運をよくするてっとり早い手だての希少性

 運をよくする。そのいちばんてっとり早い手だては、運がすごくよい人とつき合うことだ。運がすごくよい人とつき合えると、自分の運もまたそれによって上がるのだという。雑誌の記事の中で、経済学者の森永卓郎氏が言っていた。

 そもそも、運がすごくよい人と近づけるということが、運がよいことだろうから、運をよくするというよりも、もとから運がよいというだけのことではあるかもしれない。運がよくなければ、運がすごくよい人とつき合うことはできづらいから、機会を得るのは現実的にはむずかしいかもしれない。

 運がすごくよい人はどこにでもいてありふれているのではないだろうから、希少性が高い。希少性が高いものは、供給よりも需要が上回ることになって、誰もが(多くの人が)欲しがるものとなる。ただ飯はない(ノーフリーランチ)ということで、得やすくはなく、得がたいものということになる。

 運は人が運んでくることが多いのだという。運とともに、それを運んでくれるような運のよい人を目利きできれば、自分の運を上げることにつながる見こみが立つ。理想論としては、運の格差がおきないで、うまく拡散するのなら平等になりやすい。

 自分の運をよくするというのは目的だ。その目的を達するための手段として、運がすごくよい人と出会うというのがあるが、運がすごくよい人とつき合うのはありふれたこととは言えないので、誰にでもできる手ごろな手段とは見なしづらい。

 理想論としては、運がすごくよい人とつき合えたらそれは運がよいことだが、現実論としては自分に手がとどく手段によるしかない。制約(条件)がある中で行動(最適化)を行なうというのが、経済学では言われているという。合理的期待形成の理論だ。

 アフリカのことわざではこんなものがあるという。馬が川で水を飲むときに、その馬が飲むべき水が口元を避けることはない。これの意味するところは、馬が飲む水は最初からすでに決まっているので、その馬のところには何がどうあっても必ず水が流れてくる。何をしていても、どうあっても水は飲める。

 このことわざは、仏教による阿弥陀さまの本願にほんの少しだけ通じるところがあるかもしれない。阿弥陀さまの本願では、その人がどうであったとしても、何が何でもその人を追いかけてきて、必ず救ってくれるのだという。阿弥陀さまは人に罰を下すことは一切ない。ただ人を救ってくれるのだ。何ともありがたい話ではないか。本当にそうなるかどうかは確かにはわからないが。

 また、アフリカのことわざにはこんなものもあるという。今日は足りないものだとしても、明日にはそれがあまる。悲観論でとらえさえしないようにすれば、明日には足りるようになる。それのみならず、あまりさえするというのだ。マイナスがプラスになるといったものだろう。マイナスがマイナスのままだったら嫌なものだから、変化がおきてプラスになったらうれしいものだ。

 参照文献 「ゆほびか」二〇一二年十一月号 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之 『一週間の食費が三〇〇円だった僕が二〇〇坪の別荘を買えた本当の理由』ボビー・オロゴン 『ラッキーをつかみ取る技術』小杉俊哉 『日本人を考える 司馬遼太郎対談集』 『現代哲学事典』山崎正一 市川浩

議論の土俵を広く開放して、開かれたものにしたうえで、どうあるべきかを話し合うようにするのはどうだろうか

 女性を土俵に上げることは考えていない。日本相撲協会はこう言っている。伝統としてそうであるためだという。土俵は男が真剣勝負をする場であって、女性を上げることは考えていないし、女性への差別だというのはまちがいだ、とのことだ。

 ウェブでは、日本相撲協会の言いぶんはおかしいのではないかという声が投げかけられている。土俵は男が真剣勝負をする場であるということと、女性を土俵に上げないこととは、結びついていないではないか、という声があった。たしかに言われてみると、結びついていないことのように受けとれる。

 伝統とは言っても、明治時代に入ってからでき上がったものだということだと、そこまで深いものだとは言いがたい。伝統だから正しいとか、これからも受けついで行くべきだというのは、確かな説得性を持っているとは見なしづらい。温故知新主義でいうと、温故をもっと色々に見て行かないとならないし、これからの新しいあり方をどうするかという知新を色々に探って行くことがいる。

