アルコール性健忘症でないことを証明するのは困難である(それであるおそれは、お互いに飲酒していたのなら、被害者だけでなく加害者にもまたありそうだ)

 お酒を飲んでから、そのごに性行為におよぶ。そうした流れにおいて、飲酒によるアルコール性健忘症になることがあるのだという。なので、お酒を飲む前に、もしくは飲んでいるさなかに、性行為をする約束をしていたのだとしても、それをあとで忘れてしまう。こうなってしまうとやっかいだ。

 お酒を飲んだあとに性犯罪の被害を受けた。そうしたうったえがあるとして、その人は、自分がアルコール性健忘症ではないことを証明することがいる。はたしてこうしたことが言えるのだろうか。この証明は、何かではないことを証すものであり、悪魔の証明となってしまうものだから、できかねるものだといえるだろう。無理な注文である。

 アルコール性健忘症になったことは、可能性としては否定はできないものといえる。なので、一つの可能性としてそれを言うのはあってもよい。しかしそれは、被害をうったえている人がその可能性(自分がアルコール健忘症である可能性)を自分で否定する責任を負うものとはいえそうにない。被害者は、自分がアルコール健忘症ではないことを立証する責任をとくには負っていない。あくまでも、一つの可能性としてそれがあると見なせるくらいのものである。

 イギリスの警察がつくった性行為のさいの注意をうながす動画では、性行為が紅茶に置き換えられて説明されている。それによると、お酒を飲んでいるのであれば性行為をすることやその約束をしてはならない(させてはならない)、となっている。きちんとした意識を保てないことがあり、あやふやになりやすいからだろう。こうした点について前もって注意がもてればよさそうだ。

質問を途中でさえぎられるいわれ

 記者がまだ質問をしているときに、それをさえぎる。ほかの記者に次の質問をうながす。そうしたことを、小池百合子都知事は記者との質疑応答でしているそうだ。質問を途中でさえぎられた記者は、ある特定の人物であるという。その特定の記者は、いぜんに小池都知事から、(左派寄りの議員の人たちを)排除いたします、との発言を引き出した人だとされる。

 ちょっといじめのようではないかなという気がしてしまう。まるで見せしめのようにして、特定の記者の質問には答えずに、途中でさえぎってしまうのはあてつけのようである。そうしてその記者の人は、小池都知事からあてつけを受けるのがふさわしいことなのだろうか。

 いぜんに小池都知事が、排除いたしますとの発言をしたのは、それを引き出したとされる記者のせいと言えるのかどうかがある。その記者からの問いかけが引き金になったのはあるだろうけど、引き金になっただけなのであれば原因(の一端)とはいえないだろう。ほかの言い回しでも十分に受け答えができたはずである。必然性があったとはちょっと見なしがたい。

 ある記者からの問いかけが引き金となって、排除いたしますの発言がなされた。この発言が、はたして先の衆議院選挙での(小池都知事が率いる)希望の党の苦戦につながったのかは定かとはいえそうにない。希望の党が苦戦したのは、何が原因となっているかははっきりとしているとはいえないのがある。排除いたしますの発言のせいで苦戦したのだとは言い切れないわけである。色々な複合した要因によるものだろう。

 小池都知事の気持ちをかりに忖度できるとすれば、排除いたしますの発言の引き金となった記者をつい冷遇したくなるのはわからないでもない。そうはいっても、記者との質疑応答のやりとりがテレビに映されて、それを見る子どもへの教育上の影響があげられる。好ましい影響を与えるものではないだろう。引き金となった記者からの質問を途中でさえぎり、(ほかの記者との)対応に格差をつけてしまうのは、私情をさし挟んでしまっているのがあるといえるのではないか。気持ちの整理をつけて、できればそうしたのをつつしんでもらえればさいわいだ。

加害者と被害者がいて、加害者のほうが優先されるのはおかしいかもしれないが、まちがいなく加害をしたと見なしがたい例もなくはない(真相がわからない)

 性犯罪のとらえ方はむずかしい。そのような気がする。性犯罪の被害を受けた人が、勇気を出して声を上げる。その勇気は尊いことだし意義がある。そして、声を上げてうったえている内容は、基本としてほんとうのことであると信用してよいものだろう。寛容の原則を当てはめると、偽りのことを語っているとする確たる証拠でもないかぎり、信用することができるものである。

