メタの国会を開く

 国会において、よりよい議論を行なう。より中身のある充実した議論を行なう。そのためには、国会についての国会といったような、メタの国会を行なってみるのはどうだろうか。

 よりよい国会にして行くにはどうするべきか。これを逆から言えば、国会を悪いまま(いまのまま)にしておいてよいのかということになる。悪いままにしておくというのは、やりっ放しにしておくことである。

 やりっ放しでもよいではないか、というのは言えるかもしれない。まったく悪いというのではないが、やりっ放しだと、省みることがとれない。省みるのは後ろをふり返ることだが、これが欠けているのはまずい。たんに前を向いて進んで行くだけでは正しいあり方になりづらい。

 メタの国会においては、与党と野党を含めた国の政治家の全員を、一つの集団とする。そして、その集団において、みんなによる学びをとるようにする。開かれた国会をふり返って、どこがまずかったのかや、そのまずいのは何が原因となっているのかを見て行く。原因について手を打つようにして、改めるようにする。

 どの政党にまかせるかとか、どの政党は駄目だというのではなく、それよりもむしろ、国会が全体としておかしくなっていてまずいことになってしまっているのではないだろうか。国会の議論に構造の問題がある。

 構造の問題を何とかするためには、どの政党が与党であるのがよくて、どの政党が野党なのかというのよりも、どの政党が与党であっても、または野党であってもそれなりにうまく行くようにできればふさわしい。

 具体としては、与党が自由民主党だったり、野党が何々党だったりするわけだが、そこをさしあたってはカッコに入れるようにする。それで、国会において、議論がうまく行なわれないことを改めるようにする。引きつづきこれまでのやり方をやるのは参与(コミット)だが、それを反省するようにして離脱(ディタッチ)すると、見えていなかったところを見ることができやすい。

 具体においては、与党が自民党だったり、野党が何々党だったりする。それで、どの政党にまかせればよいとか悪いとかいうのがある。それは置いておくとして、国会の議論における構造の問題を見てみたい。それを見るのであれば、与党と野党を含めて、国の政治家の全員が、一つの組織として学ぶことができればよいのがある。高次の学習をすることができれば、国民にとっての益になる。

 高次の学習をするためには、構造の問題を見るようにして、国会においてうまく議論が行なわれるための、組織としての学びを行なう。この学びのためには、国会を開きつづけるだけでは駄目で、上の次元によるメタの国会を開くようにする。

 仮想の話にすぎないものではあるが、メタの国会を行ない、現実の国会への参与(コミット)から離脱(ディタッチ)する。そうすることによって、いままでに気がつかなかったり見えなかったりしたことが、新しく気がついたり見えたりすることにつなげられる。

 与党と野党を含めて、国の政治家の全員を一つの組織とするさいに、組織の学びをすることで、日本を少しでもよくすることができるのではないか。これをするためには、当選(票)につながるとか、お金もうけになるとか、支持を得られるとかいう外発のではなく、内発の動機づけがとられることがいる。内発の動機づけを持つのは、表面的なうわべの効果ではなく内実をとることだ。いまの与党の権力をになう政治家に内実をとることを期待するのは、個人としてはできそうにない。

強くても反面教師であるのなら、強い意味はあまりない

 いまの与党は、数が多いという点では強い。強いものから見習うことができるかといえば、そうとは言えず、反面教師である。強いけど反面教師だというのがある。

 強いけど反面教師なので、強いからといって見習いたくない。見習おうという気がおきない。ああはなりたくないという気になる。

 強いものが正しいのなら、経済でいえば、大企業はみんな正しいことになる。しかし現実にはそういうわけではない。大企業だからといって正しいとは限らず、おかしいことや悪いことをやっているところがある。お金をかせぐさいに、無駄に資源を使っていたり、労働者などから搾取していたり、手抜きをしていたりすることがある。

