不正義と(集団の)不祥事―不正義を正すことと不祥事がおきることと、集団のあり方のよし悪し

 アメリカの大統領の選挙での不正のうたがいがある。それと、その不正に反対する中でおきたアメリカの連邦議会の議事堂にデモの参加者が乱入した犯罪がある。この二つを比べてみられるとするとどういったことが言えるだろうか。この二つについてを不正義と(集団の)不祥事としてみたい。

 アメリカの大統領選挙で不正があったのかどうかは、それがまちがいなくあったのだとは言い切れないので可能性にとどまっている。そのいっぽうで、アメリカの連邦議会の議事堂にデモの参加者が乱入した犯罪はじっさいにおきたことなので事実だ。

 大統領選挙においては不正義があったうたがいがあるのにとどまっていてそれは可能性の話だ。そのいっぽうでアメリカの連邦議会の議事堂に乱入した犯罪はじっさいにおきたことだからその不祥事がおきたことは事実だ。そこから、可能性としての不正義と、事実としての不祥事だとできる。

 可能性と必然性の二つをいっしょくたにはしないで切り分けるようにしてみたい。この二つをごちゃ混ぜにしないで切り分けられるとすると、この二つはそれぞれで次元がちがう。受験生が受験を受けるとして、志望校に受かるかどうかは可能性の次元に属する。受かるかもしれないし受からないかもしれない。どちらでもありえるのでどちらもなりたつ。結果が合格か不合格かが発表されてそれを確かめに行ったあとは、受かったかそれとも落ちたかのいずれかのうちの一つであり、必然性の次元に属する。受かったかそれとも落ちたかのどちらか一つしかなりたたない。

 可能性としての不正義と事実としての不祥事がある中で、あとのほうの事実としての不祥事についてをとり上げてみたい。あとのほうについてをとり上げるさいに、なぜ事実としての不祥事がおきたのかを見てみられる。なぜ事実としての不祥事が現象としておきたのだろうか。その現象がおきたことの要因は一つだけではなくてさまざまにあるのにちがいない。そのうちで大きな要因としては、ドナルド・トランプ氏を支持する集団のもつ性格にあるのではないだろうか。

 集団のもつ性格において、その集団がもっているおきてがある。集団の中のおきてが、外の社会の法の決まりよりも重んじられてしまう。法の決まりよりも集団の中のおきてのほうがより重んじられると集団の不祥事がおきやすい。

 集団のあり方として不祥事がおきづらいのとおきやすいのとがあるという。集団が内に閉じていて、外に開かれていない。集団が求める利益を追い求めすぎる。集団に属している人が集団に強く参与(commit)しすぎている。集団のもつ自己同一性(identity)への同化の度合いが強い。集団の中に埋没してしまい、集団から離れた一人の個人としての主体的な判断をもちづらい。こうしたあり方になっていると不祥事がおきやすいところがあるという。

 事実としておきた不祥事であるアメリカの連邦議会への乱入の犯罪を重く見られるとすると、その責任の主たるところは集団の長に当たるトランプ氏にある。そう見られるのがあるかもしれない。集団の長としてトランプ氏が超越の他者となり、支持者の一部は超越の他者によって他律(heteronomy)として動かされる。

 ゲシュタルト心理学では図がら(figure)と地づら(ground)を反転させられるとされるのがある。それでいうと、トランプ氏とその支持者の一部が形づくる集団においては、アメリカの大統領の選挙で不正があったとすることが図がらに当たり、アメリカの連邦議会の議事堂に乱入した犯罪は地づらに当たるものだろう。それを反転させられるのがあり、連邦議会の議事堂に乱入した犯罪のほうを図がらに当てはめことができて、そちらの事実としての不祥事のほうをより重んじて見てみられる。

 事実としての不祥事のほうをより重んじて見てみられるとすると、そこから言えることとしては、まっとうではない集団のあり方から不祥事がおきてくることがあるので、そのあり方を改めるようにすることだ。まっとうな集団のあり方になるようにして、外にたいして開かれるようにして、できるかぎり法の決まりを守って行く。集団の内と外の社会とのあいだで二重基準(double standard)にはならないようにして行く。そうすることがひいては社会の全体の中で不正義がおきることを防ぐことにつながって行くのではないだろうか。

 集団のあり方と正義とが相関していると見なせるとすると、まっとうではない集団のあり方になっているとそこから正義が損なわれることがおきかねない。集団の中で不祥事がおきやすくなる。それを防ぐためにはまっとうな集団のあり方になるようにして行く。国などの大きな集団にも危険性はあるが、小さい集団(部分集団)だと同質化の圧力がよけいにきつくはたらいてしまうことがあるとされていて、そこに気をつけたい。集団の中の和のしばりがきつくはたらく。

 小さい部分集団のもつ同質化の圧力などの危なさに気をつけるようにして、なおかつ大きな集団のもつ危なさにも気をつけるようにして行きたい。世界の全体からすれば一つの国は小さい部分集団だから、その中での同質化の圧が強まりすぎて国家の公が肥大化しないようにもして行きたい。国家の公の肥大化がおきないようにして個人の私を重んじて行く。全体と部分の大と小は相対的なちがいにすぎないものだから、より上位(meta)の全体からすれば一部分に当たることになり、たとえどのような集団であったとしても同質化の圧力が強くなりすぎる危なさがつきまとう。