 加害者とされる人の立場に立てるとすると、その人はまちがいなく性犯罪の加害をしたといえるのだろうか。この点については、まちがいのない確たる証拠があったり、加害者が自分から認めたのでないかぎりは、えん罪のおそれを完ぺきには払しょくできそうにはない。このえん罪のおそれをどう見なすべきなのだろう。たとえそのおそれがあったのだとしても、性犯罪の加害をしたと見なすのがよいのだろうか。

 加害者がたとえ自分は加害をしていないと言っていたとしても、それが偽りの語りであるとすれば、嘘をついていることになる。そうしてそれを通してしまうと、性犯罪の加害をしたのにもかかわらず、まんまと(またはぬけぬけと)社会のなかで大手を振って生きて行くことができる。これが許されてもよいのだろうか。そうした見かたができるだろう。

 ひんしゅくを買ってしまうかもしれないが、加害者の人権もできるだけ尊重されるのがよいような気がする。(状況証拠とは別に)確たる証拠があったり、加害者が自分から性犯罪をやったことを認めているのでないかぎりは、えん罪のおそれを完ぺきには払しょくできないのがあるからだ。そのえん罪のおそれを重く見ることができる。これは見まちがいの危険さもまたあるわけだけど、その危険さをくみいれつつも、罪を犯していないのに罰を受けてしまうというのができたら防げればよい。

 反転可能性として、視点を入れ替えてみると、もし自分が加害者とされる立場であったのなら、とすることができる。その立場であったとして、性犯罪の加害をしていないとの自覚がありながら、それをしたのだと見なされてしまうのは受け入れがたいものである。これは仮定の一つにすぎないのはまちがいがないことではあるけど、この仮定を捨て切ることはできそうにない。

 被害者のうったえは最大限に尊重されるべきだし、それと同時に加害者の無実のおそれもまた十分にくみとられればよい。もし加害者とされる人が、自分はやっていないと言っていて、なおかつ確たる証拠がないときにかぎられるものではある。こうしたのは卑怯であるかもしれないし、まちがったとらえ方であるかもしれない。それに加えて、そもそも性犯罪がおきないようなふうであるのがいるのはたしかである。

へんてこな心得

 生まれつき茶色い髪の毛の生徒がいる。その生徒にむりに髪を黒く染めさせる。なぜそうするのかというと、それがその高校の決まりだからなのだという。そうして髪を黒く染めるのを強いられて、生徒は(ほんらいは受ける必要のない)精神の苦痛を受けた。生徒の側により訴えがおこされて、裁判によって争われることになった。

 その高校には、生徒心得というのがあり、髪が黒くない生徒は黒く染めるようにとのことになっている。髪が黒くない生徒は、黒く染めなければならない。そうしないと不心得となってしまう。この決まりは、もともと髪が黒い生徒はそのままでよいわけだけど、そうでない生徒は黒く染めないとならないのだから、公平とは言いがたい。髪が黒くない生徒にだけよけいな手間をかけさせている。

 高校の生徒心得にある、髪の色についての決まりが前景化されている。その前景化をいったんやめて、後景化させてみる。そしてちがうものを前景化させられるとすると、生徒は生まれもった地毛のままで学校生活をおくることができる、との権利をおくことができる。この権利は認められるのがふさわしいものだと言えそうだ。たとえ地毛が黒くはないのだとしても、それは生徒の責任でもなく罪でもない。ゆえになにか罰を受けなければならないとは見なせない。

 髪の色が黒であるのをよしとするのは、黒ではない生徒をよしとしないことになってしまうのがある。黒ではない生徒に気づかいという意味での配慮があるのはよいのかもしれないけど、過剰配慮みたいなことになると、結果としておかしなことになるのではないか。そのおかしなこととして、ある生徒が生まれもった地毛のままで学校生活がおくれないようなことになってしまう。

 どういった理由でだとか、どういった目的で、髪の色が黒くなくてはいけないのだろうか。そこがはっきりされたほうがよさそうだ。自由主義では、自己決定することがあってよいとされ、これは愚行をするをよいとするものだ。かりに、高校の側の価値観として、髪の色を(黒以外に)染めるのが愚行だと見なしているのだとしても、生徒がそれをするのを許すという手もある。その手を使ったとして、すべての生徒が髪の色を染めるとはかぎらなく、そうする生徒もいるししない生徒もいる、なんていうところに落ちつくかもしれない。それで生徒が満足するのなら、効用の総量は増えそうだ。

