自由主義であるリベラルはまとまらないといけないのか(そうしないと絶対にいけないのかは、定かとは言えそうにない)

 与党や右派に立ち向かう。多数派である与党や右派に立ち向かうには、リベラルの勢力はみんなで連携し合うことがいる。ばらばらでは太刀打ちできづらい。こう言われているのがツイッターのツイートであったのだが、たしかに数ということではまとまったほうが有利なのはあるだろう。

 リベラルというのは自由ということだから、数を多くするためにまとまることによって、自由が損なわれてしまうのはいなめない。みんながまとまって同じ者として集団化して協力し合うのは、どちらかというと他律(ヘテロノミー)であって、自律(オートノミー)とは必ずしも言えないものだ。

 いまの与党である自由民主党のあり方をはたからうかがってみると、他律になっていて、自由が損なわれているのがある。何々への自由である積極的自由はあるが、何々からの自由である消極的自由(干渉の不在)はあるとは言えそうにない。そうであることによって見せかけの同一性による求心のまとまりをつくっているのだ。集団の凝集性が高い(高凝集性の集団である)。多様性がなく、閉鎖性が強い。これは個人の勝手な感想にすぎないものではあるが。

 リベラルということで必ずしもまとまらなくてもよいのではないか。その中に矛盾があってもよいだろうし、非協力なのがあってもよい。そのほうが自由があるということになりやすい。矛盾があってもよいというのは、答えは一つではないのがあるからだ。自由主義の文脈においては、他者に危害を加えないかぎりは、愚行権があるのであって、それぞれの人の自己決定に任されている。

 帰属(アイデンティティ)と個性(パーソナリティ)というのがあるのにおいて、リベラルというのがあるとすると、そこに帰属するだけではなくて、そこから離れることによる個性というのがあってよい。帰属することだけが大事だとはかぎらず、個性をもっていて、それをもつことが許されることもまたそれと同じかそれ以上に大事だ。

 みんなでまとまることによって数を増やすのは、悪いこととは言えないけど、正と負の両方の面があるというふうに見られるものだ。それぞれがてんでにばらばらで孤立してしまうのもまたまずいことではある。そうかといって、集団の中がみんな同じであるような一枚岩なあり方は幻想にすぎない。数が多くて力が強いからといって、それが正しいことだとはかぎらないのはたしかだ。might(力)と right(正しさ)は分けて見られる。

 参照文献 『現代倫理学入門』加藤尚武現代思想を読む事典』今村仁司編 『正しさとは何か』高田明典 『半日の客 一夜の友』丸谷才一 山崎正和

病という現象は、さまざまにあるものだし、体と心が密接に結びついてからみ合っているものだから、たんに自己責任とするのは原因(問題の所在)をとらえているとは言えそうにない(生の欲動であるエロスや、死の欲動であるタナトスが関わっている)

 生活習慣病は自己責任だ。うやむやはよくない。省庁の官僚はそう言っているという。官僚のこの発言にたいして、よく言ったという声があり、いやおかしいという声もある。国士だと持ち上げる。いやそうではないとして、ぺてん師だとさげすむ。

 省庁の官僚は、生活習慣病について自己責任だと言うが、自己責任ということを持ち出すことによって、われわれ(国や省庁)には責任はまったくない、ということを言わんとしている。責任ということについては、国や省庁にも少なからずそれがあるはずだ。まったく責任がないというのはおかしい。

 生活習慣病は個人がかかるものであって、それを個人における病理であるとできるとすると、それだけではなくて、個人をとり巻く社会や国の病理がある。社会や国の病理を無視することはできそうにない。

 基本として粗食しか食べることができなくて、車本位社会(モータリゼーション)になっていなくて、体を動かさざるをえないのであれば、あるていどは健やかになりやすい社会や国のあり方だというふうに見なせる。現実はそうではなくて、便利さや豊かさを追求することによって、食べものや飲み物が過剰(豊富)にある。テレビ番組ではグルメの番組が多く放映されている。自動車がたくさんつくられて売られている。

 社会や国のあり方が不健康で、病理を抱えているために、個人が巻きこまれてしまっているというふうに見なせるのではないか。ストレス社会や疲労社会であるということは軽んじることができそうにない。