 参照文献 『個人を幸福にしない日本の組織』太田肇(はじめ) 『法律より怖い「会社の掟」 不祥事が続く五つの理由』稲垣重雄 『考える技術』大前研一現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『岩波小辞典 心理学 第三版』宮城音弥(みやぎおとや)編 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『論理的に考えること』山下正男

アメリカの大統領選挙で不正があったとされることと、新大統領の就任式は行なわれなかったとされること―はたして何を信じたらよいのかと、真相はいったいどこにあるのかと、ものごとの構築性(非客観性)

 アメリカの大統領選挙は盗まれた。不正があった。それなのにもかかわらずジョー・バイデン氏が新しいアメリカの大統領についている。バイデン氏の大統領の就任式は映像が架空につくられたものであり、じっさいにはそれは行なわれていない。

 アメリカで新しい大統領がついたことの流れの中でそうしたことが言われているのがあるが、それらについてをどのように見なすことができるだろうか。人それぞれによっていろいろな見なし方ができるのにちがいない。その中で、人類が月にたどり着いたことになぞらえられるのがあるかもしれない。

 アメリカが人類ではじめて月にたどり着いた歴史のできごとがあるが、これが行なわれたときには、それは嘘だとする声がおきたのがあったという。月にたどり着いたのだとはいってもその映像は架空につくられたもののおそれがある。だからほんとうは人類は月にはたどり着いてはいない。そうした声がおきたのである。

 人類が月にたどり着いたのかどうかは、大がかりなできごとだから、いろいろな人が関わっている。いろいろな人が関わっている中でそのすべての人をだますことはできづらいから、かかわっているすべての人がだまされているのだとするのは合理性が低い。見かたとしてはそう見られるのがあるから、人類が月にたどり着いたとするのがいちおう合理的だとされる。

 国の政治のもよおしはかなり大がかりなものだから、それにかかわっているすべての人がみんなきれいにだまされているとはやや見なしづらい。じっさいのところはわからないのはあるかもしれないが、かかわっている人がみんな漏れなくきれいにだまされているとはしづらいので、政治のものごとがいちおうはそれなりにきちんと実行されているのだとすることにはそれなりの合理性がある。

 うたがおうと思えば色々なものをうたがえるのはたしかだが、何のどこをうたがうのかがある。いろいろなもののいろいろな点についてをうたがい出したら切りがないのもまたたしかだ。より上位(meta)のところや土台や枠組みのところについてをうたがうことがなりたつ。国のような大きなものごとになると、それがまちがいなくあるのだとすることには飛躍や跳躍がつきまとう。

 どこまでがうたがえることでどこまでが信じられることなのかがむずかしい。何もかもをすべてうたがうとなるととりつく島やよすがとなるものがない。そこには終わりがなく底がない。底なしであり、そこが底だとおもったらそこは底ではないといったことになる。底となる根拠があるのだとしても、その根拠の根拠の根拠の、とさかのぼるとどこまでもつづいて行き無限に後退して行く。

 たとえうたがわしさがあるのだとしても、それだからといってそこにまったく少しの信ぴょう性や合理性もないとはいえそうにない。多くの人を巻きこむような大がかりなことなのであれば、それに関わっているすべての人をきれいに漏れなくだますのにはそうとうな大きな労力がかかるから、逆にだますことに合理性がなくなってくるところがある。

 演繹(えんえき)として完全に真や偽であることをしたて上げたり基礎づけたりすることはできづらいのがある。上から演繹で完全に真や偽と言うことはできづらいから、下からの帰納(きのう)によって見てみられるとすれば、それなりの真や偽といったことにとどまる。

 下からの帰納によるとすると、いろいろな人を巻きこむような大がかりな政治のもよおしでは、それに関わっているすべての人をだますことは逆にむずかしい。きちんと行なわれるべき政治のもよおしがあって、それが行なわれたと公に伝えられているのであれば、公に言われているとおりにいちおうはそれがきちんと実行されたのだとする仮説をとることができる。

 政治のもよおしがいちおうは行なわれたのだとする仮説はあくまでもさしあたってのものにすぎず、その中にまちがいを含んでいるおそれはあるが、その点については、それとはちがう仮説をとるのだとしてもそれと同じことが言えるのがある。たとえどのような仮説をとるのだとしてもいずれにしてもその中にまちがいを含んでいるおそれがあり、非の打ちどころがないほどの完全な合理性をもっているとは言いがたい。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫反証主義』小河原(こがわら)誠 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『愛国の作法』姜尚中(かんさんじゅん) 『正しさとは何か』高田明典(あきのり) 『レトリックと詭弁 禁断の議論術講座』香西秀信 『社会問題の社会学赤川学

報道されることにおける量と質―どちらも大事なことではある

 首相がとるに足りないような行動をする。そうしたことであったとしても何かそこに大きな意味あいがあるかのように報道機関で報じられることがある。あらためて見てみるととるに足りないことであり、だから何なのだ(so what?)といったところがある。なぜそうした報道が行なわれることがあるのだろうか。それはひとつには首相にたいして強く焦点が当てられすぎていることによるのがあるだろう。

 認知と評価と指令の三つの点がある中で、報道機関の一部は認知しかできていない。あとの二つの評価と指令(こうするべき、ああするべき)ができていない。そのことによって報道が大本営発表のようになる。首相が何か言ったり何かしたりしたら、それをただたれ流すことになる。

 認知すらできていないのであれば、首相が何かを言ったり何かをしたりしてもそれを見逃す。見逃すことになれば何も報道されない。見逃してしまうよりは見逃さないようにしたほうがまだましだといったことで、認知だけはしっかりと行なう。認知だけはできているのだとしてもそこに評価と指令が欠けてしまっていると大本営発表のような報道になる。