 男性か女性かというのは、客観の性質だ。客観の性質は事実(is)であって、価値(ought)とはまた異なる。それらを分けることがいるが、客観の性質である性別から価値を導いてしまうのは、自然主義の誤びゅうだ。is(何々である)からought(何々であるべき)を導いてしまっている。

 女性は土俵に上げるべきではないというのは、ふさわしい前提条件だとは言えそうにない。ふさわしくはないのは、自然主義の誤びゅうになっているからだ。そうであるために、ふさわしくない前提条件から導かれた結論は、説得性が高いものだとは見なせない。

 ふさわしいものではなく、確かではない前提条件によっていると、独断におちいる。独断から偏見が導かれる。偏見となっているとすれば、不合理な区別である差別となっているということが言える。差別ではないということはできないだろう。

 男性や女性ということで、その集合(類)にたいして定義(性格)づけするのは危険なことだ。それにくわえて、女性は土俵に上げるべきではないということになると、男性か女性かという箱(ボックス)に入れる見なし方になっているので、これもまた危険だ。人にたいする観念の思いこみであるステレオタイプにおちいっている。

 男性や女性はこういったものであるというふうに、したて上げてしまうのはまずい。男性か女性かということで、こうであるというふうに基礎づけできるものであるとは見なしづらい。基礎づけをするのは同一の論理によっているものだが、じっさいには差異があるものだ。基礎づけや価値づけを絶対のものとして、それをできるというのであれば、それは大人のあり方だとは言えそうにない。現実においては、価値は客観なものとはできず、主観のものにとどまる。

 少なくとも、日本相撲協会は、いくら伝統がどうかということがあるのだとしても、男性か女性かということで、分類や定義(性格)づけをいたずらにするべきではなく、それをするのは危険さやまちがいをまねき入れることになる。

 日本相撲協会には税金(公費)が投入されているということのようだから、社会関係(パブリック・リレーションズ)をなすようにして、みんなができるだけ納得できるような説明をするべきだ。それができないのであればあり方を変えることは必要だ。広くみんなの効用の総量が増えるようなあり方がのぞましい。そのほうが合理的だろう。

 男性は土俵に上がってもよいが、女性は上がるべきではないといったように、教条(ドグマ)化や権威化するのは適したことだとは言えそうにない。それについてはそのまま受け入れることはできず、待ったをかけたいものだ。

 女性なくして男性もまたないのだから、仏教の縁起の理からすれば、女性のおかげがあって男性があるのであって、その恩をあだで返すようなことになりはしないだろうか。男性や女性というのは、あらかじめ実体としてあるものではなく、関係のほうが先立っている。関係が一次的なものとしてあって、そのごに(関係の網の目において)ちがいがおきるのだ。

 男性か女性かというのは二世界論であって、この見なし方はやや時代錯誤だ。いまの時代においては、もっと複雑な見なし方が適しているもので、細かく見られるし、男性と女性のあいだにある分類線は揺らいでおり、あいまい(ファジー)なものとして見ることが成り立つ。男性や女性という記号表現(シニフィアン)にたいする記号内容(シニフィエ)は人によって差があるので、揺らいでいる。

 参照文献 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『人についての思い込み一、二 悪役の人は悪人? A型の人は神経質?』吉田寿夫唯識の思想』横山紘一 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香 『「説明責任」とは何か』井之上喬(たかし) 『記号論』吉田夏彦 『歴史という教養』片山杜秀 『正しさとは何か』高田明典 『構造主義がよ~くわかる本』高田明典 『キヨミズ准教授の法学入門』木村草太

ゴーン氏はかつてコスト・カッターとおそれられたというが、かたやいまの首相による政権や省庁の高級な役人は、国民の限りある税金を無駄に空費や乱用して、軍事などで必要性のねつ造をしているのがおそろしい

 日産自動車の元会長のカルロス・ゴーン氏は、日産に来たときにはコスト・カッターとしておそれられたという。たんにコストをばっさりと切っていっただけではなく、日産にとって必要だと見なせるもの(野球部など)は残すこともあったとされ、使い分けがされていた。

 ゴーン氏がかつてコスト・カッターとしておそれられていたのとひき比べて、いまの首相による政権や省庁の高級な役人は、使うことがいらないところ(軍事など)に税金を使い、使うべきところ(社会保障など)には十分に使わないというのが、見かたによってはおそろしいことだ。それとともに、国の財政の赤字(借金)が増えつづけているのも心配だ。これはいまの首相による政権の責任とばかりは言えないものではあるが。