 単純に、社会や国のあり方がどこからどう見てもまぎれもなく病んでいると言い切ってしまうことはできづらい。物がたくさんあることによる過剰(豊富)さや便利さというのは、絶対的に悪いとは言えないものだ。食べるものや飲むものがなくて困るのに比べれば、とてもありがたいことではある。個人が置かれている状況のいかんによっては、過剰による豊富さや便利さがさいわいすることがあるし、災いしないこともあるが、中には災いする人もなくはない。

 できるだけ健康な自己決定ができるのであればのぞましい。それができる人は、その人の自己功績なのはあるだろうけど、そこはさまざまだろう。〇か一かということではないとすると、何から何まで健康な自己決定をしている人はあまりいるとは言えそうにない。純粋に健康な自己決定だけをしている人はいるとしてもまれであって、たいていは不健康な自己決定が混ざっているもので、不純または雑種ということになる。

 完ぺきに健康な自己決定ができている人は別として、たいていは健康なのと不健康なのが混ざり合っている。ていどの問題だということができるだろう。不健康の度合いが大きくなってしまうとして、それは個人の非として片づけてしまえるかと言えば、そうとは言いがたく、とり巻く社会や国のあり方に病理があるのが関わってくる。

 社会や国が抱える病理に目を向けて、それを改めて行くことができるから、そうするようにするのはどうだろうか。社会や国のあり方で、労働のことをとり上げてみても、まっとう(ディーセント)なものではないのがあるので、そこを改めるようにしたい。

 十ぱ一からげに、生活習慣病は自己責任なのかと言えるかについては、首をかしげざるをえない。たとえば、減量ということについて言うと、それぞれの人がみな標準なあり方をしているのではなく、すごく太りやすい人もいれば、そうではない人もいて、さまざまだ。あまり太りづらい人は、大した努力をしなくても太らない。太らないように努力をするにしても、努力逆転の法則がはたらくことがある。人のあり方というのはみんなが標準というのではなくて、わりと偏差(差異)があるものなのではないだろうか。そこをくみ入れることはあってよいことだ。

 参照文献 『「大岡裁き」の法意識 西洋法と日本人』青木人志疲労とつきあう』飯島裕一 『事例でみる生活困窮者』一般社団法人社会的包摂サポートセンター編

いまの政権やいまの与党に見うけられる、有限な国会での時間を湯水のように無駄にするような、重点となる結論を最後(後方)にもってくる駄目な説明のしかた(とりわけ首相は、牛のよだれのようなだらだらとした長いわりに中身のすかすかな説明をしがちだ)

 国会において、時間を無駄につかう。それは国民の誰一人としてのぞんでいないことだ。与党である自由民主党の議員は国会においてそう言っていた。

 たしかに、国会のやり取りにおいて時間をできるだけ無駄にしないようにすることは、多くの国民がのぞんでいることではあるだろう。与党の議員が言うように、時間を無駄にしないことはいるが、そのためには何をするべきなのか。

 いまの与党による政権には、時間や労力の節約ということがなく、時間を引きのばすことによってものごとをうやむやにしようとする企みが見うけられる。このことによって時間や労力が無駄に使われてしまっている。

 いまの政権は説明責任(アカウンタビリティ)を十分に果たしていない。説明ということには二つのものがあると言い、演繹の説明と帰納の説明があるという。演繹の説明では結論が最初にくる。帰納の説明では具体例が先にきて、結論はいちばんあとだ。

 時間を無駄にしないようにするためには、演繹の説明をするべきである。これがまったくできていないのが、いまの首相による政権だ。やろうとする気がかいま見られない。政権に時間を節約する気がないのとともに、日本語の特性もまた関わってくる。英語では主語や動詞などの大事なものが最初にくるが、日本語ではあとにくる。はいかいいえかが最後にならないとわからないからあいまいになりやすい。

 日本語の負の特性もくみ入れるようにして、演繹の説明を行なうようにする。重点となる結論を先行させて、最初にもってくるようにすれば、時間を無駄にしない説明になりやすい。これを行なおうとはせずに、わざと時間を引きのばすために、重点となる結論を後方に置いて、最後にもってきたり、あいまいにしたりするのは、国民の益になるとは言いがたいものだ。いまの政権やいまの与党は、この点についてとくに気をつけるようにしたらどうだろうか。