 大本営発表のような報道になるのを避けるためには認知だけがあるのでは不十分だ。評価と指令がなければならない。認知だけがあるのだと、報道する値うちがあることなのかどうかがないがしろになる。報道する値うちがあるかどうかは評価が関わってくることだから、そこが欠けていると、報道する値うちがないことであったとしても値うちがあることだとされてしまう。

 値うちがあることなのかどうかを評価するためには、首相が何かを言ったり何かをやったりしただけでそこに大きな意味あいがあるのだとしてしまってはまずい。首相の一挙手一投足をただ報道するだけでは認知はできているのだとしても評価や指令ができているとはいえそうにない。

 哲学の新カント学派の方法二元論では事実(is)と価値(ought)の二つを分けるあり方がとられるという。この二つによって見てみられるとすると、首相が何かを言ったり何かをしたりしたことを少しでも多く報じるのは事実の認知に当たる。事実を認知することからは価値は出てはこないから、価値についてはまた別に見て行かなければならない。

 事実の認知にいくら力を入れたのだとしても価値のところがとり落とされていると報道が大本営発表になるのを避けづらい。事実を認知することと価値とは別のことがらだといえるのがあるから、事実を認知することだけに力を入れていると価値がなおざりになってしまう。価値がなおざりになっていると評価と指令がとり落とされることになるから、ひどくいいかげんな評価になったりおかしなことをうながしてしまったりしてしまいかねない。

 できるだけ価値のところはカッコに入れるようにして、主観が入りこまないようにして、事実の認知だけに力を入れて行く。それはいっけんすると客観であるかのように見なせるものだが、そこにはよし悪しがあって、悪くはたらくと大本営発表のようになる。いっけんすると客観のようであったとしてもじっさいには客観ではないことになる。

 値うちがないことが報道されてしまったり、大本営発表のようなことが行なわれてしまったりするのは、報道する側に価値のところが欠けているからだ。事実の認知はできているのだとしても評価と指令のところが欠けている。事実を認知する量をどんどん増やしていったのだとしても、そこからは価値は出てはこないのがあるから、どのように評価をしてどのように指令をするのか(どうするべきなのか)を欠かさないようにしたい。

 価値だけをとり上げていればよいのではないから、事実を認知して行くことはいることではあるが、それは必要なことではあったとしてもそれで十分なことだとはいえそうにない。必要なことの一部ができていたとしてもそれで十分ではないのであれば大本営発表のようなことが行なわれることになってくる。きちんとまっとうな評価ができるようにしてまっとうな指令ができるようになれば、大本営発表のようなことはかなり減ることがのぞめる。

 報道する側が自然主義のようになってしまっていて、首相が何かを言ったり何かをやったりしたのであれば、それはぜんぶがそのままの形で報道するべき値うちがあることがらだと見なす。ぜんぶが大きな意味あいをもっている。そう見なしているのがあるとするとそれはである(is)からであるべき(ought)を導いているのがあるから誤びゅうにおちいっているところがある。

 何かを報じるとそれがあるていど以上の真実味を帯びてしまうのがあるからそこに気をつけることがあればよい。単純な自然主義にはなるべくおちいらないようにして、事実の認知だけではなくて価値のところの評価や指令をきっちりとするようにすれば大本営発表のようなことは完全にゼロにすることはできないかもしれないがそれが行なわれづらくなることはのぞめる。

 参照文献 『三人で本を読む 鼎談書評』丸谷才一 木村尚三郎 山崎正和 『知のモラル』小林康夫 船曳建夫(ふなびきたけお) 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『討論的理性批判の冒険 ポパー哲学の新展開』小河原(こがわら)誠

国が借金をすることができることと、こわいおじさん―国は暴力を独占している

 国はなぜ借金をすることができるのだろうか。それについてはいろいろな見かたができるのにちがいない。その中で国は国民から税金をとることができる権利をもつから国は借金をすることができるのだとされるのがある。国は徴税権をもっていて、それで国は借金ができるのだ。

 国は徴税権をもっているので、いざとなったら国民から多くの税金をとることができるし、国民の財産を強制にさし押さえることができる。いざとなったら国はそれらのことができるので、国が借金をすることが可能になるのだ。

 ある人が借金をしていてそれがついに返せなくなると、こわいおじさんがとり立てにやって来る。それと同じように借金のとり立てに来るこわいおじさんの性格をもっているのが国だ。国がこわいおじさんの面を持っているのは、国は暴力装置を独占していることによる。

 いっけんするとおもて向きはやさしい顔をしているのがあるかもしれないが一皮めくればこわいおじさんのところがあるのが国だ。国はおもて向きの顔だけではなくてかくれた裏の顔をもつ。裏の顔つきはやさしくはない。つね日ごろから国は暴力を振るうのではないし裏の顔をむき出しにはしていない。なるべく国民が自発に国に服従することをうながす。国民が自発に服従しなくなったときに国民を強制に支配するために用いるのが暴力だ。裏の顔があらわになる。

 国は暴力装置を独占していることによって、万が一のさいには国民に強制に国の借金を返させることができるのがある。国が暴力を振るうまでもなく国民が自発に服従してくれたほうが国にとってはいちばん都合がよい。国が言うことにたいして国民がすなおにしたがわずにさからうのであればその時点で持ち出されることになるのが暴力だ。国は暴力をうしろだてにすることによって無理やりに国民に言うことをきかせられる。国が徴税権をもっているのはそうしたことができることをあらわす。そう見なせるのがあるかもしれない。