 いまの与党は強いといっても、改めて見れば、そうたいしたものではないだろう。あなどることはできないとはいえ、もろさや弱さがあるのはいなめない。あらゆることで正しいことをしているのでもない。清と濁があるうちで、濁のことをしないと権力は保てない。

 いまの与党は強くて、野党は弱い。それで弱い野党を強くする。そうすることは必ずしもいるとは言えそうにない。野党や反対勢力(オポジション)は、強いか弱いかではなく(強ければそれに越したことはないのはあるが)、それよりも正しく考えたり判断したりすればよい。正しく考えたり判断したりするのが肝心だ。そのためには、権力にいたずらに迎合しないでほしい。謙虚さと自信をあわせ持つようにしてほしいものだ。

ひらがなの、か、で見出しを終わらせることにたいする違和感

 某氏、不正か。某氏、悪用か。そんな見出しが新聞の紙面に載っている。ジャーナリストの江川紹子氏は、これについて、一般の新聞のスポーツ新聞化だとツイッターでツイートしていた。

 NHK も、同じような報じ方をしているのを見かけて、違和感をぬぐい切れなかった。見出しの最後に、ひらがなの、か、をつけるのはできるだけやめてほしいものだ。最後の、か、をとり除いて、名詞で止めてくれるのならよい。

 ひらがなの、か、で見出しの最後を終わらせるのは、改めて見ればそうとうにあいまいだ。受けとる人に判断を丸投げしているようなものである。問いかけられているようで、印象がよいものではない。

 ひらがなの、か、で見出しを終わらせるのは、疑いがあるとか、可能性があるというのを縮めてあらわしたものと見られる。疑いや可能性があるとしても、それが大きいのかそれとも小さいのかのちがいがある。

 ひらがなの、か、は、名詞などのように内容を示しているというよりも、働きによる語である。働きによる語であるために、それを最後につけると、きちんと着地できていないように受けとれる。定まっていない。幅のある受けとり方ができてしまう。そこをもうちょっと限定してもらわないと、厳しく言えば無責任なのがある。

日本の悪いところを言われたときに、すぐに反日だと決めつけずに、建設的な議論につなげることができるかどうか

 郷に入っては郷に従え。よそはよそ、うちはうちだ。外国ではこれこれこうなっているとしても、日本ではそうではないのだから、日本にいるのであれば、日本のあり方に従うべきだ。はたしてこれはふさわしいものだと言えるのだろうか。

 二つのことから批判を投げかけられる。一つには、自然主義になっているのがあるから、そこから誤びゅうになっているのではないかというのをさし示せる。日本でこうなっているというのは、である(is)だが、そこから、であるべきだ(ought)は必ずしも導き出せない。日本ではこうなっているという、である(is)がおかしいのだとすれば、そこを変えたり改めたりするのがあってよい。

 もう一つには、文化相対主義によるのがある。外国におけるあり方(文化)とはちがう、日本のあり方(文化)があってもよいではないかとするものだ。この相対主義は、まちがっているものではないものの、完全に正しいとは言えないのもある。

 日本のあり方(文化)を絶対化せずに相対化(自己相対化)するためには、閉じるのではなく開かれているのがふさわしい。国内と国外のどちらにも開かれているようにして、一方的ではなく双方向のやりとりを、国内と国外のどちらでも行なえればよい。それで必要なところに修正が効くのであれば、柔軟さや可塑(かそ)性があることになる。

人間の生命力と、効力感(エフィカシー)と無力感

 人間は神さまがつくった最高傑作だ。人間にはかぎりない生命力が宿っている。本来はそういうものであるという。作家の浅田次郎氏はそう言っていた。これははたして本当のことなのだろうか。にわかには信じがたいところもないではない。

 かりに人間が優れたものであるとすれば、人間には高い効力感(エフィカシー)があるということだとできる。じっさいに、高い効力感をもっていて、それを用いることができるときはあるだろう。

 いついかなるさいにも高い効力感をもっていられるとは限らない。ときには無力感におちいることもある。それが行きすぎると、希望をもつことができずに、絶望におちいってしまう。出口なしの、実存による限界状況だ。