 国の財政の赤字(借金)は、心配することはいらず、むしろ積極的に使っていったほうがよいのだという説もある。積極的に使って行かないことこそが害なのであって、経済をよくするためにはどんどん国の財政を色々なところにばらまくべきだという声もある。

 国はいくら赤字(借金)を重ねても大丈夫だという説が正しいのかどうかはわからないが、経済学ではただ飯はない(ノーフリーランチ)と言われるのがあるから、無からお金(有)を生み出す打ち出の小づちがあるとはちょっと信じがたい。もしそれがあるのなら、できるだけすぐに無税国家にしてほしいものだ。各種の公的な保険料もただになったら負担(とくに低所得者への逆進性)がそうとうになくなって楽になる。理想論としてはともかく、現実論としては無税国家はできないものではあるだろうが。

 参照文献 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之

擬似戦争状態(疑似自然状態)となっていることのおおもとには、いまの政権やいまの与党のでたらめやおかしさがある

 じっさいの戦争とは言えないとしても、擬似戦争になっている。大げさな言い方ではあるかもしれないが、そう言ってみたい。戦争とは言っても、じっさいに殺し合いをするわけではないし、民主主義というのは頭を割るものではなく頭数を割るものだ。頭をかち割るのではなく(その代わりに)、数の多い少ないによる。これは文学者のエリアス・カネッティ氏の言っていることである。

 民主主義とは言っても、いまの首相による政権は、専制主義(デスポティズム)に横すべりしている。民主主義はほうっておくと、多数派の専制になったり、専制主義になったりという変質や転落がおきる危険さがある。多数派は専制となりやすく、これを民主主義的専制主義だと、思想家のアレクシ・ド・トクヴィル氏は言う。

 それでその専制のおかしさを批判すると、憶測で批判するなだとか、人格を否定するなだとかと政権は言うのだ。憶測も何も、説明責任(アカウンタビリティ)や立証責任を自分たちで果たしていないで棚に上げているのだからしようがない。

 日本の社会や国や、国民にとって益になることをさぐるには、なるべく平和的に話し合いを進めるのがのぞましい。そうではなくて、与党と野党がぶつかり合うことになって、お互いの損や得をいちばん重んじるようになると、擬似戦争となる。国民のことは放ったらかしになる。

 与党の得(益)は、そのまま国民の益になるかというと、そんなことはない。直接民主主義ではないのだから、そういったことはおきづらい。間接民主主義においては、政治家と国民とのあいだに距離がおきざるをえない。政治家や政党はたやすく虚偽意識(イデオロギー)と化すことになる。

 与党の中にさまざまな声があって、それを許すようであればよいが、党に忠誠を誓う者だけをよしとするのならまずい。擬似戦争をまねきやすい。これは見かたを変えてみると、定住が戦争を呼びおこしやすいのに通じる。

 党に忠誠を誓う者に、党の上層部が利得を与える。党に忠誠を誓う者は、利得を得ようとして、党には歯向かわないようにして、おもねることをしつづける。党は少しでも損をしないようにして、得をしようとするように動く。党の中で忠誠を誓う者は、自分が少しでも利得を得ようとするために動く。権力寄生の冷笑主義がはびこりやすい。

 権力に寄生する冷笑主義がはびこることで、独裁主義や専制主義や全体主義がまかり通るようになる。これはかつてのドイツでアドルフ・ヒトラーによるナチス・ドイツがおきたさいに見られたことであるという。

 戦時中の日本では、国や天皇に忠誠を誓う者に利得を与えていた。忠誠を誓う国民は国や天皇から利得を得ようとしていた。それが戦争を引きおこすことにつながって、戦争によってきわめて大きな被害を生むもとになった。

 権力のまちがっているところを批判するのがキニシズムだが、権力に寄生してこびることで冷笑するのがシニシズムだと、哲学者のペーター・スローターダイク氏は言う。シニシズムは現状に甘んじて追随するものだが、これが強くなって、権力を批判するキニシズムが弱体化するのはまずい。

