いまの与党が、いかに議論ができないかというのが、聴取票を野党の議員に(機械でコピーさせずに)手で書き写させるという嫌がらせにあらわれている

 制度の中の人による声を調べて聞き取る。その記録である聴取票を、与党は野党に機械でコピーさせない。手書きで写させている。与党は野党に嫌がらせをしていると見られる。

 外国人技能実習制度の聴取票を手書きで写させられるのを、皮肉をこめて野党の議員は写経と言っている。与党は野党に聴取票を機械でコピーさせず、手で書き写させたが、これは逆説にはたらいたのではないか。

 野党の議員はあえてしなくてもよい苦労を与党によってさせられた。手書きで聴取票を書き写させられた。そうすることによって、制度の中の人による声が身にしみたのではないか。機械でコピーしたのでは十分に身にしみなかったかもしれないのが、時間をかけて手で書き写したために、発している声がよく分かるようになった。

 個人としては、野党の議員には苦労をねぎらいたい。与党や担当の役人には、思い上がりもほどほどにしてもらいたい。

ゴーン氏と首相とのちがい

 日産のカルロス・ゴーン元会長に、有罪推定の報道が行なわれている。これはよくないことだ。あくまでも無罪推定の報道をすることがいる。

 ゴーン氏にたいして無罪推定の報道をせよと言っておいて、なぜ安倍晋三首相にそれを当てはめないのか。首相にそれを当てはめないのは二重基準(ダブルスタンダード)だ。そういったツイートがツイッターで投げかけられているようだ。

 ゴーン氏と同じように、首相にも無罪推定を当てはめることがいるというのは、首相は容疑の疑いがかかっていることになる。首相は容疑者なのか。ツイートではこうしたことも投げかけられていた。

 現実においては、ゴーン氏は有罪推定で見られているのだから、それに合わせるのであれば、首相もまた有罪推定で見られるのでないとならない。しかし現実には、ゴーン氏は有罪推定で見られているものの、首相はそれと同じくらい厳しく見られてはいないで甘く見逃されている。下に厳しく上に甘い形であつかいが二重基準になっている。下といっても、ゴーン氏は経済の世界では上ではあるが。

 ゴーン氏には推定無罪を当てはめるが、首相にはそれを当てはめない。こうするのだとしても、とくに二重基準になるとは言えそうにない。二重基準にはならないし、不公平にもならない。

 もし二重基準になったり不公平になったりするのだとすれば、ゴーン氏と首相はまったく同列であることになる。しかし同列ではないとすれば、それぞれにちがった応じ方が行なわれてよい。

 まず、ゴーン氏は民間の人だが、首相はそうではなく公人である。民間の人と公人とでは同じあつかいにするのは適していることではない。

 ゴーン氏は民間の経済において多額のお金を稼いでいた。その点では経済における強者である。しかし公人ではないし、政治における強者ではない。そのいっぽうで首相は政治における権力者なので、政治の強者だ。政治の強者は国民にたいして暴力を用いられるので、甘く見るのではなく厳しく見ることがいる。

 ほんとうは、首相が自分から(言われなくても)国民にたいして説明を尽くすことがいるが、それは行なわれていない。人から聞かれたことにすらきちんと答えていない。大手の報道機関にたいして圧力をかけたり、追求から逃げたりしているしまつだ。こんなていたらくなのだから、少なくとも一つの視点としては、不正をしていると見るのが適したことではないとは言えないだろう。

言いあらわす技術と内容との不つり合い(過剰)のまずさがある

 言いあらわす技術と、その内容がある。内容というのは創造性や感性でもある。この二つがあって、どちらかだけが過剰になる。それはよくないことだ。音楽のピアノ奏者であるチック・コリア氏はそう言っているという。

 言いあらわす技術というのは、音楽でいえば演奏する技術に当たる。音楽では、言いあらわす技術と、その内容の二つにおいて、どちらかだけが過剰になってもいけない。どちらかだけが過剰になると不つり合いになる。

 音楽とはちがうけど、いまの与党による政治では、言いあらわす技術だけが過剰になってしまっていると見られる。この言いあらわす技術とは、国会において、与党の政治家がご飯論法や信号無視話法をやたらに用いているのをさす。

 いまの与党による政治では、言いあらわす技術が過剰だ。この技術というのは、おもに不正をごまかすための詭弁や強弁だから、まったくほめられたものではない。言いあらわす技術は過剰だが、そこに内容がともなっていない。創造性が欠けている。