 困難なことに見まわれたときに、そこから脱することはできるのだろうか。やくざの世界では、つきに見放されるのを、くすぶりと言うらしい。自分がくすぶっているときに、そこからたやすく抜け出すことができるかというと、そうは行かないこともあるから現実は難しい。

 人間は高い効力感をもつことができるときはあるが、それができるのは、あとからふり返ってみて、成功したというふうに見なせるときだろう。または失敗をそれほど苦にしないのによる。そこには生存者の認知の歪みが避けがたくはたらく。その認知の歪みは、必ずしも悪いものではなく、個人の生においてはよいものではあるかもしれない。それはあるにしても、高い効力感を確証(肯定)できるだけではなく、反証(否定)することができるのはたしかだ。

 いまの日本では経済において格差がおきているのがある。せち辛く、ぎすぎすしていて、生きづらくなっている。悲観によってしまっている見かたではあるが、みんながもれなく生きて行きやすいようになっているとは見なしづらい。これはなぜかというと、一つには、尊厳の分配に社会の中でむらがあるためだろう。尊厳の分配が社会の中で不公平になっている。そのために、社会が保ちづらくなっている。人によって、自己尊厳(セルフ・エスティーム)が持てたり持てなかったりしている。むらがあるのを改めて、公平にならすことができればよい。

自分が気に食わないから、表現や言論をとり除こうとすることにおいての、自分が気に食わないということを改めて見てみたい

 自分が気に食わない表現や言論がある。このさいの、自分が気に食わない表現や言論というのは、改めて見るといったいどういうことをさし示しているのだろうか。

 表現や言論の自由をとるべきだ。その自由を制限したり規制したりするのはけしからん。表現や言論にたいする弾圧だ。こうした文脈において、自分が気に食わない表現や言論を、制限したり規制したりしようとしているだけだろう、という声が投げかけられる。

 この声について、改めて見てみることができるとすると、そもそもが、誰においても、自分が気に食わない表現や言論はあるものだ。自分が気に食わない表現や言論がまったくないということはありえづらい。

 ある表現や言論があって、それが自分にとっては気に食わないものと受けとれる。それで、その表現や言論について、いかがなものかといった表現や言論を言ってみる。そのいかがなものかという表現や言論が、自分にとっては気に食わないものだという人が出てくる。

 一次の、自分にとって気に食わない表現や言論がある。それについて、否定的な見かたを投げかける表現や言論を行なう。その表現や言論にたいして、二次の自分にとって気に食わない表現や言論だという人が出てくる。一次と二次のちがいはあっても、自分にとって気に食わない表現や言論だという点では共通点がある。

 たとえ自分にとって気に食わない表現や言論であったとしても、それを認めようというのが、表現や言論の自由だろう。これは建て前のようなものだとすると、じっさいには、自分にとって気に食わない表現や言論を認めるのではなく、認めないことがおきてくる。

 問題となるのは、ある表現や言論が、自分にとって気に食わなくなってしまうという点にある。そのさいに、たとえ自分にとって気に食わないからといって、それに関わらず、認めようというふうにはものによってはなりづらいことがある。そのなりづらいものとは、とりわけ、自分にとっては気に食わないという、その度合いの高いものだ。

 表現や言論の自由には、そのもととして、自分が心や頭でどう思うのかの自由がある。ある表現や言論について、自分はこれは気に食わないなと思うのは自由といえる。そう思うのは自由だとすると、それを表現や言論であらわす自由もある。この自由を認めるのが、表現や言論の自由なのではないか。

 これこれこういった理由によって、自分はある表現や言論が気に食わない、ということを表現や言論であらわすことは自由である。ここまではよいとして、ここから先が難しいかもしれない。ここまでにおいては、ある表現や言論をどう認知するかと、どう評価するかによる。この先には、どうするべきかの指令があるが、ここに難しさがある。