 参照文献 『思考を鍛える大学の学び入門』井下千以子 『「優」をあげたくなる答案・レポートの作成術』櫻田大造 『やさしい英字新聞入門』天満美智子 エリック・ベレント 『節約精神』中谷比佐子 『文章トレーニング』白井健策

いまの与党にいる一部の議員は、必ずしも危険ではないものについて、いたずらに熱をもってさわぎ立てないで、冷静になることも必要なのではないか

 日本の植民地支配からの独立をめざす運動のおきた日を祝うことが、韓国で行なわれた。この祝う日に、韓国で日本人が危ない目に会いかねない。自由民主党の一部の議員は、日本人が韓国で危険な目に会いかねないということで、その危険さを言い立てたり、危険さを深刻なものとしたりしていた。

 たしかに、万が一ということはあるだろう。万が一韓国で日本人が危険な目に会うとしたら、よくないことはたしかだ。ところがじっさいにふたを開けてみると、まったく危険性はないといってよいほどだったのだという。拍子抜けをするとはこのことではないだろうか。

 このことをふり返って見るに、自民党の一部の議員が行なったことは、一〇〇パーセントまちがったことだったのかどうかはわからないが、危険さを見つもる参照点が高すぎたことはいなめない。危険さを見つもる参照点を高めにしすぎて、そこで固定させてしまった。もっと参照点を動かして、中くらいや低めであることをくみ入れることができた。

 ものによっては、危険さの参照点を高くしすぎるのは、大人の冷静さを欠くことになって、幼稚な印象をはたにおぼえさせることになる。もし危険なのであれば、危険だととらえることはいるのはたしかだが、色々と視点を変えて見ることができるのであれば、できるだけ視点を変えていくつもの見なし方をとるほうがまちがいを避けやすい。危険だということで、高めに参照点をとって固定化させるのは、ものによっては必ずしも適してはいない。認知のゆがみとなる。

 外交においてやってはいけないことは、大衆迎合主義(ポピュリズム)になって、他国を悪く言うことで自国民をあおり立てることだ。いまの与党や省庁には、他国を悪く言うことが見うけられるし、それによって与党は国民からの支持をとりつけようとしている。短期の利益に走っているのだ。自国と他国がぶつかり合わないようにして、ぶつかり合いのもとを少しでも減らすように努めるのが、与党の政治家のやるべきことだろう。危険をあおり立てる前に、それを少しでもやったらどうだろうか。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『選挙ってなんだろう 一八歳からの政治学入門』高村正彦 島田晴香ミシェル・フーコー』重田園江

いまの首相による政権やいまの与党は、他からの批判や反証(否定)に開かれていないために、他と話し合いのやり取りを行なうことがさまたげられている(同質の者どうしの独話や会話しかできていない)

 人格への攻撃や悪口を言うのではなく、まともな公共政策の議論をしてほしい。与党のみならず、野党も(与党と同じかそれ以上に)悪い。野党の議員がしっかりとしていないから、与党とのまともな公共政策の議論ができていないのだ。野党の議員はあり方を改めて、与党との人格の攻撃や悪口のやり合いをやめるべきだ。こうしたことがツイッターのツイートで言われていた。

 たしかに、人格への攻撃や悪口を言うのは生産的とは言いがたい。公共政策の議論を行なうことは、たんなる攻撃や悪口と比べれば生産性があるものだ。攻撃や悪口はやめるようにすることがいるが、質疑応答ということにおいて、与党や政権は聞かれたことにまともに受け答えていないのはいなめない。これでは議論になるものではない。

 質疑応答において、聞かれたことにかみ合うように答えるのは、議論の基本の技術だ。これができていないのが、いまの政権には見られる。はぐらかしやごまかしやすりかえや演説をしてしまう。これでいったいどうやって生産性のある公共政策についての議論を行なえるというのだろうか。

 にわとりとたまごの関係ではあるが、もっぱら攻撃や悪口をしているのはいまの首相による政権だ。何かというと旧民主党のことを持ち出して、どっちもどっちだの人にうったえる議論にもっていっている。人にうったえる議論は形式としてはきびしく見れば詭弁であって虚偽だ。

 国会で野党の議員は政権にたいして質問をする。政権はそれにたいしてかみ合うように答える。憲法ではそうすることを定めているというのだが、この定めをないがしろにしているのがいまの首相による政権だ。

