手だてに利用されているところがないとは言えない。

 ウイルスの感染を防ぐ中で、国民ができることをやって行く。そのことについてを悪いのとふつうとよいの三つに分けてみたい。悪いのはやるべきことができていない。ふつうはそれなりにできている。よいはかなりできている。

 たとえ国民の気がゆるんでいるのだとはいっても、国民がやるべきことをほとんどやっていないとは言えそうにない。それなりにはやっているのはあるだろうから、悪いとふつうとよいの三つに分けた中では、ふつうくらいにはなっているものだろう。悪いからふつうに引き上げるのはそれほどむずかしくはないだろうけど、ふつうからよいに引き上げるのは難しい。国民にそうとうな誘因(incentive)がはたらかないとそれはできづらい。

 ウイルスの感染を防ぐために、このようにするべきだといったようなあるていどの大まかな方向性はあるから、その中で悪いからふつうに引き上げる誘因はそれなりにはたらく。そこまではできるとしても、ふつうからよいに引き上げる誘因ははたらきづらい。ふつうにとどまりつづける誘因がはたらいてしまう。

 ふつうにとどまりつづける誘因がはたらくのは、のび悩み(slump)があることを示す。のび悩みの現象がおきている中で、そのことを国民の気のゆるみのせいだとするのは、現象の原因まで深く掘り下げた見かただとは言えそうにない。

 そもそもの話として、ふつうからよいに引き上げるのは難しいのがあるから、そうとうなやる気がなければそれはできづらいだろう。国民がまったく気がゆるみ切ってしまっているのではないだろうし、あるていどのやるべきことはやれているのはあるだろう。少しくらいはやるべきことはできているのはあるだろうから、それより以上を求めるのであれば、そもそもの話として、かなり難しくなってくる。

 たとえ国民に気のゆるみがあるのだとしても、その気のゆるみ方は色々に見なせるのがあるから、修辞学で言われる多義またはあいまいさの虚偽におちいるところがある。国民の気がまったくゆるみ切っているのではなく、そうかといって気が引きしまっているのでもない。気がゆるみ切っているのではないのは、気がゆるみ切っているよりかはよいことだが、理想と言えるほどには気が引きしまってはいない。

 国民の気がゆるんでしまう誘因がはたらく。気がゆるむような誘因が色々にあるのだとすると、それをとり除くようにするのは手だろう。気がゆるんでしまう誘因として、政治の時の権力のことを信頼することができない。公人である政治家や上級の役人が政治においてうそを多くついているために、言っていることが信頼できない。公人である政治家や上級の役人が悪いことをやっても甘く許されている。上に甘くて下にきびしい二重基準(double standard)になっている。こうしたことがあるから、国民の気がゆるんでしまう。気をゆるませることになるもとである、政治における不正を改めるようにすることがあったらよい。

 参照文献 『きずなと思いやりが日本をダメにする 最新進化学が解き明かす「心と社会」』長谷川眞理子 山岸俊男 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『「こつ」と「スランプ」の研究 身体知の認知科学』諏訪正樹(すわまさき) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一

障害者は文句を言わずに感謝するようにするべきなのか―社会の排除と包摂と等生化(normalization)

 声をあげるよりも感謝をせよ。障害者の人は不満の声をあげるのではなくて満足をするべきだ。そう言われているのがある。そこで言われているように、障害者は不満の声をあげてはならないのだろうか。いまのあり方に感謝をしなければならないのだろうか。

 民主主義においては、たとえ健常者であれ障害者であれ、どのような人であったとしても、不満の声をあげられることがいる。不満の声をあげずに感謝するようにするべきだとするのは、心でっかちなあり方だ。精神論になっている。

 感謝をするように強いるのは心でっかちなものであり、そうではなくて制度を改善して行くべきだろう。障害者に心でっかちなあり方を強いるのではなくて、不満があるところをどんどん言ってもらう。批評(criticism)をしてもらう。健常者では気がつかないところに気がついてもらうようにする。日本の社会のあり方を等生化(normalization)するさいにいることだ。

 健常者だけが包摂されて、障害者は排除されてしまう。そうならないようにして、障害者も十分に包摂されるようにして行く。そのためには障害者に感謝を強いるような心でっかちなあり方ではなくて、健常者の側が変わらなければならない。健常者の側が変わるようにしなければ等生化ができない。障害者が十分に包摂されるようにならない。