 参照文献 『日本国はいくら借金できるのか? 国債破綻ドミノ』川北隆雄国債・非常事態宣言 「三年以内の暴落」へのカウントダウン』松田千恵子 『国債暴落』高田創 住友謙一 『日本国民のための愛国の教科書』将基面貴巳(しょうぎめんたかし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ

他国の大統領を強く支持することとグローバル化の影響―空間と時間の圧縮

 日本にとっては他国の大統領であったドナルド・トランプ氏を日本の国民の一部が強く支持する。なぜそうしたことがおきるのだろうか。そこにはさまざまなわけがあるのにちがいない。それにそれぞれの人の自由な自己決定の権利に任されていることがらではある。そうした中でそこにはグローバル化が関わっているのがあるかもしれない。

 グローバル化がおきていることで世界のさまざまな国どうしがつながり合う。世界の中の空間と時間が圧縮される。距離が縮まり、ものごとの進みぐあいが速まって行く。

 よいことかそれとも悪いことかはさしあたっては置いておけるものとすると、世界がグローバル化していることで世界の中の空間と時間が圧縮されている。そのことによって日本とアメリカとの距離が縮まることになり、日本にとってアメリカのできごとは他国のことであったとしても他人ごとやよそごとだとは必ずしも言えなくなる。人によってはそうしたとらえ方がなりたつ。

 日本にとってアメリカのできごとは他国のことではあるが、それは遠いことであるのとともに近いことでもあり、二重性がある。遠さがあるのとともに近さがあることから二重性がおきてきて、遠いけど近いとか近いけど遠いといったことがおきてくる。このさいにアメリカでおきていることをとらえるあり方が雑になってしまうことがあるからそれにはなるべく気をつけて行きたい。あまりアメリカのことを単純化しすぎないほうがよいかもしれない。

 アメリカのことを単純化しすぎてしまうと、そこに肯定性の認知のゆがみがはたらく。肯定性の認知のゆがみがはたらくことで、アメリカの大統領の選挙で不正があったとするのであれば、そこに強い確証がおきてくる。強い確証をもつと、まちがいなくアメリカの大統領の選挙で不正があったのにちがいないとすることになる。

 強い確証をもつことによって、それが強い信念と化す。その信念は補強されることによってますます強くなることはあったとしても、その中に含まれているおそれがあるまちがいがとり除かれることはされづらい。補正や修正がされづらい。信念の中に含まれているおそれがあるゆがみがそのままにされてそれがとり除かれることがないままにそれが教義(dogma、assumption)と化す。

 教義と化してしまうとそれが真であることがうたがわれなくなる。そこをいまいちどあらためて立ち止まってみるようにしてうたがってみることがあったら肯定性や確証の認知のゆがみを改めやすい。信念の中に含まれているゆがみが大きくなりすぎるのを防いで、それを少しでも小さくして行く。

 グローバル化によって空間と時間が圧縮されることがわざわいすることがあるから、それになるべく気をつけるようにしたい。日本とアメリカとの距離が縮まっているのはあるとしても、アメリカのことを単純化しすぎないようにして、アメリカでおきていることはこうなのだといったように決めつけないようにする。アメリカでおきていることについて肯定性や確証の認知のゆがみがはたらきすぎないようにして行きたい。

 アメリカのことを一面性でもってして見てしまうと単純化しすぎてしまうのがあるからそうなることをできるだけ防げたらよい。一面性でもってしてとらえられるほどアメリカは単純ではないだろうから、たった一つの面だけではなくていろいろな面をもっていることをくみ入れて行きたいものである。たった一つの面だけで単純化してしまうとその面のもつ確からしさが心もとないものになる。

 日本からアメリカのことを知ることには制約がつきまとう。制約があることをくみ入れられるとすると、アメリカでおきていることはこうなのだとあまり強く言い切ることはできづらい。よほどアメリカのことに深く精通しているのでないかぎりそこにはあやふやさや不たしかさがつきまとう。こういう見かたもできればそうではない見かたもできるといったことになり、それにくわえて時間が流れることによってものごとは変化や転化して行く。いろいろなものどうしが解きほぐしがたいほどにからまり合っている複雑系(complex system)によっているので先行きをきれいには見通しづらい。

 一つの面だけだと確からしさが心もとないのがあるから、できるだけいろいろな面に触れるようにしていって、投資でいわれるところの危険性を分散(risk hedge)させておいたほうが少しは安全だろう。一つのかごにぜんぶを入れるな(don't put all your eggs in one basket)とことわざでは言われるのがある。たった一つの面だけにすべてをかけると危険だから、ひきょうではあるかもしれないが自分の持ち分をいろいろなところに分散させるようにしたほうが無難なのはある。

 参照文献 『一冊でわかる グローバリゼーション a very short introduction』マンフレッド・B・スティーガー 櫻井公人(きみひと)、櫻井純理(じゅんり)、高嶋正晴(まさはる)訳・解説 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『「複雑系」とは何か』吉永良正 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『幸・不幸の分かれ道 考え違いとユーモア』土屋賢二 『超常現象をなぜ信じるのか 思い込みを生む「体験」のあやうさ』菊池聡(さとる) 『超常現象の心理学 人はなぜオカルトにひかれるのか』菊池聡