 髪の色が黒くあるのがよいとするのは、一つの物語であると見なせる。そうした物語があってはならないとまでは言えないかもしれないけど、大きな物語として一方的に押しつけてしまうのはどうだろう。双方向のようにして、高校の側の気持ちを生徒に伝えて、生徒の側の気持ちを高校が聞き入れる、なんていうふうにするのがよいかもしれない。決まりだからだとか、慣習だからというのは、それが正しいことの完ぺきな確たる理由とはならないだろう。

応援しているときに、公共の福祉になるべく気をつけられればよい(単一ではなく複数の人々がいることに少し気をつける)

 がんばれとの声をおくる。その声は、応援している集団にたいして投げかけるものである。それはよいとは思うのだけど、応援している集団にがんばれというのとは別に、ほかの集団を否定してしまうのはどうなのか。それについて、部分的に否定するのなら建設的であるかもしれないのでよいわけだけど、頭ごなしにそうしてしまうのならやっかいだ。

 部分的に否定するのであれば、あの集団のここがおかしいだとかあそこがおかしいだとかして、建設的になることが見こめる。そうではなくて、頭ごなしに否定してしまうのであれば、存在そのものを認めないことになりかねない。そうした動きについては、いさめることがあったらよい。見逃してしまうのではなくて、見とがめるようにする。

 大衆迎合主義(ポピュリズム)では、多元性を否定するようなあり方がとられるのだという。そうして多元性を否定してしまうのは、一元性となることをあらわす。こうなってしまうと、異なったものを認めないような狭くるしいことになってしまう。それだと民主主義もまた成り立ちづらい。自由民主主義では、包摂性に加えて競争性もなければならないとされるようだ。この競争性は、一強のようにしてどこかが一人勝ちをしてしまうのだと不全になってしまうのがある。

 どこか一つの集団にむけて、がんばれとの声援を送ってもかまわない。そうではあると思うのだけど、それと同時に、ほかの色んな集団もまたがんばればよいのがある。ちょっと甘いことを言ってしまっているかもしれないが、そうしたのがあるのではないか。そうしたほうが、競争性がきちんととれるようになる。

 ある一つの集団に利となることが、ほかの集団にとっての害となる。そうしたのがあるとして、それがとがめられることがときにあってもよい。というのも、とがめ立てがないと自己中心になってしまっているおそれがあるからである。中心化をたまにはあらためて、脱中心化することができればのぞましい。ほかの集団もなるべく尊重するようにして、そのうえで自分たちの集団に利となるようなことができればよいのがある。じっさいには難しいのがあるだろうけど、大衆迎合を多少なりとも防ぐためにも、他への敵意とか排斥みたいなのがむき出しにならないようにできればよさそうだ。

若い人たちが保守化しているとの説には、ちょっとだけ疑問である

 若者の多くは保守を支持している。そのため、自由民主党へ投票している人たちが多いそうなのである。日本経済新聞の報道ではそのようになっている。はたしてこれは本当なのだろうか。

 若者とひとくくりにはできそうにはない。そうしたのが言えそうだ。今の世の中は複雑化しているのがあるから、不完全情報のもとにおかれるのをまぬがれないのがある。ウェブにある情報を色々ととり入れるにしても、それが偏っていない保証はない。まんべんなくというふうにはなかなかならないものであり、どうしても自分の好みのものをとり入れてしまいがちだ。情報過密社会にあっては、ものの見分けがつきづらく、玉を石としてしまったり、石を玉としてしまったりする。そうであるため、完全情報のもとでの選択とは言えそうにない。これは若者にかぎらず、どの世代においても多かれ少なかれ言えることではある。すごく賢明な判断で選択をしている人も中にはいるだろうけど。

 部分最適になってしまっているのもある。今の日本に適合する(または適合を欲する)人たちが多数派であると見なせるとして、その人たちの行動は、今の政権や現状をまっこうから否定するようなことにはなりづらい。これは、多数派にそれなりの恩恵がもたらされていればのことである。いっぽう、今の日本に不適合となってしまっている人を少数派と見なせるとすると、その人たちの行動は、部分最適にかなうものとはなりづらいのがある。そうして部分最適にはかなわないほうが、全体最適に近いこともなくはない。もっとも、ほんとうの全体最適とは何かははっきりとはわからないものであるのはたしかだから、断定はできないものである。