 障害者が不満の声を自由に色々に言えるようにして行く。それを受けて健常者の側が変わるようにすることが等生化が意味することである。交通においては、健常者の側が変わることによって、障害者が包摂されやすくなれば、異交通になる。日本の社会には異交通が見られず、健常者が優位に立ったあり方になっていて、障害者が十分に包摂されているとは言えそうにない。

 日本の社会は心でっかちになっていて、精神論のところが大きいために、異交通ができていない。たとえ制度に足りないところがあったり、環境に悪いところがあったりしても、不満の声をあげづらい。不満の声をあげたとしても十分にすくい上げられづらい。等生化が十分にできていなくて、健常者の側が変わらないままでいるのである。そこを改めるようにして、健常者の側が変わるようにして行く。そうして行かないと、障害者が十分に生きて行きやすいようになりづらい。

 障害者が十分に生きて行きづらい社会は、健常者もまた生きて行きづらい社会と言えるだろう。おたがいのあいだに相互作用がはたらくことからするとそう言えるのがあり、おたがいのあいだの交通をおこさせるようにして、よりよい等生化されたあり方になって行くような異交通になることを目ざすべきだと見なしたい。

 参照文献 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『きずなと思いやりが日本をダメにする 最新進化学が解き明かす「心と社会」』長谷川眞理子 山岸俊男福祉国家から福祉社会へ 福祉の思想と保障の原理』正村公宏(まさむらきみひろ) 『心理学って役に立つんですか?』伊藤進

夏の東京五輪はひらくようにするべきなのか―五輪のあるべきあり方

 出場する選手のためにも、夏の東京五輪をひらくべきだ。そう言われているのがあるが、はたして五輪をひらくようにするべきなのだろうか。人それぞれによっていろいろな見なし方ができるのにちがいない。

 たしかに、五輪がひらかれることを楽しみにしている人はそれなりにいるものだろう。どれくらいそうした人がいるのかは定かではないが。

 新型コロナウイルス(COVID-19)の感染が社会のなかで広まっている。そのなかで五輪をひらくかどうかを決めるのは難しいのがある。その難しさはあるものの、それとは別に、そもそもの話として見てみたい。

 そもそもの話として見てみられるとすると、そもそも五輪はひらかれないほうがよい。そのように見なしてみたい。このさいの五輪とは、いまの形での五輪をさす。いまの形の五輪は商業主義になりすぎている。そこにおかしさがある。

 極大と極小の二つがあるとすると、極大のかたちでの五輪ではなくて、極小のかたちにする。そのようにして五輪をひらくべきだろう。できるだけ商業主義をもちこまないようにする。職業的なプロフェッショナルな選手は出場しないようにして、アマチュアだけの大会にする。こぢんまりとした大会にする。

 大会をひらくところはつねにギリシャに固定化すれば、いちいちどこでひらくかを悩まないですむ。洋服を着ることでいえば、持っている洋服の数が多すぎると、どの洋服を着るべきかが決められなくなりやすい。たった一着しか洋服をもっていなければ、どの洋服を着るべきかで悩むことがない。はだかで町に出ることはできないから、洋服を着るか着ないかではあまり悩まないものだろう。悩むことでかかることになる労力や資源が大幅に節約される。

 極大のかたちだと、商業主義になりすぎてしまい、不純なものになって行く。いろいろなものに利用されることになってしまう。そうなってしまうのを改めるようにして、極小の簡素なものにして行く。極小にすることによって無駄なものが削ぎ落とされることになり、何が核となるところなのかが見えやすくなる。

 盛り上がるようにするよりは、その逆に盛り下がるようにして、落ちついたものにする。落ちついたなかで、平和の祭典であることから、世界の平和に思いをいたすようにする。世界のさまざまなところで争いがおきているのがあるとすると、その現実を見すえながら、平和の価値によって現実のまちがったところを批判して行く。

 五輪をひらくことを決める過程のなかで五輪に関わる日本の組織ではさまざまな不祥事がおきている。これの意味するところは、五輪に関わる日本の組織による目的の喪失だ。五輪がもっている目的を見失っていることをあらわす。目的と手段が転倒していて、手段が自己目的化されている。

 いまいちど改めて見直すことができるとすると、他律として慣習になっているいまの形の五輪をそのままひらくのではなくて、それを自律として反省して行く。いまの形の五輪をただひらくだけなのであれば、他律の慣習によるだけである。ただたんに五輪をひらくようにするだけなのであれば、自明性があることになるが、そこを異化して行く。