 攻撃や悪口ではなく、公共政策についての議論をするのがのぞましいとはいえ、そのまえに政権が憲法の定めをないがしろにせずに守るようにしてほしいものだ。定めを守らずにないがしろにするのは、法をおろそかにすることであって、これはいまの政権にとっての短期の利益にはなるかもしれないが、長期の国民の利益になるとは言いがたい。政権が無法者(アウトロー)になっているのを改めることがいる。

 いまの政権やいまの与党は、独話(モノローグ)や会話はできていても、ちがいのある他との対話(ダイアローグ)はできているとは言いがたい。これを改めるためには、ちがいのある他を認める理解をもつことと、すじ道の通ったことを言う論理再現性がいる。この二つのどちらもが欠けているのが、いまの政権やいまの与党だろう。

 中身のある公共政策についての話し合いを与党と野党が行なうためには、与党が理解をもつことと論理再現性をもつことがいる。これらがいちじるしく欠けているのだから、話し合いは成り立ちようがない。無理解と非論理非再現性になっているのだ。

 いまの政権やいまの与党は、隠れた前提条件をもっているために、非創造的になっている。この道しかないということで一つの正解幻想におちいっていて、柔軟性がなく、硬直している。言うことややることに説得性が十分に備わっていない。隠れた前提条件としてあげられるのは、首相のお友だちや身内を優遇するとか、業者(基地を建設する業者)との取り引きで党が利益を得るといったものなどだ。

 議論において生産性が欠けることになるもとは、もっぱら与党にあるのであって、たんに反対してくる野党に責任をなすりつけるのでは解決にはつながりがたい。いまの政権やいまの与党が変わらないことにはどうにもしようがないことだ。

 国会において、与党と野党とが生産性のある議論を行なえていないのがあるさいに、そこに相互作用がはたらいていると見なせる。たんに野党がたよりないとか、野党が支持されていないという単独の話なのではない。いまの政権やいまの与党がどうしようもないていたらくであるために、そこから相互作用がはたらいて、野党の力が弱くなっている。

 野党が駄目だというのなら、相互作用がはたらいていることをくみ入れると、与党もまた(それと同じかそれ以上に)駄目なのだ。どっちもどっちの話になってしまいはするが、いずれにしても、与党と野党もともに自分たちを正当化するカタリによっているのは多かれ少なかれある。与党のほうがよりひどいのはあるし、お金にも汚いのは言っておきたい。権力はお金によっているのがあるために、お金の不正がおきやすい。

 参照文献 『対話力』樋口裕一 久恒啓一 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之 『あなたの人生が変わる対話術』泉谷閑示(いずみやかんじ) 『議論のレッスン』福澤一吉 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸 『創造力をみがくヒント』伊藤進 『‹聞く力›を鍛える』伊藤進 『心理学って役に立つんですか?』伊藤進 『政治家を疑え』高瀬淳一 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ

言葉の使いかたは(やっぱり)むずかしい

 女性の運転手のみなさんに質問があります。やっぱり、車の運転は苦手でしょうか。トヨタ自動車は、こうした質問をツイッターのツイートで他のユーザーに投げかけたという。この質問にたいして批判が投げかけられている。

 一見したところよくわからなかったのだが、色々な声を目にすることで、おかしいものであるということが改めて分かった。車の運転が苦手かどうかをたずねるさいに、やっぱりという言い方が使われている。このやっぱりというのは、やはりの促音形(「っ」がある形)となるものだ。

 やっぱりという言い方はなにげなく使ってしまいがちだ。悪気があって使ったのではないだろうけど、それだけにふいに使うことで一歩まちがえるとうかつな言い方につながりかねない。企業のツイッターとしては、言い方に気をつけるべきだっただろう。

 トヨタ自動車ツイッターのツイートでは、女性の皆さんに質問ですとして、女性に向けてたずねているが、男性や女性といった性によるくくりは、分類が関わってくるので危なさがある。分類によっていてなおかつ否定の定義(性格)づけとなると、悪い意図が明らさまにはなかったのだとしても独断や偏見につながりかねない。