 じっさいの戦争ではないとしても、擬似戦争になってしまうと、国民のことが放ったらかしにされかねない。こうならないようにするためには、損か得かということだけで動かないようにして、得ではなく損を引き受けることが与党には求められる。政権や与党が損を避けて得をしたとしても、国民に得(益)にならなければ何の意味もない。

 日本人は臨戦の態勢になりがちで、(文ではなく)武を重んじてしまいやすい。文弱をさげすみ、尚武(しょうぶ)をよしとしがちだ。作家の陳舜臣(ちんしゅんしん)氏はそう言っている。臨戦の体制になることで、損か得かで動いてしまいやすいのだ。ギブ・アンド・テイクでいうと、いまの政権やいまの与党は、自分たちがテイク(得)することばかりにかまけていて、ギブ(損)することをかたくなに避けている。これではいけない。

 ギブ(損)をたくさんして、テイク(得)はほんの少しだけ、というていどが、いまの政権やいまの与党にはちょうどよいくらいだ。そうであることによって、国民の得(益)になることが見こめる。いまの政権やいまの与党は、テイクがあまりにも多すぎていて、強欲でごう慢におちいっている。それが一強であることにつながっている。

 いまの政権やいまの与党は、けっして強欲でもごう慢でもなく、一強であることは実力にふさわしいことであって、当然のことだ、という声はあるかもしれない。それはそれでまちがった見かたではないかもしれない。どこからどう見ても完ぺきに害そのものになっているとは言い切れないのはある。その点については人によってさまざまだろう。

 不毛なぶつかり合いである擬似戦争(紛争)をしないようにして、できるだけ平和な話し合いをするためには、いまの政権やいまの与党が、自己欺まんの自尊心(vain glory)にかまけないようにすることがいる。虚栄心をもちすぎないようにしないとならない。

 自己欺まんの自尊心や虚栄心を、いまの政権やいまの与党が手放さないでもちつづけているかぎり、擬似戦争状態(疑似自然状態)はなくなる見こみが立ちづらい。ちなみに、自己欺まんの自尊心の反対となるものは謙虚さ(humility)だが、いまの政権やいまの与党にはよく目をこらしてもこれがいちじるしく欠けているようにしか見えない(お前もそうだろ、と言われてしまうかもしれないが)。

 自己欺まんの自尊心や虚栄心によることによって、自分たちは多数から選ばれて支持されているのだというごう慢がおきてくる。ごう慢になることによって欠けてくるのが学ぶことだ。いまの政権やいまの与党は、謙虚さが失われているために、学ぶということがなされていなくて、そのためもあって、国会でのやり取りがめちゃめちゃだ。

 疑似戦争状態となっていることはよいことではなく、これを平和な社会状態にするために、味方と敵によるぶつかり合いをそのままにするのではなく、できるだけ早く止揚(アウフヘーベン)しないとならない。そのほぼすべての責任は、いまの政権やいまの与党にあるが、責任を果たそうとはせずに、無責任体制になっているのだ。

 参照文献 『人はなぜ戦うのか 考古学からみた戦争』松木武彦 『日本人を考える 司馬遼太郎対談集』 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『群衆 モンスターの誕生』今村仁司 『本当にわかる現代思想』岡本裕一朗 『法哲学入門』長尾龍一 『「学び」で組織は成長する』吉田新一

内閣法制局の長官は、民主的な正当性が長官よりもより高い野党の議員を批判するのはおかしいことだ(長官が言っていることの中身もおかしい)

 国会の場において、声を荒らげて発言するようなことまで含むとは考えていない。内閣法制局の長官は、野党の議員にたいしてこう言った。これを言ったあとにひと悶着がおきて、長官は前言を撤回することになった。不適切な発言だったのだ。

 議会は政権を監督することがいるが、そのさいに、野党の議員などが声を荒らげて発言することは含まれていない、と長官は言った。長官は、いまの政治における問題点や問題の所在をとらえられているとは言えそうにない。

 いまの政治において問題点となっているのは、声を荒らげはしないが、でたらめなことやいい加減なことや嘘を政権が言っていることにある。声を荒らげてはいなくても、いまの政権やいまの与党は、言うことややることにおかしいことが多くある。