 のぞましいのは、言いあらわす技術と内容との二つにおいて、どちらかだけが過剰にはなっていないものだ。かりにどちらかが過剰になるとしたら、内容のほうが過剰なほうがまだ救いがある。内容が過剰なのであれば、それを言いあらわす技術がともなっていないだけで、内実はある。しかし、言いあらわす技術が過剰なのには、ものによっては救いはあまりない。いまの与党による政治はこうなってしまっていると見られるから危ない。耳に快く響くような言葉だけは多いが、内実はなく、表面的な効果に走っている。

まちがったおかしなおきてが実習生に課されているようだ

 実習生に恋愛するのを禁じる。妊娠も禁じる。なぜ禁じるのかというと、生産能力が落ちるからなのだという。もし実習生が妊娠したとすると、強制的に帰国させたり中絶させたりすることがおきていると報じられている。

 外国人技能実習制度において、このようなことがおきているのは、法によってとられるべき労働者の権利がひどくないがしろになっていることによっている。

 いまの与党である自由民主党の国会議員は、国民の権利についてこう言っていた。国会議員いわく、権利、権利とやたらに権利をとり立てるのは、馬鹿ではないか。権利をとり立てることについて、馬鹿ではないかというふうに自民党の国会議員は言っていた。

 いかに権利というものが大事なのかを物語っているのが、外国人技能実習制度において一部の実習生がこうむっていることだと見られる。権利がないがしろになるとどういうことになるのかがここに示されている。労働において、使用者と(使用者に使われる)労働者は、力関係に差がおきやすいために、労働者が権利をとれないと悲惨なことになる。

 法が当てはめられずに、権利がとられないで、組織の中のまちがったおきてがとられてしまう。まちがったおきてとして、恋愛を禁じたり妊娠を禁じたりする。こうしたまちがったおきてがとられるのは、自立した個人として実習生を見ないで、使用者に都合のよいような関係的(非自立的)なものとして見なしているためだろう。

 日本では組織の中で個人が自立しづらく、関係的(非自立的)なものとされやすいと言われる。組織の中で同調の圧力がおきて、空気を読むのを強いられる。個人よりも集団が重んじられやすい。

 外国人技能実習制度における実習生を含めて、それに限られず、広く労働者において、組織の中でおかしなおきてがとられないようであるのがのぞましい。それを改めるようにして、変な要求を労働者(や実習生)にとらせないようにしたい。そのために、生産能力という効率ではなく、適正さをとるように改めないとならない。

 自民党の議員は、国民が権利、権利と言うのは馬鹿ではないか、と言っていたが、改めて見ると、馬鹿なのはいったいどちらなのか。労働者(や実習生)が十分な権利をとれず、不十分であることによって、世界にたいする恥さらしのような恥ずかしいおきてが日本の組織の中でとられてしまう。

 まちがったおかしなおきてがとられるのは民間の会社の組織に限ったことではない。いまの与党である自民党の組織の中や役人の組織である省庁(の一部)では数々の不祥事をおかしていて、それをごまかしている。日本の中で、上と下が、悪い形で相似形(フラクタル)になっている。上(与党や省庁)ほど甘くなって不正が見逃されている。ほんとうは上(与党や省庁)ほど厳しく見られないとならない。

日本にとって韓国は敵国であるという見かたは、個人としては受け入れられるものではない

 韓国はいまや明らかな敵国だ。韓国からの労働者を日本に受け入れてはならない。韓国にいる日本の企業は早く撤退すべきだ。韓国から日本の企業が何をされるかわからない。そんなツイートがツイッターで言われていた。

 韓国はいまや明らかな敵国だというのは、韓国の裁判所で、日本の戦時中における徴用工について、日本の企業に賠償を命じたのがあるからだろう。これをもってして、日本にとって韓国は敵国となったと言えるのだろうか。

 何が明らかになったのかというと、日本にとって韓国が敵国となったことなのだとは言えそうにない。そうではなくて、日本と韓国とのあいだにずれがあって、問題がおきていることは明らかだろう。

 日本が韓国のことを敵国だと見なす。それで交流を断つ。やりとりをしないようにする。現実としてこうしたことができるとは見なしづらい。隣り合っている国どうしだからである。国というのは人などとはちがい、どこかへ動いて行くことはできない。したがって、将来の影を見こして、何とかお互いにうまくやって行くようにして、摩擦を少なくして行くように時間をかけて努めることが合理的だろう。

 お金に関して言うと、日本は韓国にたいして、たとえ一円であってもお金を支払いたくはない。そんなけちな気持ちがおきているのだとしたら、それは人情としてはまったくわからないことではない。そこは許容度が関わってくる。