 タレントのデーブ・スペクター氏は、選挙後に放映される選挙特番について批判を投げかけていた。選挙後に放映される特番では、たとえば池上彰氏によるものなんかがあるけど、そうしたのを選挙後ではなく選挙中にやるべきだと言っている。そうでないと意味がないというのだ。これはもっともな指摘である。あたかも、ことわざでいうさわらぬ神にたたりなしみたいなふうに選挙中はなってしまっているのがいなめない。それが逆にたたってしまっている面があるのではないかという気がする。たたってしまっていると言うと変かもしれないけど、あだになってしまっているというか、長いものに巻かれようといった風潮を助長してしまっているような気がしないでもない。

創業してまだまもない党

 責任を果たすつもりはあるのか。総会の中でそのような声が投げかけられている。先に行なわれた衆議院選挙で、希望の党はかんばしい結果とはならなかったのがある。そのことについて、小池百合子代表は、自分が辞任するのではなく、そのまま続投することで責任を果たしてゆく心づもりだとしている。そのさい、自分は党の創業者であるとしていた。この創業者という言い方がちょっとだけ変だなという気がしてしまった。

 創業者ではなくて、創設者とか創立者とかいうほうが適しているのではないか。創業と言ってしまうと、経済活動や商売のようなことが思い浮かぶ。どちらかというと、創設や創立というよりも創業と言ったほうが重みがあるようだから、重みが少しでもあるほうをとったのかもしれない。天皇の神話では、神武天皇の創業のころにはじまる、なんていう言い回しがあるそうで、そうしたのとからめているのだろうか。そこのところは分からないし、いずれにしても、細かいことにすぎないのはたしかである。

そのものを言うことになってしまうのがあるから、それよりも遠回しに言ったほうが無難ではある

 排除の語は中立である。それ自体は中立であり、使いかたによってちがってくる。言葉じりを大げさにとらえて批判するのはいらないことである。はたしてこうしたことが言えるのだろうか。そこがちょっと疑問に感じた。

 日本語には仮名と漢字であるとか、和語と漢語といったのがあるけど、排除はこのうちで(どちらかといえば)漢語のほうに当たりそうだ。そのため、硬さとか冷たさを感じさせるのがある。情ではなくて理みたいなのをとることになりそうだ。

 もともと漢語は公のことがらについてを記すのに用いられていたそうだ。そうしたのがあるから、それを公をになう政治家の人が使うことによって、なおさら公の色合いが出てくる。あまり性のことを持ち出すのはどうかというのもあるかもしれないが、男性の論理みたいなのをはたらかせることになりかねない。公はおおむね男性がつかさどってきたのがある。もっとも、性を単純化してとらえてしまっているかもしれないから、あくまでも解釈の一つにすぎないものである。

 排除とは言わずに、ほかのもので言い換えられればそちらを使ったほうがのぞましい。とりわけ人間についてであると、誰しもが(人から)排除されたくはないという心情がある。それをされて快いことはないだろう。人間は社会的な動物だと言われている。そうしてみると、あえて人に向けて排除の語を使うことはない。いらぬ波風を立ててしまいかねないからである。もうちょっと当たりの柔らかい言い方ができるのであれば、それに越したことはない。

数の力で押し切ってしまわないようにしてもらえればよさそうだ

 憲法の改正へ加速する。自由民主党安倍晋三首相はそのような心づもりであるとして、東京新聞が報じている。かならずしも野党第一党との合意はいらないのだということである。今回の選挙では、新しく立憲民主党野党第一党となった。

 かならずしも合意をとるつもりはないとするのは、多数決型の民主主義といってよい。そうしたのとは別に、合意型の民主主義があるという。立憲民主党なんかは、こちらの合意型の民主主義によるということができそうだ。

 多数決型は加速度によるが、合意型は遅速度による、ということができる。多数決で決めたことだからとして、数の力で押し切ってしまうのは、法に反しているというのではないにしても、正統性が問われるのがある。加速度によるのではなく、遅速度によって時間をかけて色々な視点によって見て行き、理解をだんだんと深めて行く。そうした過程がとられるのでないと、受け入れるのがむずかしい。大事なことがらなのであればそのように言える。

 憲法を改正するのが正しいとはかぎらないのだから、それについての合意をもれなくみながもつのはかなり困難である。そうして困難だからといって、それを放棄するのがよいことなのだろうか。そうしたのに加えて、合意とは二進数のように、〇か一かといったものとは必ずしもいえそうにない。下位の合意と上位の合意というのに分けられるそうなのだ。