 たんに車の運転は苦手かどうかとたずねるのではなくて、得意かそれとも苦手か、というふうにたずねたほうがまだ無難だったかもしれない。車の運転で事故をおこさぬように気をつけることがいるのと同じように、企業を背負っているのであれば、ツイッターのツイートでは慎重な言いまわしに気をつけることが求められる。

 ついうっかり適していないことを言ってしまうことはありがちだし、ツイッターのツイートだと気軽に言うことができるのはあるが、なるべく気をつけたいものだ。

 気をつけるさいに、おもしろみや瞬発性はないだろうけど、言葉足らずにならないように気をつけて、言葉数を増やして趣旨がわかるようにするなどして説明をするようにしたほうが多少は安全だ。言葉数が少ないと、悪意がなかったとしても誤解をまねいてしまうことがある。発言には意図が入りこむものだが、それを自覚しておくのも手だ。意図が入っていることで情報の汚染がおきる。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『情報汚染の時代』高田明

決意を言ったのにすぎないということにおける、のぞみ(wish)と確たる意思(will)のちがい(のぞみにすぎないものを、確たる意思のように見せかけていることが少なくない)

 年金の不正がおきたさいに、最後の一人まで何とかするのだと首相は言った。かなり以前のものではあるが、このことを野党の議員から言われたのを受けて、それはたんに決意を言ったのにすぎないと首相は答えた。

 決意ということであれば嘘をいくら言ってもよいのかと野党の議員は応じている。決意を言うのならちゃんとやる、ちゃんとやらないのなら(大ぶろしきを広げるようなことは)言わないようにすることだ。こう野党の議員は言ったが、これは野党の議員の言うことにそれなりにもっともなところがある。

 決意を言ったのにすぎないということだが、この決意というのはのぞみ(wish)であって、確たる意思(will)ではないということだろうか。最後の一人まで何とかできればよいなあということであって、何がなんでも何とかするのだという確たる意思ではなかったということだ。

 年金の不正については、そのときに発覚したのはほんの氷山の一角にすぎず、じっさいにはもっとたくさんの悪いところが探せばあるのだというふうに一説には言われている。くまなく不正を探し出すことは行なわれず、また行なえないともされ、時間が経つことでうやむやになった。年金の管理は、いい加減さやずさんさによっているおそれが低くはないが、これはいまの政権のあり方にも当てはまる。無責任なのもある。

 決意を述べたのにすぎないというのは、表で言っていることと、裏によるものとがちがうということを示す。かつての日本では、戦前や戦時中において、権力が国民にたいして表で言っていたことと、裏によるものとがずれていたという。大本営発表はその大きなことの一つだ。それで国民はだまされたことが、戦争に敗戦したあとになってわかった。

 かつての国による国民への情報管制や情報操作をほうふつとさせることが、いまの政権に見られるのは、たんなる個人的な見まちがい(とらえちがい)だろうか。大手の報道機関は、政権からにらまれているせいか、政権を批判することにおよび腰だ。ただ批判さえすればよいというものではないが、空気を読んだり忖度をしたりして権力の奴隷になって丸めこまれてしまうのはまずい。

 のぞみにすぎないものを、確たる意思であるかのように言うのを、まったくするなというのではないが、それの度がすぎるのであれば、許容しがたいものだ。言ったことをちゃんとやるのなら内実がともなっているが、決意は言うがしっかりとやらないというのでは表面のうわべの効果に走っていると言わざるをえない。

 参照文献 『損得で考える二十歳(はたち)からの年金』岡伸一

N◯K には優秀な人や社会のことを考えている人がいるというのだが、組織として見たら、思い切り国家のイデオロギー装置になっていて、いまの政権を保つことに加担してしまっていて、(悪く言ってしまうと)権力の奴隷のように見うけられる

 N◯K のことを悪く言う。その悪く言われる N◯K には、すごく優れている人が少なくない。社会のことをよく考えている人たちは N◯K の組織の中に多くいる。そうであるのだから、その人たちのことを悪く言うことにつながるような、表面的な批判や悪口は言うべきではない。それを言っても誰も幸せになることはない。そうしたツイートがツイッターで言われていた。

 たしかに、N◯K の中には優れた人や、社会のことを考えている人たちはいるのかもしれない。それはそれとして、N◯K に問題がないのかと言えば、そうとは言えないのではないだろうか。