だれもがそこに入ったり出たりを自由にすることができるようにはなっていない国の政治の議会のあり方―制約がある

 アメリカの新しい大統領としてジョー・バイデン大統領が地位につきはじめた。これまでの大統領の地位からしりぞいたのがドナルド・トランプ氏だ。

 トランプ氏は大統領の地位からしりぞくまぎわに自分の支持者の一部をたきつけた。それによって支持者の一部がアメリカの連邦議会の議事堂に入りこむ犯罪がおきた。この犯罪は法の決まりに反したものではあるが行動としては正しいものだったとする見かたがトランプ氏の支持者の一部ではとられている。

 トランプ氏の支持者の一部が引きおこした犯罪についてをどのように見なすことができるだろうか。人それぞれによっていろいろな見なし方ができるのにちがいない。その中で交通と社会的排除(social exclusion)の点から見てみたい。交通の点から見てみられるとすると、国の政治の議会はある人を受け入れるが別の人を排除する装置としてはたらいている。

 国の政治の議会にはもともとの性格として、ある人は受け入れるが別の人を排除するはたらきをもつ。かりに議会そのものはとても大切なものであるといえるとすると、議会がもつ性格はそれそのものが悪いものだとはいえそうにない。ある人は受け入れるが別の人を排除するのだとしても、それが議会のもつもともとの性格なのだからそれそのものが(絶対の善とはいえないにしても)絶対の悪とは言えないものだろう。

 お店の中には扉があって、その扉には関係者以外立入禁止と書かれていることがある。その扉の先には関係する人は入れるがそうではない人は入れない。それと同じように、国の政治の議会もまたよしとされる人はその中に入れるがそうではない人は中には入れない。これらはその空間が排除の性格をもっていることによる。すべての人が無条件にそこに入ったり出たりできるようにはなっていない。そこには制約があるために認められていない人が勝手に立ち入ってはならないようになっている。

 その中に入れる人もいれば入れない人もいるのが国の政治の議会だが、たとえ中に入れる人であったとしてもその人が完全に正しいとはいえないしその逆に完全にまちがっているともいえそうにない。議会の中に入れるからといって、その政治家が完全に正しいとはいえないしその逆に完全にまちがっているともいえない。選ばれた政治家であってもその政治家のことを完全な善や完全な悪といったようにしたて上げたり基礎づけたりはできないものである。

 完全によいとか完全に悪いとは言えないのがあるから、議会の中に入れる政治家であったとしても、その政治家のことを一面性によって見なすことはできづらい。できるだけ二面性によって見なすようにして、よいところもあれば悪いところもあるといったように見なすようにすれば少しはつり合いをとりやすい。人間はどこかがきわ立ってすぐれていればほかのどこかが劣っていたり欠けていたりすることが多い。政治では汚いことを避けることはできづらいからたいていの政治家は多かれ少なかれ(すこしくらいは)汚れているものだろう。

 排除の装置としてはたらいているところがあるのが国の政治の議会だが、それはもともと議会がもつ性格であることから、それをもってして悪いものだとはかならずしも言えないのがある。排除してしまっているものの中によいものがあることが少なくはないから、社会の中のさまざまなものがいろいろに議会の中に包摂されるようにして行く。たった一つの声だけが反映されるだけだと公共性はなりたちづらい。たった一つの声だけではなくてさまざまな複数の声によって公共性はなりたつ。

 まだるっこしくてものごとが速やかに進んで行かないもどかしさがしばしば国の政治の議会にはある。それがあるのはいなめないが、それだからといって全否定しないようにして、できるかぎり議会が持っているよさを生かすようにして行きたい。

 できるだけものごとを速く進めるようにすると効率はよくなるが適正さが欠けてくることになりかねない。効率がよくなったとしても適正さが欠けているとまちがった方向に向かってどんどんつっ走っていってしまう。それを防ぐようにして、いそいでものごとを進めていって効率を高めて行くことだけではなくて、できるだけとちゅうの過程の手つづきを重んじて行く。とちゅうの過程の手つづきのところに力を入れるようにして、ていねいにものごとを進めて行く。そのためには科学のゆとりがいる。

 社会の中にあるいろいろな声の中でとりわけ弱者や少数者の声ができるかぎりすくい上げられることがあればよい。多数者の声ばかりが反映されてすくい上げられてしまうと多数者の専制におちいる。そうならないようにして、議会の内や外にいる反対勢力(opposition)が排除されないようにして、反対勢力が包摂されることがのぞましい。反対勢力が排除されると社会の中になげきの重荷や緊張がたまって行く。

 社会の中で弱者や少数者が生きて行きづらいままになって放ったらかしにされないようにして、すこしでも生きて行きやすいようにして行きたい。多数者による標準の型だけが社会の中でよしとされるのだと息ぐるしくなるのがあるから、その息ぐるしさをすこしずつ改めるようにして、たとえ標準の型にはまらなくてそこからこぼれ落ちても受け皿がいろいろにあって生きて行きやすいようになればさまざまな生き方が許されるようになる。

 参照文献 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『「野党」論 何のためにあるのか』吉田徹 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利編 『公共性 思考のフロンティア』齋藤純一

日本とアメリカにおける、内と外とのあいだの線引きのしづらさ―内と外とのあいだの相互流通性や相互交流性

 アメリカのドナルド・トランプ氏がアメリカの大統領としてもっともふさわしい人物だ。トランプ氏がアメリカの大統領でありつづけるためには支持者の一部が犯罪を行なうのもやむをえない。トランプ氏がアメリカの大統領であることによって日本の国が守られるのだから、法の決まりに反する力の行使もいたしかたがない。アメリカが軍事政権や独裁主義になっても受け入れられる。ツイッターのツイートではそう言われていた。