 上位の合意とは、何かについての直接の賛否ではない。たとえば憲法の改正についてであれば、それをするかしないかは、力への意志のちがいにすぎないのがある。お互いの力がせめぎ合うようなあんばいだ。そのさい、力(might)と正義(right)とを一緒にするのではなく分けることができる。力が強いから正しいとは必ずしもかぎらない。そうしたことをふまえて、力と力の争いや摩擦やずれみたいなのがあることについての合意をとる。こうしたものであれば、下位だけとはならず、上位についてはお互いに意見を同じくすることもできなくはない。二進数の〇か一かのようにではなく、連続(アナログ)のようにしてとらえることができる。

まちがいなく白とは言い切れないのではないか(黒や灰色であっても大したことはない、とは言えるかもしれない)

 白さも白し富士の白雪だ。疑惑が一部から追求されている首相について、それをまったくの事実無根にすぎないというのである。身の潔白をうったえている。これは、首相に賛同している、地方行政の長だった人による発言である。

 ふつうに見たら、権力者のやることがまったくの真っ白ということはないだろう。一か所も汚れがないというふうにはちょっと見なしづらい。完全に黒だとするような、誰が見てもわかるような証拠はないにしても、それだからといって白になるとは言えないのがある。とりあえずは灰色であるとするのがよいのではないか。

 首相に賛同する地方行政の長だった人は、白さも白し富士の白雪だと首相のことを言っている。これは少し文学がかったというか時代がかった言い方のような気がする。時代劇のように、白か黒かの勧善懲悪みたいなとらえ方によっていそうだ。

 白か黒かということでは、日本のこれまでの歴史観にもつながってくる。日本のこれまでの歴史観を白とするのが、歴史修正主義であり自由主義史観である。これまでの日本は、白さも白し富士の白雪のようであり、そうしたよい歩みをほんとうはとってきたのだとするものだ。

 そうした白ではなくて逆に黒だとするのは、負の歴史を引き受けようとするような歴史の見なし方である。罪と罰ということで、国家が多大なる罪を過去に犯してしまったとする。とてもではないけど償いきれないようなものである。罰の一つとして、過去の負の歴史をごかまさずに、きちんと認めて見てゆこうとする気持ちをもつのは、当然の義務であるにすぎない。

 はたして白さも白し富士の白雪というのは、あらためて見るとどうなのだろうか。それは動機についてなのか、それとも結果についてのものなのかが分けられる。動機がまったくの純粋なものであるとすれば白なわけだけど、そうしたのは現実にはちょっとありえづらい。そんな聖人みたいな人が政治家をやっているものなのかは大いに疑問だ。それに加えて、内面の動機は本人にしか分からないものであり、忖度をはたらかせるのはあまりよくないことである。

 結果について見てみるとすると、まったくどこからどう見ても非の打ち所のないようなふうになるものではないだろう。危ぶまれる点があるとすれば、そこをくみ入れないのはちょっとおかしい。白と出るかもしれないし、黒と出るかもしれないとすると、白とは決めつけられないだろう。

 ある文脈からすれば白だけど、また別の文脈からするとそれが黒となる。そうしたことがあるとすると、ある一つの文脈から白とできたとしても、それは絶対化されないほうがのぞましい。東洋の陰陽の発想では、陰と陽は転化し合うものだという。一方が極まればもう一方に反転することがある。そうしたふうにして、動きによってすり合わせみたいなのができたらよい。

 いくら体によいものであっても、摂りすぎれば害になる。厳しい自然の中で生き抜くには、塩は薬のようなものとなるけど、いっぽうで塩を摂りすぎると体に毒である。食べものについていうと、そこには利と害があるのが見うけられる。利を白として、害を黒とすると、利だけをとろうとしてもうまくは行かないものだろう。作用における反作用のように、利の裏には害があるというふうに見なせる。白であるように見えても、ひっくり返せば黒であるのだとすれば、裏返して確かめてみるのがいりそうだ。

 まったくの白であるとして、白さも白し富士の白雪というふうに言ってしまうと、純粋をかたっていることになる。そのように見なしたいだとか思いたいだとかいうのはあるとしても、現実にそうだとはちょっと言えそうにはない。真実を白だとすると、そうしたのばかりを語ったら政治がむちゃくちゃになる。現実の政治を立ちゆかせるためには、どうしても黒もしくは灰色の嘘を混ぜて語らざるをえないものなのではないかという気がする。本人はそれを真実だとむりやり思いこむのはあるかもしれないけど。