 なぜ日本の企業にたいして韓国の裁判所は賠償を命じているのかというと、かつて戦争のさいに悪いことをしたためなのがある。かつて戦争のさいに日本はきわめて悪いことをしたのを省みれば、それにたいしての補償としてお金を支払うのを許容するのが筋なのではないだろうか。

 お金を支払うのを許容するのは、日本にとって手痛いことだ。その手痛さというのは、日本がかつて戦争のさいにきわめて悪いことをしたことによっている。それが手痛さとなっている。だからそれを引きうけるのは意味があることだ。痛み(pain)によって得られる(gain)意味がある。その意味というのは、これから先において、ふたたびかつてのような戦争や植民地の支配という愚かなあやまちをくり返してはならないということだ。

与党がおし進めようとしている憲法の改正の議論は、民主主義による議論になっているとは見なせそうにない(立憲主義から言ってもおかしいものだろう)

 野党を抜きで、憲法改正の話し合いを行なう。野党は欠席をするが、与党だけで憲法の改正の話し合いを進めてしまおうとする。与党はこうしたことをしているが、このことについて立憲民主党蓮舫議員は、数の力の強引さを通り越して、力関係の嫌がらせ(パワー・ハラスメント)になっていると言っている。

 憲法の改正についての議論を行なうさいに、野党が議論の場に出てこないで欠席をする。これを野党が職務を放棄しているのだと見なす。職務を放棄している野党はいけないことをしているとする。それで与党(とその補完勢力の野党)だけで憲法の改正の議論を進めることは、はたしてふさわしいことなのだろうか。

 野党を抜きにして、与党とそのお仲間だけで憲法の改正の議論を進めるのは、個人としてはうなずくことができるものではない。こうしたやり方は、民主主義から言ってもおかしいことだろう。民主主義から見てもおかしいことなのだから、憲法の改正を議論するさいのふさわしいやり方とは言えるものではない。

 憲法の改正を議論するさいにも、当然のことながら、民主的な議論を行なうようにしないとならない。民主的な議論を行なうのであれば、たんに憲法の改正をよしとするものだけしか認めないというのははなはだおかしい。

 民主主義による話し合いにおいては、憲法の改正の提案や、憲法の改正の対案をもっていなければ駄目だというのは適していないことだ。そうした提案や対案をもたずに、制度の保守主義として、現状を維持(保持)するのもまた広い意味での提案であり対案だと見なせる。提案や対案をもっていないのでも批判を投げかけられるのが許されることがいる。

 何ごとにおいても、何でもかんでも変えるのが正しいとは言えないのだから、それは憲法の改正の議論にも当てはまるものである。何でもかんでも変えるのが正しいのであれば、これまでのあり方を変える提案や対案をもっていないとならないことになるが、そうではないのだから、現状を維持(保持)するということが十分に認められるのでないとならない。そうでなければおかしい。

 かりに憲法を改正するにしても、そのための議論において、危険性を慎重に見て行くようにすることがいる。それを行なわないのは拙速となりやすく、急進主義である。

 与党がおし進めようとしている一方的な憲法を改正するための議論のやり方は、民主主義から言ってもおかしいし、立憲主義から言ってもおかしいものだ。二重におかしいように映る。憲法を改正するのが絶対に駄目だというのではないし、憲法を変えないことが絶対に正しいのでもない。憲法を改正するのだけが正しいという前提条件を与党がとるのであれば、民主的な議論につながるのはのぞめない。

 非民主的な一方的で強引な議論によって、憲法の改正の議論をおし進めていって、それで憲法の改正の正当性があると言えるのだろうか。過程をていねいに進めてもらいたいものだが、いまの与党とそのお仲間にはそれを期待するのはきわめて難しい。

入国管理局の近くの道路に落書きが行なわれたことを、紛争として見ることができる

 難民のとりあつかいのおかしさにたいして、声をあげる。それでスプレーによる落書きが道路に書かれる。東京入国管理局の近くの道路に、FREE REFUGEES という文句の落書きが行なわれた。

 この落書きは清掃して消し去られたが、この落書きはいけないことだとするツイートが、いまだに東京入国管理局ツイッターには掲げられているという。

 この落書きについて、紛争の視点から見ることができる。紛争には主体と手段と争点があるという。主体は、東京入国管理局と、スプレーで道路に落書きをした人だ。手段は、スプレーで道路に落書きすることだ。争点は、日本の難民などの入国管理において人権の侵害がおきていることだ。

 道路は公共物であって、そこに落書きをするのは、手段の適否の点からすると必ずしも適したものではない。手段としては適したものではないものの、あくまでも手段の話にすぎないのはたしかだ。紛争には三つの要素があるのだから、そのうちの一つである手段だけを見るのでは、全体を見ることにはなっていない。