 建て前(形式)としての表現や言論の自由というのは、どうするべきかの指令を含んでのものなのだろうか。それとも指令は除いたうえでのものなのだろうか。たとえば、指令として、これこれこういった理由で、この表現や言論はこの場ではふさわしくはないから、やめたほうがよい、という表現や言論は、行なう自由があるのだろうか。

 改めて見てみると、自分が気に食わないというのは、動機論による忖度になっている。自分が気に食わないものだから、制限したり規制したりしようとするのだというのは、動機論による忖度で見たものだ。なので、これはできるだけとらないようにしたほうが、生産的な議論につながりやすい。

 自分が気に食わないのはあるかもしれないが、それだけによるのではなくて、またちがった理由があるのだとすれば、それを見て行くようにしたい。動機論による忖度を抜きにしたうえで、ある表現や言論を、どう認知して、どう評価していて、どういう指令を言っているのかを見て行く。そのように腑分けをして、その一つひとつをそれぞれに受けとるようにする。そうするようにすれば、かみ合った議論になりやすい。

 たんに自分が気に食わないから、ある表現や言論を制限したり規制したりしようとするのだというのでは、もしほんとうにそうであればともかく、そうではないこともあるので、もうちょっとちがう見かたをしてみてもよいのがある。

 場合分けをしてみると、自分が気に入る表現や言論があったとしても、よいものもあれば悪いものもある。自分が気に食わない表現や言論があったとしても、よいものもあれば悪いものもある。このうちで、自分が気に食わない表現や言論で、なおかつ悪いものもあるのをとり上げてみる。これをとり上げるとすると、たとえ自分が気に食わない表現や言論だったとしても、だからといってその表現や言論が悪くはない(まちがっていない)ということには必ずしもならない。

 たとえ表現や言論の自由があるのだとしても、具体の表現や言論を、すべてよしとするのでは、すべての具体の表現や言論を確証(肯定)することになりかねない。そうではなくて、具体の表現や言論について、反証(否定)するような認知が中にはあってもよい。

 反証(否定)にたいして開かれていたほうが、健全な表現や言論と言えるのではないか。このさいの反証(否定)というのは、たんに頭ごなしに駄目だとするというよりは、質や文脈(コンテクスト)についてを議論し合うものである。議論や討論というのは、命題(テーゼ)だけではなく、反命題(アンチテーゼ)があったほうが行ないやすい。

 表現や言論の自由は、ものすごく大事なものなのだから、それにたいして反証(否定)するのはおかしいのではないか。確証(肯定)するだけでよいのではないか。そうしたことが言えるのはある。これについてを改めてみて見られるとすると、一つには、表現や言論の自由というのと、それを含んだ発言とに分けて見られる。

 表現や言論の自由ということ(語句)だけでは、それがたとえものすごく大事なものであったとしても、正しいのかまちがっているのかを見づらい。これを、一つの発言(文)として見るようにすると、必ずしも確証(肯定)だけではなくて、反証(否定)もとれるようになる。

 一般論として、ある発言を無条件に正しいとはできないのがあるから、それを持ち出してみると、表現や言論の自由に言及した発言についても、無条件に正しいとすることは必ずしもできない。どのような発言であっても、それを無条件に正しいとすることはできないので、表現や言論の自由を根拠にした発言についても、反証(否定)が成り立つ。頭ごなしに丸ごと否定するのではないとしても、部分的な否定はできることがある。

 表現や言論の自由を根拠にするとしても、それだからといって全面からその発言が肯定されるとは限らず、ものによってはまちがっていることがなくはない。じっさいの現実では、さまざまな制約条件がとられることで、自由が制限されたり規制されたりすることは少なくない。

 社会というのは、まったく制約条件がかからずに、完全に無制約でよいというのはありえづらい。制約には、功罪の両面があるのはたしかだが、まったくそれがないほうがよいというのなら、社会が成り立ちづらく、無秩序になってしまう危険性がある。多少は制約がかかってしまうのがあるとして、それが行きすぎればまずいが、ほどほどのものであれば、とんでもなくおかしいとまでは言えそうにない。