 N◯K には東洋による多神教のあり方がかいま見られる。国民の中には右の人も左の人もいるわけだが、それらの人たちのどれもに顔を向けることによって、中途半端なあり方になってしまう。総花的になる。一つの袋の中に色々なものが詰めこまれていて、一見すると色々な人を満足させられるかのようだが、核となるようなものがない。

 N◯K には駄目なところがあると見うけられるが、これはいまの首相による政権にもまた見られるものだ。いまの首相による政権もまた、N◯K のように、一つの袋の中に色々なものを入れていて、一つひとつが中途半端で総花的になっているし、核が見うけられない。核となる理念を語れていないのではないだろうか。なぜ語れないのかというと、これといった確たる理念がないからではないか。権力を保ちつづけることが自己目的化してしまっている。

 N◯K が駄目であるとして、それを改めるためには、時の政権の顔色をうかがうことをしないようにすることがいる。大に事(つか)える事大主義になるのではないようにして、権威主義とはならないようにしてほしいものだ。

 いまの N◯K は、大手の報道機関が理想としてはもっているべき自律性をもっておらず、時の政権に大きく干渉を受けることで他律性に堕していると見られる。時の政権と距離をとれてはいなくて、一体化してしまっていることが危ぶまれる。国家の公(領域の公)にひれ伏すのではなく、距離をとって対象化するように少しでも努めたらどうか(もしかしたら多少はやっているのかもしれないが)。

 参照文献 『公私 一語の辞典』溝口雄三

官房長官と記者とのやり取りで、記者による質問とは別に、やり取り(記者会見)そのものにたいする設問をとることができる

 あなたに答える必要はない。政権にきびしい質問を投げかけてくる記者にたいして、官房長官はそう言ったという。これについて一部の報道機関は、報道の自由や国民の知る権利をさまたげかねないものだとして批判を投げかけている。

 はたして、官房長官の記者会見において、記者が投げかける質問としてふさわしいものとは一体どういったものなのだろうか。記者が政権に質問を投げかけるのにおいてのふさわしさとは別に、記者会見そのものについて質問を投げかけることをしてみることができる。

 官房長官が記者の質問を受けつける、記者会見そのもののあり方に問題があるのだとしたら、記者会見そのものに質問を投げかけてみることで、問題にとり組むことのとっかかりとなる。

 いまの首相による政権ということはさしあたってカッコに入れるようにして、どういった政権であったとしても、どうあることがよいのかというふうに見るようにしてみたい。この政権には当てはまっても、ちがう政権のときには当てはまらないといったようなことでは、自由主義における普遍化可能性(反転可能性)においてまずいものだ。特殊なあり方になってしまっている。

 類似においては、この政権のときはこうだけど、ちがう政権のときはそれとは異なるというのでは、正義や公平の原則にかなっているとは言いがたい。同じ本質をもつ類似したものには同じあつかいをしなければならない。そうするためには、これまではどうだったのかや、これからどうするのがよいのかを、一から見直す。これまでをふり返るという点でも、質問を投げかけることがいる。

 政権にとってきびしい質問を投げかけてくる記者は、政権にとってはうとましいものだろう。たとえうとましいのだとしても、順序が逆なのであって、きびしい質問を記者から投げかけられても困らないようなことを政権ははじめからしているべきだろう。

 選挙で選ばれたから政権は正しいことをするというのは、正しいことをすることがまったくないとは言えないものの、確証(肯定)の認知の歪みや思いこみ(アサンプション)がはたらいている。政権は人間によって成り立っているために、まちがいを避けられない。自由主義においては、反対勢力(オポジション)などからの批判(反証)にたいして開かれているのでないとならない。

 おかしなことやまちがっていることを政権がやっているから、記者からのきびしい質問にまともに答えられなくなる。そう見なすしかない。これを記者が悪いのだとするのは、政権が自分たちのおかしさやまちがいを記者になすりつけてしまうことになる。

 記者が適していない質問を政権に投げかけているというよりも、適していない者(政治家)が政権についているのではないだろうか。そこについては人によって色々によし悪しを見られるものではあるだろうけど、政権にたいして忖度せずに空気を読まない記者を悪玉化することでこと足りるとは言えそうにない。