 いまの政権やいまの与党のかかえるおかしさやでたらめについて、声を荒らげないとしたらそれはそれでおかしいことだと見なせないではない。声を荒らげざるをえないことが色々とある。そのもととなっているのが、いまの政権やいまの与党だ。

 たしかに、公の場においてふさわしい言い方というのはあるのはまちがいない。感情的になりすぎないことはいるものだろう。なるべく落ちつくように努めることはいる。

 言い方の適切さはあるとして、それとは別に、政権にたずさわる首相をはじめとした政治家や役人は、問いかけられたことにかみ合うようにできるだけ答えるべきだ。それが肝心なことなのにも関わらずほとんどできていない。このことが憲法に違反しているのだ。

 憲法では野党の議員が政権に質問して、政権はそれに答えることがいることになっていて、政権に応答させることを課しているという。憲法の六三条にはこうあるという。内閣総理大臣その他の国務大臣は、国会で、答弁または説明のため出席を求められたときは、出席しないとならない。議会が政権を監督するために、あえて政権を不利な立ち場(質問を受ける側)に置いているのだ。

 参照文献 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸 『憲法主義 条文には書かれていない本質』南野森(しげる) 内山奈月

人格というのをやたら気にするところに、法の支配にたいする意識の薄さがかいま見られる(上に立つ者の人格というのはどちらかというと人治主義や徳治主義に似つかわしいことではないだろうか)

 野党の議員は、勝手に色々な憶測をしたうえで批判をしている。人格について否定的な批判をしている。そういうことは止めたほうがよい。まだ若くて将来があるのだから。国会で首相は、野党の議員をたしなめるかのようなことを言っていた。

 野党の議員が、勝手に色々な憶測をしているのではなくて、たんに首相が疑惑からまったく逃げ切れていないだけだろう。色々な疑惑を首相や政権はかかえているが、それについて憶測がおきるのは、首相や政権が十分に説明責任(アカウンタビリティ)を果たしていないことが大きい。

 ことわざでいう、頭かくして尻かくさずとなっているために、ごまかし切れていないで、思いきり尻が出てしまっているのだ。危機となることにまともに向かい合ってしっかりと対応せずに、何とかごまかして逃げ切ろうとしているために、危機の解決にいたっていない。

 さまざまな情報がやりとりされていて、どれが本当に正しいことなのかが分かりづらい。ポスト・トゥルースの時代と言われている。それを悪用しているのがいまの首相による政権やいまの与党だが、たとえ悪用しているからといって、すべての国民の目や耳をごまかせるものではないだろう。

 情報をつくったり流したりする技術が発達している世の中のありようがあるのだから、上に立つ者の悪いことが比較的ばれやすい世の中になっている。虚実は入り混じっているものの、さまざまな情報は広く拡散する。それでいて逃げ切ろうとするのだから、無理があるし、社会や国の全体がおかしなことになる元凶だ。軽んじてよいことだとは言えそうにない。

 野党の議員から、法の支配の対義語となるものは何か、と聞かれた首相は、それに答えられていなかった。とっさの質問を投げかけられたとはいえ、政治にたずさわっている上に立つ者が答えられないのは残念なものだ。うっかりど忘れしたということはないではないかもしれないが。

 対義語がわからないということは、法の支配についての十分な理解が欠けているおそれが低くない。対義語というのは反対の意味のものであるのとともに似たものでもある。相違点があるのとともに共通点をもつ。対義語が分かることで輪郭や境界線がはっきりとする。それが答えられなかったことで理解の足りなさを責めるのは、(首相が言うような)たんなる的はずれな憶測や人格の否定になってしまうだろうか。

 法の支配の対義語がわからないのではなくて、対義語という言葉の意味がわからなかったのではないか、ということが言われていた。これはさすがにないことだろうが、もしそうだとしたらちょっとまずい。野党の議員はていねいにも、対義語と言うだけではなくて、反対となる言葉だというふうにつけ足して言っていたので、首相もそこはわかったはずだ。

 憶測や、人格を否定する批判をするのがよくないというよりも、いまの首相による政権やいまの与党は、虚偽意識(イデオロギー)におちいっていることによって、化けの皮がはがれたりぼろが出たりしすぎではないだろうか。自分たちの化けの皮がはがれたりぼろが出たりしているのを、野党などの他の人のせいにするのはいかがなものだろうか。自分たちの(見せかけの)功績を言うのであれば、その反対である、嘘を言ったり悪いことをしたりすることの責任もまたしっかりと引き受けないとつり合いがとれない。無責任体制なのはしまつが悪い。