日本を悪くするだろう手だてと、よくすることができるかもしれない手だて

 日本をよくする。そのためにはどうしたらよいのだろうか。逆にいえば、日本を悪くするにはどうしたらよいのか。一概にこうだとは言い切れないものだが、一つには、日本を悪くするためには、いまのままで放っておけばよいだろう。

 日本を悪くするためには、いまのあり方のように、与党が野党を煙たがっていればよい。与党は反対勢力(オポジション)をうとましく思っていればよいし、それを行動に移していればよい。

 どちらかだけが絶対に悪くて、どちらかだけが絶対によいというのはありえづらい。与党はまちがいなくよいとは決めつけられないし、野党などの反対勢力はまちがいなく悪いとは決めつけられない。

 日本を悪くしたいのなら、いまの与党がやっているように、野党などの反対勢力を敵だと見なして、味方と敵を分けるようにするのがふさわしいものだ。味方は厚遇して、敵は冷遇する。味方であればかばい、敵であれば冷たくつき放す。法の下の平等は二の次だ。法の下の平等は、長い目で見れば利益にはなるが、短期においては必ずしも利益にはならない。ちなみにこれ(法の下の平等を軽んじること)は皮肉で言ってみたものである。

 日本を悪くするのではなくて、よくしたいのであれば、味方と敵に分けるのはふさわしいことではない。味方と敵に気やすく分けるのは大衆迎合(ポピュリズム)だ。そうするのに待ったをかけるようにしたい。

 味方を厚遇して、敵を冷遇するのではなく、むしろ敵を厚遇するようにする。味方は自分たちに近い。敵は自分たちに遠い。遠い者を歓迎や歓待(ホスピタリティ)するのである。これの意味するところはというと、与党と野党が仲たがいするのではなく、ともに協力をし合い、日本をよくするための手を見て行くようにする。ともに探って行く。

 与党と野党が仲たがいしていることにも意味はあるではないか、というふうにも言えるのは確かだ。お互いに手を結び合ってしまえば、大政翼賛のようになりかねない。独裁や専制のようになる。それをおしとどめる重要な役を果たすのが、権力チェックをになう野党などの反対勢力だ。権力が分立していることもいる。

 国会では、与党はご飯論法や信号無視話法を多く用いている。話し合いがかみ合っていない。これは、反対勢力である野党のことを冷遇しているのをあらわす。自分たちから遠い者である野党のことを、歓迎や歓待していない。そのために、与党は独話(モノローグ)になってしまっている。せいぜいが近しい者どうしの会話にとどまっている。

 日本をよくして行くためには、自分たちから遠い者を冷遇するのをやめて、逆に厚遇するようにして、対話(ダイアローグ)をするようにしたい。与党にはその姿勢が問われている。野党などの反対勢力を敵だと見なして、うとんじているようでは、ごう慢におちいらざるをえず、多くの国民(未来の国民を含む)を巻きこむ形での失敗を避けづらい。

憲法は国の理想を語るものだ、と首相が言うさいの、理想郷(ユートピア)との関わり

 憲法とは、国の理想を語るものだ。首相はそう言っていた。このさいの、国の理想とはいったいどういったものなのだろうか。理想とひと口に言っても、よいものからそうではないものまである。

 首相の頭の中には、こういった日本にしたいとか、こういうのがのぞましいといった、理想の像があるとすると、理想郷(ユートピア)とつながってくる。理想郷をとって、そこへ向かって進んで行く。首相によるいまの与党のあり方は、これにまったくよらないのではなく、こうしたところがあるのがかいま見られる。

 理想をとり、理想郷によるようにして、そこへ向かって進んで行く。そのさいに気をつけないとならないのは、逆理想郷(ディストピア)に転化することが少なくはないことだ。逆に転化する見こみはかなり高い。歴史においてこうしたことがおきた例は色々とある。たとえば、旧ソビエト国家社会主義の失敗がある。日本では、戦前や戦時中における大東亜共栄圏の建て前の嘘(イデオロギー)がある。