 大会をひらくかひらかないかとはちがった視点として、自明性があるものとしてだけ見るのではなくて、異化するようにしてみて、極大の形を改めて極小の形にすることを探るようにしてみてもよいものだろう。異化して見てみるようにすれば、極大の形の大会のあり方を相対化することができるし、いろいろな批評(criticism)がなりたつものだろう。盛り上がるのをよしとするのだと、その盛り上がりの中で負のところがごまかされてしまいやすいが、盛り下がるようにして落ちついて見るようにしてみれば、異化しやすいのがある。

 参照文献 『シドニー! コアラ純情篇 ワラビー熱血篇』村上春樹 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『超入門!現代文学理論講座』亀井秀雄 蓼沼(たでぬま)正美 『倫理学を学ぶ人のために』宇都宮芳明(よしあき) 熊野純彦(くまのすみひこ)編

こども庁をつくることと、大人の社会のまずさ

 子どもは国の宝だ。子どものためにこども庁をつくる。与党である自由民主党菅義偉首相による政権はそう言っている。菅首相の政権が言っているように、こども庁をつくることは必要なことであり、よいことなのだろうか。

 たしかに、子どもは国の宝と言えるのがあるから、子どもを大切にすることはいることだろう。子どものことを大切にしようとするのであれば、こども庁をつくるのは悪いとはいえないが、それよりも先におとな庁をつくることがいる。そう言えるのがあるかもしれない。

 悪い大人がいる。強壮になった子どもだ。子どものような大人だ。思想家のトマス・ホッブズ氏はそう言う。

 国会において少なくとも百十八回を超えるうそをついたことが明らかになっている与党の自民党で首相をつとめた政治家がいる。政治においては、自民党で首相をつとめた政治家をふくめて、悪い大人は多い。与党である自民党の中にそれが目だつ。政治家は表象(representation)であり、国民そのもの(presentation)ではないから、うそをつきやすくて、悪い大人になりがちだ。すべてのうそが悪いとは言えないにしてもである。

 大人による社会がちゃんとしていなくて、悪いところがいろいろにある。大人の社会が悪くなっていると、それが子どもの社会に反映されてしまう。大人の社会とこどもの社会とのあいだに相互作用がはたらく。そう見なしてみたい。

 相互作用がはたらくさいに、負の相互作用がおきてしまう。大人の社会が悪くなっていて駄目になっているのが、子どもの社会に反映されてしまう。大人の社会の悪さや駄目さを放ったらかしにしておいたままで、子どもの社会だけをよくすることはできづらい。なぜかといえば、子どもの社会をよくしようとするのであれば、それをよくしようとする大人の社会がまずよくなっていないとならないからである。大人の社会がよくなっていないで、悪さや駄目さを抱えたままだと、こどもの社会にたいして悪い指導のしかたになりかねない。

 じっさいに子どもの社会にたいして悪い指導のしかたを、大人の社会がしてしまっている。それは大人の社会が悪さや駄目さを抱えていて、それを放ったらかしにしているせいだろう。

 子どもにたいする学校の教育では、日本の国をよしとするような心脳の操作が行なわれている。日本の国がしでかした過去の負の歴史を隠ぺいすることが行なわれている。これは子どものためになる教育のあり方だとは言えそうにない。

 日本の国は国民の心の中に入りこもうとするところが強い。国民の心脳を操作しようとする。そのことに警戒するようにして警戒しすぎることはないだろう。悪い大人が子どもの心脳を操作しようとする思わくをもっていないとは言いがたい。日本の国の公のために個人の私を否定させるような、よこしまな思わくをもっていないとは言えそうにない。きびしく見ればそう見なすことがなりたつ。

 こども庁をつくるのは悪いとはいえないが、それよりも先におとな庁をつくるようにする。大人の社会を少しでも改善して行く。大人の社会のいちじるしい退廃(decadence)や腐敗から目をそむけないようにして行く。大人の社会が抱えている呪われた部分をとり上げて行く。