 参照文献 『語彙力を鍛える 量と質を高める訓練』石黒圭 『危機を避けられない時代のクライシス・マネジメント』アイアン・ミトロフ 上野正安 大貫功雄訳 『「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人』青木人志爆笑問題のニッポンの教養 哲学ということ』太田光 田中裕二 野矢茂樹

結果がすべてだと言っておきながら、結果を受け入れようとしないのはなぜなのだろうか

 沖縄県では、アメリカ軍の基地を新しく移設することを問う県民投票が行なわれた。投票では反対が多数となる結果が出た。この県民投票の結果について首相は、政府としての評価を加えることはさし控えると言っている。

 政治においては結果を出すことがすべてだと首相はしばしば言っている。出た結果がすべてなのだとしたら、県民投票の結果を重く受けとめることはいることだ。ところが、政権にとって都合の悪い結果は受けとめないということになると、すべての結果を公平に受けとめることにはならなくなる。

 たしかに、政権にとっては、県民投票で反対が多数となった結果について、まともに受けとめることははばかられるのだろう。自分たちがおし進めていることにとって都合が悪いからだ。

 政府による遠近法とは異なる結果が出たのが、県民投票だろう。そうであるために、政権は県民投票の結果を軽んじようとしている。遠近法主義においては、国という集団の中にさまざまな遠近法があって、たった一つの正しいことがあるのではないという見かたが成り立つ。

 政権は、自分たちのおし進めようとしていることだけがただ一つとして正しいのだとするのではなく、自分たちとは異なる遠近法を受けとめるように努めるべきだ。そうするように努めることがいるのは、政権によるあり方が、虚偽意識(イデオロギー)におちいっているおそれが低くないからで、民意とは少なからずずれがおきてしまっているのではないだろうか。民意とは言ってもさまざまなものがあるのは確かだが。

 沖縄県辺野古は、地下の九〇メートルにとても軟弱な地盤をもつという。マヨネーズのような弱いものだとされる。それにくわえて新たに地震のおそれのある活断層があるということも言われている。さらに、海岸の近くであるために津波の被害のおそれがあると研究者の藻谷浩介氏は新聞の記事の中で言っていた。

 いまの政権が、沖縄県をうまく動かしたいのなら、一方的なやり方はまずい。動かすというと悪い言い方なのはあるが、これはデール・カーネギーの『人を動かす』からのものだ。

 カーネギーによると、人を動かすには三つの原則があるという。盗人にも五分の理を認めることと、重要感を持たせることと、人の立ち場に身を置くことだ。いまの政権は、(少なくとも)五分の理を認めることがなく、重要感をもたせていず、人(沖縄県)の立ち場に身を置いていないために、一方的で強引なやり方になってしまっていると見うけられる。

アベノミクスがうまく行っているという仮説を反証(否定)する例として、いまの政権に近しい新聞社の経営の苦しさがある

 産◯新聞は経営が苦しいのだという。多数の社員に退職をうながしている。新入社員は二名だけだという。産◯新聞は右寄りで、いまの首相による政権にすり寄っている報じ方をしている。それでも経営が苦しいとは大変だ。

 いまの首相による政権の経済政策であるアベノミクスが、もし本当にうまく行っているのであれば、産◯新聞の経営がうるおっているはずだ。産◯新聞にもまた当然のことながら恩恵があるのでないとおかしい。右寄りで、いまの首相による政権にすり寄っているのだから、それでいて経済の恩恵だけが受けられないというのはわりに合いそうにない。

 なぜ産◯新聞に、アベノミクスの温かい風が吹かないのだろうか。冷たい風が吹いてしまうのだろうか。もしアベノミクスが、日本の社会においてすみからすみまで温かい風を吹かせられているのであれば、産◯新聞にもまた温かい風が吹いているはずだ。冷たい風が吹いているとはなりづらい。

 産◯新聞に冷たい風が吹いているのだとすれば、それはアベノミクスが温かい風をすみからすみまで吹かせられていないことを示している。それをあかし立てしていることになるのではないか。温かい風ではなく冷たい風が吹いていることを、身をもって示しているのが、産◯新聞の経営の苦しさだと見られる。