 理想をいっさい持つなというのではないが、理想郷のようなものによろうとするのであれば、そこには少なからぬ危険性がおきてくるのがあるのだと言いたい。こうすればまちがいなくよくなるのだといったような、都合のよい特効薬や即効薬はあるとは言えそうにない。作用だけではなく反作用(副作用)も見ないとならない。おだやかな遅効というのも大事だ。

 理想郷の世界像によるのには少なからぬ危険性がある。それが遅効であればまだ毒が回るのが遅くてすむが、即効性があるのならかえってより危険だ。まちがいの度合いが小さければまだしも、それが大きいのならかなりやっかいだ。慎重に歩みを細かく進めるようにしたい。

人や時期(時代)によってちがいがあるから、それらをすべてひとまとめにして、一つの日本という国や日本人はどうだというのは、ステレオタイプ(観念による思いこみ)になっている

 日本という国に誇りをもつ。父祖に感謝をする。日本人として生まれてよかった。新しく出された日本の歴史を語った本は、そうしたねらいがあるのだという。

 日本のことがはじまりから現在まで通時によって語られているとして、そこで言われている日本という国とはいったいどういったものなのだろうか。というのも、日本のはじまりから二〇〇〇年くらい経っていまの日本があるわけだけど、その二〇〇〇年くらいのあいだにわたって、日本という一つの国があったと言えるのだろうか。

 いまでは北海道や沖縄県を含めて日本の国というふうに言えるが、近代に入る前まではそうではなかったものだろう。北海道や沖縄県は含まず、本州の内陸部を中心としたところが、かつてにおいては日本と呼べるとすればそう呼べるところだったのではないか。

 厳密にいうと二〇〇〇年ではないだろうけど、かりに二〇〇〇年くらいの時間があるとして、そのあいだを一つの日本という国があったとするのは無理がある。

 人間の体でいうと、およそ一年間くらい経つと、体の細胞はかなりのていど入れ替わっているという。体の細胞からいうと、一年くらい経つと別人になっている。まったく同じ人間だというのではない。

 日本という国においても、その中の人が入れ替わっているのがある。体制が大きく変わっている。別の国だという見かたもできるだろう。まったく同じというふうには見られない。

 まったく同じなのではないのにも関わらず、どうして日本という一つの国が引きつづいていると見なすのか。そう問いかけられるとすると、その答えとしては、日本という一つの呼び名を用いているのがあるからだろう。日本という一つの呼び名を用いることで、あたかも日本という国がはじまりから現在まで引きつづいているような錯覚が生じる。

 思想家のミシェル・フーコーは、知の考古学というのを言っているという。同じ一つのものが引きつづいているように見えるものであっても、一つのものが連続しているのではなく、非連続になっている。地層のように複数の層がある。知の枠組み(パラダイム)は移行して行く。

 日本という一つの国が二〇〇〇年くらいにわたってつづいてきているというのではなく、そのあいだにいくつもの断絶があるとしたほうが、分けることにつながるので、分かることに役だつのではないか。

 これまでにはいくつかの断絶があり、可逆的ではない一定の不回帰点(ポイント・オブ・ノーリターン)がある。たとえば戦前や戦時中と戦後には対照となる断絶がある。断絶はあるものの、まったく回帰しないという絶対の保証はないかもしれない。都合のよい歴史修正主義などによって、いったん否定したものに再び回帰しようとする二重運動(否定と回帰の運動)が引きおこされているのはいなめない。

 日本という国がよい国だとか、日本人はよいというのは、かりに一〇点満点でいうと一〇点になるとしよう。ある人にとっては、日本や日本人は一〇点の価値があるかもしれない。それがまったく非現実なことであるとは言えそうにない。しかし客観的な現実そのものかというとそうとは言い切れない。