 ツイートで言われているように、アメリカの国にとってよいのがトランプ氏が大統領であることであり、そのことによって日本の国が守られるのだろうか。そのことについてを内集団と外集団と、信頼性によって見てみたい。

 心理学においては人間の心理として自分が属している内集団をひいきすることが言われている。内集団をとくによしとする認知のゆがみだ。それでいうと、日本の国民が自分の内集団にあたる日本の国のことをひいきするのはわからないことではない。それをとびこえて、日本の国にとって外集団にあたるアメリカの国のトランプ氏のことをひいきするのはどういったわけだろう。

 日本の国にとってはアメリカはいっけんすると外集団にあたりそうだが、かならずしもそうだとは言えないのがあるのかもしれない。内と外とは完全に分けられるものではなくて、内と外とのあいだの境界線が引きづらくなっている。日本の国民にとって日本とアメリカとはお互いに内集団と外集団に分けられるのではなくて、アメリカも内集団だと見なすことはできないことではない。そう言えるのがあるかもしれない。アメリカのトランプ氏にたいしてもやりようによっては内集団ひいきを適用することがなりたつ。

 日本の国民にとってアメリカのトランプ氏は内集団に当てはまるが、新しくアメリカの大統領につくジョー・バイデン氏は外集団に当てはめられる。そういう分け方が行なわれているのがある。トランプ氏と同じようにバイデン氏もれっきとしたアメリカ人であるのにもかかわらずだ。この分け方はトランプ氏を強く支持する人によるものだ。

 どのような分け方もなりたってしまうのがあり、ひとつには日本の国民にとってアメリカのトランプ氏もバイデン氏もどちらも外集団に当てはめられる。つぎに日米の結びつきやグローバルな地球の規模の視点からすれば、日本の国民にとってトランプ氏もバイデン氏も内集団に当てはめられる。さらにトランプ氏を強く支持する人からすれば、日本の国民にとってトランプ氏は内集団にあたるがバイデン氏は外集団にあたる。

 共通点と相違点の点から見てみられるとすると、日本の国民にとってアメリカのトランプ氏もバイデン氏もどちらも相違点をもつ。どちらも相違点をもつのは日本とアメリカとで国がちがっているからだ。そのいっぽうで国民国家どうしや人間どうしとしては同じだから、日本の国民にとってトランプ氏もバイデン氏も共通点をもつ。日米の結びつきからもそう言える。それとはちがい、トランプ氏を強く支持する人からすると、日本の国民にとってトランプ氏とは共通点をもつが、バイデン氏とは相違点をもつ。

 人それぞれによって思想がちがう(several men,several minds)ことをくみ入れられるとすると、みんながもっている思想がちがっていることがありえる。それぞれの人がいだく遠近法(perspective)がちがう。日本の国民の中でもそれぞれの人がもつ遠近法はちがうし、日本の国民とアメリカのトランプ氏やバイデン氏とでもそれぞれがちがった遠近法をもつ。だからそのちがいのところを見られるとすると、たがいに絶対の信頼をし合っているとはいえそうにない。

 現実においてはたとえ日本人どうしであったとしても、また日本の国民とトランプ氏やバイデン氏とのあいだであったとしても、絶対に信頼し合うことはなりたちづらい。それはきびしく見れば幻想に近い。無理やりに上から信頼し合うことを強いるのであれば全体主義のあり方になってしまうだろう。全体主義になるのを避けるようにして、みんながばらばらなくらいであってもよい。個人を尊重するようにして、それぞれの個人は人間としては同じ者どうしだが、それとともにそれぞれがちがいをもつ。個人主義の点からはそのあり方をよしとすることができるだろう。

 参照文献 『徹底図解 社会心理学山岸俊男監修 『思考をひらく 分断される世界のなかで』(思考のフロンティア 別冊) 姜尚中(かんさんじゅん) 齋藤純一 杉田敦 高橋哲哉 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや)

テクストとしての現実と、テクストとしての政治家の発言

 アメリカの大統領が新しくジョー・バイデン氏になる。それで新しい大統領の就任式が行なわれる。

 これまでの大統領だったドナルド・トランプ氏はすんなりと政治の権力をゆずりわたそうとはしなかった。自分の支持者を反抗の行動にたきつけたことによって支持者の一部が連邦議会の議事堂に不正に乱入する犯罪がおきることになった。こうしたことがある中で、トランプ大統領の言うことについてを文学で言われるテクスト理論によって見てみたい。

 現実そのものについてをたった一つだけではなくてさまざまな点から見て行けるのがある。たった一つだけではなくてさまざまな点から現実を見て行くことは、現実についてをテクストとして見て行くことになる。

 現実をさまざまな点から見て行くのではなくて、たった一つだけの見かたが正しいのだとするのだと、テクストとして現実を見ないことになる。それによって現実そのものから離れてしまい、虚偽意識によることがおきるようになる。虚偽意識が強まることによって現実からどんどん遠ざかって行ってしまう。

 虚偽意識が強まらないようにして現実からあまり離れすぎないようにする。そのためにはテクストとして現実を見るようにして、たった一つの点からだけではなくてさまざまな点から現実を見たほうが少しは益になる。