 アベノミクスで、日本の社会のすみからすみまで温かい風が吹いているというのは、戦時中の神風神話のような気がしてならない。日本の社会がとてもうまく行っているのであれば順風満帆だ。色々なことがそのようにうまく行っているのではなくて、逆風がいたるところに吹いている。逆風や冷風を吹かせているもとになる大きなものとして、いまの首相による政権やいまの与党があるとしたら、ありがたくも何ともない。

自己保存(自国愛)から勇ましさによってつき進んで自他にたいして不正義を引きおこして破滅にいたった過去の歴史は、あるのではないか(自虐史観だと言われるかもしれないが)

 韓国でも日本人は立派だった。私たちは先人の仕事に胸を張ってよい。日本がよかったり立派だったりしたという日本史があるが、これは韓国が消したものなのだ。新しく出版される本では、こうしたことをうたっている。

 日本は朝鮮半島を植民地支配していたが、そのさいに日本は韓国(朝鮮)によいことをしたというのは、まちがいなく確かなことだとは見なしづらい。日本はよいことをしたし、よい国だったとするのは、まちがった一般化であるし、適していない敷えん(誇張)だと見られる。だいたいのことにおいて、よいことを一般化するのはできづらく、限定化されるのが普通だ。悪いことは一般化されやすい。

 よいことではなく、悪いことはしていなかったのかといえば、それをあげるのに枚挙にいとまがない。負(暴力)の痕跡は消しがたくある。悪いことをしていたのがいくつもあるのだから、そこを矮小化しないようにしたいものだ。

 悪いことをいくつもしていたことに目を向けて、矮小化しないようにするのは、よいことをしたり、よい国だったりしたというふうに、純粋なものとしてしたて上げるのを避けるためだ。日本が(他国に)純粋によいことをしたり、よい国だったりしたというのは、およそ考えづらいことだ。どこからどこまで、一人も残らず悪かったとは言えないとしても、不純であって、雑種であるのはほぼまちがいない。清だけだったというのはおかしいのであって、濁を見ないとならない。

 日本が清であって、よいことをしたりよい国だったりしたのなら、そこに問題はないが、濁であったのであれば問題がある。何も問題がないのならそれに越したことはないが、現実に問題がおきしてしまっているのは否定しがたいことだ。

 いまだに問題を抱えつづけているのが日本の国の姿だろう。過去の戦前や戦争から来ている問題が、いまも尾を引きつづけている。戦前や戦争において日本は国としてまちがったことをしたが、これがいまだに問題として尾を引いているのは、戦争(や植民地支配)というものがそれだけ負の持続をもたらす問題だからだ。かんたんに終わるものではないことによる。

 かつての日本はよいことをしたりよい国だったりしたのではなく、どれだけみにくいことをしたのかや、どれだけまちがったことや愚かなことをしたのかを見るようにしたい。そうするとしても、過去の先人を冒とくすることには必ずしもならないのではないか。

 薬が毒になって、毒が薬になる。この逆説(パラドックス)があるから、薬ではなく毒となることを見るようにすることがいる。毒となることには、日本の負の歴史が当てはまる。負がいまもって引きつづいているのを見るようにして、それを少しでも引き受けるようにして、いかに戦争(や植民地支配)というものが不幸をもたらしてかっこうが悪い(まったくかっこうがよくない)ものかというのを、忘れないようにしたいものだ。

 国どうしのにらみ合いやぶつかり合いによって緊張がおきたときに、核兵器が使われない保証はない。いままでに核兵器がぎりぎりの瀬戸ぎわで使われるのが避けられたのは、核兵器に抑止力があったからではなくて、核兵器の使用(や配備)に反対する声が一時的に高まったことによるという。

 かつての日本は大きな軍事力をもつ国だったが、それによって国民の安全や平和が保たれたのではなく、かえって戦争を引きおこしてしまった。いくら軍事力を大きくして強めても、それによって国民の安全や平和は保たれず、逆に危険をもたらしかねないことがかいま見られる。