 ある人にとって、日本や日本人は一〇点満点のうちで一〇点だとしても、他の人にとってはそうとは限らない。一〇点という価値を基礎づけできないのだ。一〇点あるとすれば、そこから色々な日本や日本人のマイナス点を見て行くことで、点数をさし引くことができる。九点、八点、七点となって行き、〇点に近いということになる人も中にはいる。まったく生きることに希望が持てない人もいるからだ。日本や日本人が一〇点だというのなら、〇点に近いという人がいてよいものではないだろう。

 質によるものだから、量で言うのは必ずしも正しいものではないが、一〇点満点であるとすると、みんなが一〇点とするのではないし、みんなが八点とするのでもない。かなりのばらつきがおきてくる。ばらつきがあるうちで、一〇点というのは極端だし、〇点というのもまた極端ではある。極端ではあるが、文脈としてはどちらも成り立つのはある。

 一〇点満点のうちで一〇点かそれとも〇点かというのは極端ではあるが、かりにその二つを見るとすれば、二つのうちでどちらが本当の日本や日本人なのだろうか。どちらかだけが本当の日本や日本人なのだろうか。

 日本という国や日本人には、よいところもあれば悪いところもあるから、一〇点だけというのはないし、〇点だけというのもまたない。日本や日本人が一〇点だというのは、そうあるべきだというところがある。かくあるべしということだ。

 かくあるべしとは別に、かくある(かくあった)日本や日本人はどうかというと、ずっと〇点だったというのはないにせよ、ずっと一〇点満点だったというのは現実的ではない。人によってもちがうし、時期(時代)によってもちがう。色々な点数による文脈を含みもっている。定まっているのではなく変わるものだから、定数ではなく変数だ。

消費税(の引き上げ)についての悲観論と楽観論と、消費税を引き上げないことについての悲観論と楽観論がとれる

 消費税を八パーセントから一〇パーセントに引き上げる。二パーセント引き上がる。税を引き上げるのと引き換えに、国民が消費したさいに五パーセントの引き下げ(還元)を政府は検討しているという。クレジットカードで買いものをすると、五パーセント還元される。

 テレビに出ていた専門家はこれにたいして疑問を投げかけている。消費税の率を引き上げるのは、社会保障の財源を安定させるためだ。それを、消費するときに五パーセント還元してしまうと、景気にたいする対策にはなるかもしれないが、財源の安定としては駄目になる。対策を打つのは、ほんらいは低所得者に向けたもののはずだが、高所得者のためのものになってしまっている。

 消費税を二パーセント引き上げることはするものの、それとともに、消費のさいに五パーセント還元する。いまの首相による政権はそうしたことをやろうとしているようだが、これはおかしなものだと見なしたい。あれも、これも、になってしまっている。

 九ヶ月間のあいだ、消費について五パーセント還元したところで、一時的な対策にしかなっていない。あとにおきるかもしれない反動のおそれを見こんでいないのだとすれば無責任だろう。

 いまの首相としては、こうした対策を打つことによって、うまくつり合いをとっているとか、うまく折衷していると見なしているのだろう。しかしじっさいにはたんにでたらめになってしまっている見こみが高い。

 消費税を引き上げるのにも関わらず、消費の五パーセントの還元をするというのでは、いったい何がやりたいのかという話になる。九ヶ月という中途半端なあいだだけ消費の還元をするのなら、そもそも消費税を引き上げなければよい。何のために消費の還元をするのかがわからないし、何のために消費税を引き上げるのかもわからない。

 医者でいえば、やぶ医者のようなことをやっているのではないだろうか。消費税を引き上げるにせよ、引き上げないにせよ、いずれにせよ国民にたいして十分に説明をしたらどうだろう。医者でいえば、インフォームド・コンセントを行なう。説明することを含めて、きちんとした責任をとれない(とらない)くせに、いまの首相による政権は、変な形でうわべだけの責任をになおうとするから変なことになっている。