 男性と女性とのあいだの格差などの、階層(class)の問題がさまざまにあるから、それらを少しでも片づけるようにして行きたい。大人の社会が壊れてしまっているのがあるとすると、そこを何とかすることがあったらよい。それが壊れているおおもとには社会の中の階層の問題つまり不平等があるから、不平等がそのまま固定化されつづけるのではないようにしたい。平等さによる社会(social)をとり戻して行く(つくり上げて行く)ようにしたいものである。

 参照文献 『心理学って役に立つんですか?』伊藤進 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『社会 思考のフロンティア』市野川容孝(いちのかわやすたか) 『心脳コントロール社会』小森陽一 『日本が「神の国」だった時代 国民学校の教科書をよむ』入江曜子 『社会階層 豊かさの中の不平等』原純輔(じゅんすけ) 盛山(せいやま)和夫 『リヴァイアサン 近代国家の思想と歴史』長尾龍一 『うその倫理学』亀山純生(すみお) 『公私 一語の辞典』溝口雄三

アメリカのドナルド・トランプ前大統領による自己正当化と、政治家によるカタリ

 大統領だったさいに、さまざまなよいことをなした。さまざまな政治の成果をなしとげた。アメリカのドナルド・トランプ前大統領はそう言っている。

 ウェブのさまざまなソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)からしめ出しをくらっているのがトランプ前大統領だ。SNS にかなり依存していたトランプ前統領は、自分で SNS を立ち上げて、そのなかで自分で自分のことをほめたたえているようだ。

 政治家が自分で自分のことをほめたたえて美化する。自分のことを崇拝させる。あたかも独裁国家の独裁者をほうふつとさせるものだ。独裁者は超越の他者になり、その下にいる者たちを動かして行く。下にいる者たちを自発に服従させるのである。他律性(heteronomy)による。

 さかんに自分がなしたことを自分でほめたたえているのがトランプ前大統領だ。ことわざでは能あるたかは爪を隠すと言われている。爪を隠すのではなくてさかんにおもてに出していっているのがあり、それからするとトランプ前大統領にほんとうに能があるのかには疑問符がつく。にせものの爪であるかもしれない。

 トランプ前大統領が自分で SNS を立ち上げて、その中で自分で自分のことをほめたたえていることに見うけられることとはいったいどのようなことだろうか。トランプ前大統領は政治家としての自分の成果をほこる中で、SNSアメリカの大統領を象徴する図(紋章)に似せたものを用いているのだという。

 トランプ前大統領がもっているだろう思わくは、自分のことを正当化することである。政治家だったさいに自分がなしたとする成果をほこることによって、自分を正当化する。そのさいにアメリカの国にちなむ感情の象徴(miranda)や知の象徴(credenda)を用いているのである。

 アメリカの国にちなむ感情の象徴や知の象徴を用いることで、人々に集団の陶酔を引きおこす。人々に集団としての酔いをもたらす。そこから目ざめることをはばむ。人々が集団としてずっと酔いつづけてくれていれば、トランプ前大統領が権威を持ちつづけることができる。

 しばしば国の政治家が行なうのがカタリであり、自分のことを正当化することだ。それが見てとれるのがミャンマーの軍事政権のあり方だ。ミャンマーの軍事政権は自分たちがやっていることがあくまでも正しいとしているのであり、自分たちのことを正当化するカタリによっている。他からの批判を受けつけない閉じたあり方だ。

 政治家は表象(representation)であり、国民そのもの(presentation)ではない。表象であるために政治家は国民そのものとのあいだにずれをもつ。国民にたいしてうそをつく。政治家が自分のことを正当化することを言っているさいに、そこにうそが少なからず含まれている見こみは低くはない。

 上から正当化することによって、それを下に押しつける。上から下に正しさを押しつけるのだと、国家の公が肥大化して、個人の私が押しつぶされる。国の政治家が自分たちを正当化するさいに上から下に正しさを押しつけがちだが、そうではないようにしたい。

 民主主義は人々がいろいろに声をあげることをよしとするものだから、人々が下からいろいろな声を自由にあげられるようにして行く。政治家が自分たちを正当化するカタリにできるだけまどわされないようにしたい。国家の公が肥大化しないようにして、個人の私が守られるようにすることがのぞましい。

 参照文献 『政治家を疑え』高瀬淳一 『民族という名の宗教 人をまとめる原理・排除する原理』なだいなだ 『新書で大学の教養科目をモノにする 政治学浅羽通明(あさばみちあき) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『討論的理性批判の冒険 ポパー哲学の新展開』小河原(こがわら)誠