 核兵器をもつことなどによる軍備の拡張は、経済としてわりに合うものだとは言えそうになく、軍需産業を富ませるだけに終わりかねない。お花畑の平和の見なしかただと言われてしまうかもしれないが、殺害生産力である軍備や兵器をできるだけつくらないようにして、減らして行くようにして、最終的にはゼロにもって行くことが理想だろう。

 参照文献 『歴史という教養』片山杜秀 『新版 一九四五年八月六日 ヒロシマは語りつづける』伊東壮(たけし) 『頭のよくなる新聞の読み方』正慶孝 『現代思想を読む事典』今村仁司編 「近代世界と環境問題」今村仁司(「生活起点」No.五六 二〇〇三年一月) 『信頼学の教室』中谷内一也 『軍拡の不経済学』田中直毅

(おそらくではあるが)お互いに愛し合っているいっぽうで、世間の一部からは軽べつされてしまっている(軽べつされるのに値するのかどうかはよくわからない)

 天皇家に属する女性である眞子さまが、一般の男性と結婚をすることをのぞむ。この男性とその母親について、きびしい意見が投げかけられている。

 この男性と母親は、母親の元婚約者とのあいだに金銭の借金のもめごとがあると報じられている。紛争をかかえているのだ。

 金銭をめぐる紛争を抱えていることもあって、男性と母親について、人間性が駄目だとか、天皇家にふさわしくないといったことが言われている。人間性というのは定性(質)によることであって、客観とは言いがたいのはある。

 定性(質)として、人間性が悪いというふうにしてしまうと、したて上げることになる。このしたて上げるのは正しいことだとは言い切れないものだ。本当に人間性が悪いことはないではないかもしれないが、悪いところだけを見ていたり、まちがって意味づけしていたりすることがある。こういうものだというふうに悪く対象化しているとすれば、それは現実そのものだとは言いがたい。

 眞子さまの両親である秋篠宮のご夫妻は、結婚に反対しているとの報道がある。本当のところはよくわからないが、一般的に言って親というのは保守的なものだ。保守的なあり方によって、結婚について難色を示しているのではないだろうか。

 結婚の相手となる一般の男性とその母親が、いったいどういう人間性なのかとういのは、あくまでも定性(質)によるものであって、客観とは言えそうになく、また仮説にとどまっている。絶対の真実というのではないだろう。よい人間性を持っているのかもしれないし、そうではないのかもしれないが、いずれにせよ仮説によるのがあるし、動機論の忖度をしてみてもあまりしようがないところはある。動機がまったくもって純粋だということはそもそも考えづらい。

 もし一般の男性との結婚を強くのぞんでいるのだとすれば、もっとも気の毒なのは眞子さまなのではないだろうか。まわりからの反対の声が強いことで、結婚することを断念せざるをえなくなるのだとしたら、のぞみがかなわないことになる。

 よほどとんでもないことがあるのでないのなら、のぞみがかなったほうがよいような気がする。それで悪い結果になることはないではないかもしれないが、そうと決まっているのではないだろうし、また眞子さまの判断が絶対にまちがっているとは言い切れそうにない。

 眞子さまの判断がもしかするとまちがっていて、一部の世間から投げかけられている批判の声や、両親の言っていることのほうが正しいということはないではない。そうであるとしても、結婚することを断念せざるをえなくなることで、あきらめがつかなければ眞子さまが犠牲になる。

 眞子さまの(憲法が保障している)幸福追求権はかなえられることがのぞましいが、それがかなえられないとして、うまくあきらめをつけることができるものかは定かではない。

 眞子さまと一般の男性が結婚することが、よいのか悪いのかというのは、絶対によいとか絶対に悪いとは言えそうになく、条件によるものだと見られる。この条件というのは色々あるだろうから、そこがむずかしいところだ。

 日本では、西洋とはちがい、絶対の主体ではなく関係の主体によっているという。関係の主体によっていることで、自立した個人と見なされるよりは、関係がものを言うようになる。まわりの空気や雰囲気がどうかというのが関わってくる。まわりの空気や雰囲気が悪ければ、祝福することにはつながりづらく、それを押してでもということが成り立ちづらい。このさい、まわりの空気や雰囲気がまちがいなく正しいものかどうかは定かとは言えそうにない。気であって、理とはまたちがうものであることがある。

 参照文献 『法律より怖い「会社の掟」』稲垣重雄