 トランプ大統領が言っていることをぜんぶまったくもって正しいものだとしたて上げたり基礎づけたりしてしまう。そうすると、トランプ大統領が言っていることが特権化されることになる。発話者であるトランプ大統領の意図が絶対化されて権威化されることになってくる。

 文学のテクスト理論では、送り手の意図を絶対化するのではなくて、それから自由になることをよしとするのだとされる。送り手の意図を絶対化しないようにすることで、受け手はあるていどより以上に自由にテクストをとらえられることになる。送り手の意図にしばられないでいられるのだ。

 送り手とテクストとは必ずしも結びついているものではなくて、その二つは切り離されているとも見られる。批評家のロラン・バルト氏は作者の死を言っていて、それは読者の誕生によってあがなわれるのだという。

 ロラン・バルト氏のいう作者の死をくみ入れられるとすると、テクストの作者がいるのだとしても、作者の意図にテクストは必ずしもしばられないことになる。作者の意図によってテクストはかならずしも規定されるのではない。

 送り手である作者は死んでいるともいえるから、正しくて善い人物である作者のトランプ氏がいて、そのトランプ氏が言っていることだからぜんぶが正しいとはならないだろう。そのようにして、正しくて善い人物の作者がいて、その作者によるテクストはぜんぶが正しいといったように雨だれ式に正しさが上から降りてくるのではない。正しさや善さが作者からテクストへといったように上から下にこぼれ落ちてくるのではない。

 現実についてをテクストとしてとらえられるとすると、たった一つだけの正しい見かたがあるのではなくなり、いろいろな点から見てみられるようになる。それとともに、政治家が言っていることについてをテクストとしてとらえられるとすると、作者の意図のしばりから受け手はあるていどより以上に自由になれるので、作者とテクストとを切り離すことがなりたつ。作者はテクストを発生させた(つくった)わけだが、発生のもととしての作者とその意図を思いきって無視してしまえるし、少なくともそれらをカッコに入れることがなりたつ。

 テクストの中にはたんに作者が意識して意図したものだけではないものを含みもつ。そこには作者が意識して意図したものではない無意識によるものも含まれていることがあるから、その点からしても作者の意図に完全にしばられているものとは言えそうにない。いろいろなものが中に織りこまれている。

 具体の作者とその意図からいったん切り離して見てしまえるとすると、一般的にいってテクストはそれそのものが完全に正しいものだとはしたて上げたり基礎づけたりできそうにない。そこにはまちがいである誤びゅうがいろいろに含まれているおそれをもつ。まちがいを含んでいるおそれをもつのがテクストなのだから、そこから言えることとしては、テクストの作者が完全に正しい合理性をもっているのだとは言うことはできない。具体の人物であるトランプ大統領が言っていることであってもまちがいを含んでいるおそれが小さくないからうのみにすることはできないのがある。

 参照文献 『超入門!現代文学理論講座』亀井秀雄 蓼沼(たでぬま)正美 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『ほんとうの構造主義 言語・権力・主体』出口顯(あきら)

アメリカのドナルド・トランプ大統領が言っていることはそのすべてがまったくもって正しいことなのだろうか―なにが真のことなのかと西洋の弁証法(問答法)

 アメリカの新しい大統領になる予定のジョー・バイデン氏はにせものやいんちきであり、ドナルド・トランプ大統領こそが真のアメリカの大統領なのにほかならない。トランプ大統領を強く支持する人たちの一部からはそうした声があがっている。

  アメリカにおける真の大統領としてふさわしいのははたしてジョー・バイデン氏なのかそれともトランプ大統領なのかのどちらなのだろうか。真のものは何なのかといったことになると、そこでいることになるのは西洋の弁証法(dialectic)だ。弁証法によって問答をすることがいる。

 トランプ大統領が言っていることがそのまま真であることになると、弁証法において正と反と合がある中で、正つまり合となってしまう。そこには反が欠けてしまっている。正と反とのあいだで問答をしないと弁証法によって問答をしていることにはならない。

 いそいで正つまり合としてしまわないようにして、たとえトランプ大統領が言っていることだからといってそれをそのまま真であるとはしないようにしてみたい。科学のゆとりをもつようにして、正と反とのあいだで問答をするようにして、弁証法によるようにしたい。

 政治の権力者が言っていることだからといって、その言説がまちがいなく客観のものだとは言えそうにない。政治の権力者の言説をふくめて、さまざまな言説は主観による。

 さまざまな言説はどれもが主観であることをまぬがれないので、まったくもって真の言説とまったくもって偽の言説には分けづらい。真の言説と偽の言説とのあいだの分類線は揺らいでいる。

 まちがいなく真の言説を言っていて完全に客観なのがトランプ大統領の言っていることではない。おそらくそう見なせるのがあるから、トランプ大統領が言っていることには偽のうたがいがあり、主観性をまぬがれていない。そこから、トランプ大統領が言っていることをそのままうのみにはできづらいのがある。

 現実そのものをそのままあらわしているのであればトランプ大統領が言っていることには完全な客観性があることになる。それはじっさいにはできづらく、政治の権力者が言うことは虚偽意識であるおそれが小さくない。虚偽意識であることがしばしばあるので、現実そのものをあらわしているとは言えそうにない。現実そのものから多かれ少なかれ離れてしまっている。

 現実そのものをそのままあらわしているのではなくて、それを編集して取捨選択した上であらわされることになるのが一つの言説だから、完全に客観のものだとは言えそうにない。ひろわれているものがある一方で切り捨てられてしまっているものがある。切り捨てられてしまっているものがぼう大にあることから、その切り捨てられてしまっていることの中に正しいことがあるのだとすれば、言説がくつがえされて反証されることになる。