 権力は支配をするものだ。権力がもつ虚偽意識(イデオロギー)によって、権力にしたがうようにそれぞれの人々に呼びかける。その呼びかけに応じることによって権力にしたがうあり方が形づくられる。自発的服従だ。したがわずにあらがう人がおきれば、権力にとってはうとましいことになって、むき出しの暴力をとることにつながりかねない。権力からの呼びかけにしたがわずに、あらがう人がいるのだとしても、それを受け入れることができたほうが寛容性がある。

 ぶつかり合いになると緊張や対立がおきて難しいのはある。〇か一かで、どちらかが完ぺきに正しくてもう一方が完ぺきにまちがっているというのではないだろう。そこは社会関係(パブリック・リレーションズ)ということで、倫理観を示して、(一方向ではなく)双方向によるようにして、自己修正を互いにきかせられればよい。

 政権と記者ということだと、二者関係になって、どちらかが〇でどちらかが一だということになりやすい。これを三者関係の図式で見られる。現実(民意)があって、そこからずれたところに虚偽意識による政権があって、政権にたいする批判として記者や野党などがいる。報道機関もまた権力の一つではあるものの、虚偽意識である政権にとってうとましいとなると排除されやすいのが報道機関や野党などの反対勢力(オポジション)だ。

 権力にしたがう者だけを権力がよしとするようであれば、画一化されることになる。画一化は単一性ということであって、安定さを欠く。単一性ではなくさまざまなあり方による多様さがあることが安定さにつながる。単一性によるのだといざというときに総くずれになって絶滅しかねないが、色々なものによっていて多様であればそうなりづらい。生態学では、多様安定相関の原理というのがあるという。色々なものによる多様さは安定することの必要条件だということだ。

 参照文献 『企業参謀ノート 入門編』大前研一監修 プレジデント書籍編集部編 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』井上達夫 『科学文明に未来はあるか』野坂昭如編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『「説明責任」とは何か』井之上喬(たかし) 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信

国のかくあるべしによる単一の一方的な当為(ゾルレン)と、県の民主主義をくみ入れたかくある(さまざまな意見がある)実在(ザイン)

 沖縄県には沖縄県の民主主義がある。それとはちがい、国の民主主義がある。防衛相はそう言ったという。沖縄の民主主義よりも、国の民主主義のほうが大事なのであって、そちらを重んじることがいるということを言いたいのだろうか。

 沖縄では、新しいアメリカ軍の基地を移設して建てることを問う県民投票が行なわれて、反対が多数となる結果となった。国はこの結果を受け入れたくないために、沖縄とはちがう国の民主主義があるのだと防衛相は言ったのかもしれない。

 防衛相が言うように、沖縄には沖縄の、国には国の民主主義はあるかもしれないが、そうだからといって、沖縄のを軽んじて、国のを重んじるのはふさわしいことなのだろうか。沖縄のよりも国のを重んじることの確かな根拠はどこにあるのかは必ずしも定かではない。

 法学者のハンス・ケルゼンはこう言っているという。民主主義とは政治の相対主義の表現である。多数決による決定と少数派の保護を本質としてもつ。これをくみ入れると、沖縄とはちがう国の民主主義があるからといって、国の民主主義を絶対化するわけには行かない。国の民主主義は相対化するべきだろう。

 民主主義が相対主義によるのがあるし、なおかつ民主主義もまた相対的なものだと見られる。民主主義が何よりも価値を持つというのではなくて、さまざまな価値を持つものの中の一つとして民主主義があると位置づけられる。価値相対主義による。民主主義はすぐれた合理性(形式の合理性)を持つものではあるものの、ほかの価値を持つものとの緊張を持ったつな引きによって成り立つ。

 国は多数(強者)で一つの県は少数(弱者)ということであれば、少数者の言いぶんを重んじるということは大切だ。これを民主主義よりもより価値のあるものだと見なすことがいることがある。民主主義によって何でもかんでも決めてよいとは言えず、それが暴走するさいに歯止めをきかせるためのものとして憲法による近代の立憲主義がある。

 国は、多数や強者であるという自分たちのおごりをかっこに入れるようにして、国とはちがう県の民主主義があるというのであれば、その県の民主主義とまともに向き合うようにしたらどうだろうか。

 参照文献 『民主制の欠点 仲良く論争しよう』内野正幸 『よくわかる法哲学・法思想』(やわらかアカデミズム・わかるシリーズ)