 入国管理局は、手段の適否だけに話を矮小化するべきではない。それだけに話を限るのであれば、論点のごまかしである。争点となっているのは、日本の難民などの入国管理において人権の侵害がおきていることであって、ここに焦点を当てなければならない。問題の所在はここにあるのだから、ここに目を向けるようにして、できるだけ早急に改めることがいる。人権というのは、公の権力が勝手に個人からうばったり侵害したりしてはならないものなのではないだろうか。

 手段としてとられた、落書きの適否というのとは別に、その落書きによって何が言われているのかを見ることができる。それを見るのであれば、そこでは日本の入国管理において、人道に反することや人権の侵害が行なわれているのをさし示しているのが読みとれる。これが落書きによって言われているのにたいして、入国管理局はまったく聞き入れず、受けとめないというのは、個人としてはうなずくことはできない。聞き入れずに受けとめないのは、社会の中の差別や不正義をうながすことになるからだ。

制度によって不当な目にあうのと、それを調べようとすることで不当な目にあうのとがおきている

 新しい法案が通される。この法案では、事実上の移民を受け入れることにつながるものだという。

 外国人技能実習生制度では、外国からやって来る労働者を受け入れているが、外国からの労働者のうちで、不当な目にあっている人が少なくないという。それでそうした目にあっている人たちは声を上げはじめている。

 与党である自由民主党が通そうとしている法案にたいして、野党はそれがもつ問題点を言っている。野党が問題をさし示すのにたいして、与党および担当の役人は、あたかも野党の議員をいじめるかのようにして、嫌がらせのようなことをしているようだ。

 法案のもととなっている、外国人技能実習生制度における調査票を、野党の議員に手書きで書き写させているという。コピーによる複写をさせない。情報公開の点からしても、おかしい仕打ちをしていると言わざるをえない。

 外国人技能実習生制度では、外国からやって来た労働者の中で、不当な目にあっている人が出ている。それについて調べようとしている野党の議員もまた、手書きで調査票を書き写させられるという不当な目にあっている。いったい与党や担当の役人は、人を何回ほど不当な目にあわせればよいというのだろうか。一回では気がすまないというのだろうか。たとえ一回であっても駄目なのはたしかだ。

戦争のさいに日本がおかしたあやまちとその償いについて、実質(具体)と形式(抽象)に分けて見られる

 戦争のさいに、自国だけではなく、他国の国民にもいちじるしい不幸をもたらした。それで従軍慰安婦や徴用工のことがとり沙汰されている。日本の政府はあくまでも日本が正しいというのを崩そうとしていない。韓国では、裁判所が日本(の企業)に金銭などによる賠償を命じている。

 戦争における徴用工のことについては、はたして日本の政府が正しいのか、それとも韓国が正しいのか、どちらなのだろうか。この正しさを見て行くさいに、これはあくまでも実質のものであるというのがある。

 実質だけではなく、形式化することができるから、それをするのはどうだろうか。形式化というのは、実質の正しさを相対化するように試みるものである。国どうしのもめごとというふうに一般化して、それをどう解決するかを試みる。

 形式として一般のものととらえれば、国どうしのもめごとにおいて、どちらか一方だけが正しくて、もう一方だけがまちがっているというのはありえづらい。人間のやることにはまちがいはつきものだ。正しいとしていても、まちがいを見落としていることがある。

 実質の正しさというのは、自分たちの文脈をとるだけのものだが、それを形式化するようにして、文脈を相対化するようにしたい。たんに自分たちの文脈を押し通すだけであれば、形式化することにはならず、ものごとの解決につながりづらい。

 実質の正しさをカッコに入れるようにして、国どうしにおける文脈のぶつかり合いに折り合いをつけるようにする。それで調整をして行く。そうすることによって、実質だけではなく形式をとることにつなげられる。

 日本は正しくて、韓国はまちがっているとしてしまうと、従軍慰安婦や徴用工で問題となっていることの原因を韓国に押しつけることになる。この原因の押しつけが正しいものであるという絶対の保証はあるとは言えそうにない。原因の特定がまちがっていることがある。原因の当てはめを持ち替えてみる(入れ替えてみる)ことがいる。

 実質の正しさをとってしまうと、日本は正しいとして、韓国はまちがっているとするような、したて上げることになりかねない。このしたて上げをとらないようにして、形式化するようにしたい。日本は正しいとすることには、日本にとって都合の悪いことが隠ぺいされたり抹消されたりしている疑いが低くない。その隠されているところを明るみに出すことがいる。

 実質の正しさによって白か黒かの二元論で割り切るのではなく、連続による見かたをとることができる。連続による見かたは決疑論(カズイストリ)によるものだ。連続による見かたをとることによって、灰色のところを見ることができる。それで灰色のところを見るようにして、日本に悪いところがあるのならそれを認めるようにすれば、日本の国にとってのぞましいことにつなげられる。

 語弊があるかもしれないが、灰色のところを見るようにする練習として、従軍慰安婦や徴用工のことを日本の政府はとり組んだらどうだろう。練習と言っては語弊があるだろうが、試しとしてやるようにしてほしい。この試しをすることによって、実質だけをとるのではなく形式化することにつなげられる。教条(ドグマ)におちいるのを避けるための手だてになる。教条におちいるのであれば、戦前や戦時中に、日本は正しいということでつき進んだことと同じ道を歩むことになりかねない。

歴史の本の内容がまちがいなく正しいとは限らないのだから、それの逆が正しいことも場合によってはある(日本はよいとするような内容だったら、その逆が正しいこともある)

 アメリカの歴史の教科書を学んだ子どもたちは、みんなアメリカが好きになる。誇りに感じる。アメリカの人はそう言っているという。それを聞いて、うらやましくなると共に、なんで日本にはそういう本がないのかと落胆する。

 アメリカの歴史の教科書のような本が日本にはないのであれば、自分がそういう本を書けばよい、と思いあたる。それで、愛国の色あいが大きいとされる歴史の本がつくられることになった。

 まず、きっかけとなったアメリカの人が言うことを見てみるとすると、これはかなり疑わしいものだろう。好きか嫌いかというのはかなり単純な感情である。好きなら好きだとか、嫌いなら嫌いだというのは、一つの国(自国)にたいして当てはまるものだろうか。好きでもあり嫌いでもある、というふうに両価(アンビバレント)になるものだろう。

 子どもたちがみんなアメリカのことが好きになって誇りに感じるというのは本当のことなのだろうか。みんなもれなくアメリカのことをよく思うというのはちょっと信じがたい。あまりにも画一的すぎていて平準化されすぎている。

 アメリカには、黒人のことを奴隷としてあつかっていたのがある。黒人への差別が行なわれていた。このこと一つをとってみても、単純にアメリカの国のことを好きになったり誇りに思ったりするわけには行きづらいものだろう。

 新しい歴史の本を書くきっかけとなったという、アメリカの人の言った発言は、うのみにすることはできがたいものだ。

 日本のことを好きになったり誇りに感じたりしてもらうことを動機として、歴史の本をあらわすのは、日本のことをよしとするような純粋な動機がとられている。この純粋な動機というのは、大義や正義であるために、危険さがつきまとう。

 純粋な動機による大義や正義は、かくあるべしという当為(ゾルレン)によるものだ。日本はよい国であるべきだということで、純粋な動機でつっ走るのは失敗につながりかねないものだ。

 過去の日本の歴史においては、日本という国は正しいものだとして、純粋な動機によってつっ走ってしまったために、自国や他国の国民にいちじるしい不幸をもたらした。戦争に負けることによって、日本は正しいといった純粋な動機によってつき進んだことのまちがいがわかることになった。

 歴史の本をあらわすのにおいても、日本はよい国だといった純粋な動機によってのみものごとを進めるのに待ったをかけたいものだ。日本はよい国であるべきだといった当為を絶対化しないで相対化するようにしたい。

 日本はよい国だとか、そうでないというのは、実証としては言えるものではないだろう。実証として言えるのは、よいとかそうではないというのを抜きにした、日本は一つの国であるというのにとどまる。日本がよいかそうでないかというのは、実証のものではなく、価値についてのことであって、それは人それぞれの遠近法によって異なる。

 歴史とは話はちょっとちがうけど、日本の国の中で生活していて、ある人が不幸な目にあったとしたら、それでその人が日本の国をよいとするのはおかしいのではないか。日本という国が、大きな物語として、よいというふうにはできづらい。小さな物語にすぎないものであって、よいとするかそうでないとするかは、自己決定に任されている。

 日本という国が大きな物語として、国家の公ということで幅を利かせて、個人の私を二の次のものにするのだとしたらそれはおかしい。国家の公よりも個人の私のほうが優先されるべきだろう。ある個人が何らかの理由によって日本の国のことを信用できないとか悪いとかするのであれば、まず国の信用のできなさや悪さに焦点が当てられるのがのぞましい。日本という国が信頼できるとかよいとかするのは、まったく悪いことなのではないが、国からの呼びかけ(イデオロギー)にすなおに従ってしまっているのはいなめない。