 言説がくつがえされて反証されることになるのは、その言説がひろっているものではなくてその逆の切り捨ててしまっているぼう大なことの中に正しいことがあったことになることをあらわす。一つの言説がひろっているものが正しいのであれば実証されることになるが、そこで見すごされることになっている反証に目を向けるようにしたい。

 まったくまちがうことがない無びゅう性によっているのではなくて、まちがうことがある可びゅう性によっているのが人間の行なうことだ。まちがっていることがあることから、他からの批判にたいして開かれていることがいる。他からの批判に閉じてしまっていると弁証法において正つまり合となってしまい、問答がなりたちづらい。問答することは一切いらないといったことになって、政治の権力者が言っていることがそのまま真だとされることになる。そこでとり落とされているのは政治の権力者が言っていることが偽であるおそれが小さくはないことだ。

 何が真であるのかにおいては、政治の権力者が言っていることをそのまま真であるとはしないようにしたい。あらゆる言説は主観であることをまぬがれないのがあるから、たった一つの言説だけがよしとされるのではなくていろいろな言説がさまざまに言われることがいる。そのうちのどれが正しいものなのかはにわかには決めることができづらい。

 さまざまに言われている言説のうちでそのどれもがまちがいを含んでいるおそれがあるから、どれか一つだけを完全に正しいものだとしてしたて上げたり基礎づけたりすることはできづらいのがある。真のものと偽のものとのあいだの分類線は揺らいでいるのがあるから、まちがいなく真のものだとして閉じてしまわないようにして、他からの批判に開かれていることがのぞましい。

 参照文献 「求道(フィロ=ソフィア)と智慧(仏智)の関係 驚くことの意味について」(講演) 今村仁司反証主義』小河原(こがわら)誠 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『社会問題の社会学赤川学 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ)

ドナルド・トランプ大統領こそがアメリカの真の大統領なのだろうか―真のほんものとにせものとのあいだの分類線の揺らぎ

 アメリカの真の大統領はドナルド・トランプ大統領だ。日本で行なわれたトランプ大統領を強く支持するデモで配られていたパンフレットの中ではそう言われていた。パンフレットで言われているように、アメリカの真の大統領はジョー・バイデン氏ではなくてトランプ大統領なのだろうか。

 真のものはこれだとする言い方は大衆迎合主義(populism)に見られるものだという。トランプ大統領を強く支持するデモでは大衆迎合主義の語り口が用いられていることがうかがえる。

 まちがいなくトランプ大統領こそがアメリカの大統領であるとしたて上げたり基礎づけたりできるのかといえばそれはできづらい。性急にトランプ大統領のことをアメリカの真の大統領だとしたて上げたり基礎づけたりすることにはいまいちど待ったをかけてみたい。科学のゆとりをもつようにしたい。

 共和党に属しているのがトランプ大統領だ。政治において政党はその国の全体を代表しているとは言いがたく、あくまでも部分を代表しているのにとどまる。部分(part)を代表しているのにとどまるのが政党(political party)なのだから、全体化されるのではないことがいる。非全体化されるのでなければならない。哲学者のテオドール・アドルノ氏は、全体は非真実だと言っている。

 部分を代表しているのにとどまるのが共和党であり、そこに属しているのがトランプ大統領だ。アメリカのすべての国民をトランプ大統領がまんべんなく代表しているとは言えそうにない。そこには漏れや抜かりが避けがたくある。

 国民がじかに政治にたずさわるのだと大変だから、それを肩代わりするのが政治家だ。政治家は国民の肩代わりをするものであり表象(representation)にすぎない。表象である政治家は国民そのものではないから、そもそもの話として真のものではない。政治家はにせのものにとどまる。うまく行ったとしても国民の近似値であるのにすぎず、そこには避けがたくズレがある。

 真のものであるのよりもその逆ににせのものであるからこそトランプ大統領は批判されなければならない。そう言うことができるかもしれない。表象にすぎない政治家なのがトランプ大統領だから、国民そのものではなく、国民とぴったりと一体化して合っているものではないために、ずれがおきてこざるをえない。

 国民とのずれがまったくないとするのだと、政治家との距離がとれなくなる。距離がとれなくなると政治家にまひさせられてしまう。国民がまひさせられてしまうと集団がまちがった方向に向かってつっ走っていってしまうことがおきてくる。まひさせられるのを防ぐためには政治家と一定より以上の距離を保つことがいる。

 にせものさがあることをまぬがれることができないのが政治家であり、真のものだと言い切ることができるほどのものだとは言えそうにない。どこまでもにせものさがついてまわるのが政治家のもっている宿命であり、そこに政治家の弱みがある。にせものさがついてまわるのを隠ぺいして、まちがいなく真のものだとするのだと、それそのものがにせものじみたことになる。たとえどのような政治家であったとしても多かれ少なかれそこににせものさがついて回っているのが本当のところだろう。

 にせものさを持っているのにも関わらずあたかもそれを持たないかのようによそおって、他の者にそのにせものさをなすりつけて悪玉化するのは、自分がもっているにせものさをおおい隠すことなのをあらわす。政治家において真のとすることはなりたたないのがあるから、どの政治家も多かれ少なかれにせものさをもっているのにとどまっている。それは政治家が国民の意思をくみとる媒体(media)だからである。媒体であることからそこに漏れや抜かりやかたよりがおきてくる。

 参照文献 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり)