正確な実数ではないかもしれないが、おおむね合っていることもありえそうだ(嘘の数というほどではない)

 哀悼文を出すのをやめる。これは関東大震災に関わることがらだ。大震災では、デマがおきて多くの朝鮮人の人たちが虐殺された。その数は六千人にものぼるとして、碑に刻まれている。こうした犠牲者にたいして、これまでの都知事であった石原慎太郎氏や猪瀬直樹氏や舛添要一氏は、哀悼文を送付していた。小池百合子都知事も、去年までは出していたという。しかし今年に入って、それをやめることを決めたそうだ。

 哀悼文を出すのは、形として目に見えるものなので分かりやすい。しかしたんに哀悼の気持ちをもつとするだけでは、内面のことなので分かりづらい。そのうえ、大震災で犠牲になったすべての人にたいしてとしてしまうと、デマによって虐殺されたとされる朝鮮人の特殊さがぼやかされてしまう。

 ひとつ要点となるのは、デマによって朝鮮人の人たちが虐殺されたのは、かなり確からしいことにあるだろう。その被害者の数がどうなのかが、多いのから少ないのまで定まっていないでいる。たとえ犠牲者の数が一人であっても、また六千人であっても、デマによって虐殺されたことは同じだといえる。そうであるとすれば、その負の経験から教訓を引き出すことに価値があるのではないだろうか。かんたんにデマの情報にそそのかされて、軽信で動いてしまうのは危ない、といった教訓だ。二度とそうした暴力をふるうのを行なってはならない(とりわけ弱者や異邦者にたいして)。

 大震災における、朝鮮人の虐殺については、事実がどうだったのかも大事だろうけど、それとは別に、ひとつの包括的な総体としてあつかうべきなのではないかという気がする。その総体を見てみるさいには、低温で熱してゆくようにして、なるべく時間をかけて実相を浮かび上がらせるのがのぞましい。小池都知事は、(死傷者数を含めて)この虐殺のありように疑問をもっているのだとすれば、都で検証チームを立ち上げて、検証してゆくのがよいのではないか。色々な意見を聞き入れて、暫定的にではあるにせよ、ひとまずの結論を出すところまでもってゆくのがあればよさそうだ。

 意見を見てゆくにさいしては、二つの視点がとれる。どのように発言(証言)が導かれたのかと、それが正しそうなのかどうかである。これらをごちゃ混ぜにしてしまうと、おかしな具合になりかねない。いちおう切り分けておくのがよさそうだ。発言の出元が疑わしいのは、発言が正しいかどうかとは直接には関わりがない。発言の出元を疑うのは、発言者を疑っているのであり、発言者に負の属性を当てはめている。属性で見るのは、現実を見るのと同じではない。

 大震災において、デマによって朝鮮人が虐殺されたことなどはなかった、とする意見も中にはあるだろう。この意見がほんとうなのであれば、(この件については)日本人の名誉が傷つくこともないし、名誉の回復みたいなことが見こめる。こうした見こみを頭から否定するわけではないが、ひとつ欠点があることはたしかだろう。それは、否定的な契機が抹消されたり、隠ぺいされたりしてしまうおそれがあることだ。そうして自分たちにとって都合の悪いことを抹消したり隠ぺいしたりしてしまうとして、それによって築かれた潔白さにはたしてどれほどの意味があるのだろう。その点が若干の疑問である。

核兵器による抑止力は、それほど確実なものとは言いがたいような気がする(抑止力が否定されるのではないにせよ)

 戦争のさい、アメリカは日本に、原子爆弾を投下した。それとは別に、原子爆弾が投下されなかった現実はない。歴史に、もしもの仮定は基本としてはないからである。現実におこってしまった(そうであった)ことは、おこったかおこっていないかのどちらかだ。

 そのうえで、かりに仮定をもち出すことができるとする。もし太平洋戦争において、日本が自前の核兵器をもっていたとしたら、アメリカに原子爆弾を投下されずにすんだのではないか。原爆による被害を受けずにすんだことがありえる。そうした意見がある。こうしたことがあるので、日本も核兵器による自衛をとる道もあるというのである。

 たしかにそうかもしれないのはあるのだが、ちょっと疑問に思ったのもたしかだ。かりに日本が自前の核兵器をもっていたとすれば、アメリカから原爆を投下されずにすんだのはありえるかもしれない。しかしそれと同時に、そもそも日本とアメリカは戦争中であるのだから、戦っているさなかにおいて、抑止力としての核兵器はそれほど意味をなさないような気がする。当時の日本は、自分たちを神国としたり、アメリカやイギリスを鬼畜米英と呼んだりしていたくらいだから、冷静な計算による判断を期待することはちょっとできづらい。

 ゲーム理論をもち出すとすると、日本とアメリカは、それぞれ自分たちの核兵器を使わないようにしようとするのがありえる。しかしそれだけではなく、ほかの可能性もありえる。戦争中であるのなら、日本とアメリカがおたがいにそれぞれの核兵器を使うといったおそれもありそうだ。それによって両国が破局的な打撃を受け、へたをすると存在が消滅する。

 抑止力としての核兵器を選択肢のうちの一つとして打ち出すのは、必ずしも否定されることではないかもしれない。少なくともそうした議論はあってもよいのだろう。そうではあるのだろうけど、それと同時に、兵器をじっさいにもったとすれば、それを使うための理由を生み出すことになるのもある。今まで使われてこなかったのだとしても、それはこれから先に使われないことを保証するものとは言いがたい。たまたまといったこともありえるだろう。そうしたところがはなはだ心配である。

ナチスを肯定してしまうのだとしても、そこに確証バイアスによる認知のゆがみがはたらいているのは想像に難くない(どのみち認知はゆがんでしまうかもしれないが)

 ナチスにはよい面もあった。なのでかならずしも否定されることはない。そうした意見もあるわけだけど、これだと相対主義のようになってしまうのがありそうだ。そうした相対化は許されるものなのだろうか。

 相対化して見てしまうのではなく、絶対化して見たほうがよいのがある。そうするのがよいのについては、普遍とか理念とかが関わってくるのがありえるからである。ナチスが悪であるのは、一つの普遍であり、理念であるとできる。

 ナチスを見るのにさいしては、そこに観察者が負っている理論のようなものが反映されるのがありえる。であるから、そうして負っている理論の影響をまったく受けないで見ることはできづらい。そうしたきらいはあるが、少なくとも実践においては、(あるていど相対的に見ることができる)現象を超えて、普遍や理念とする。そうしてナチスを悪としたほうが、主要価値としやすい。

 このようにして、普遍や理念として見ることが、絶対に誤りのないものかといえば、そうとは言い切れそうにない。もし、絶対に誤りのないものとして見てしまうようだと、ゆるぎのない真理のようになる。しかし現実には、(本当にあったことと)どのように対応するのかや、整合するのかや、実用するのかといったように、いくつかの角度から見ることができるものではあるだろう。

 ナチスによる被害を受けたとして、語られる証言がある。その証言がねつ造であるおそれはまったくないとは言い切れそうにない。そのうえで、そうしたねつ造かどうかのおそれをふまえるさいに、言われていることの真偽がかかわるのがある。その真偽をふまえるのにさいして、寛容の原則をもつことがいるだろう。

 被害を受けたとする証言について、はなから嘘の証言だとして疑ってかかってしまうと、寛容の原則に反することになる。これはかならずしも合理的な態度とは言えそうにない。証言を頭から退けてしまうと不寛容になる。偽の証言であるとできる確たる論拠でもないかぎりは、偽のことを言ってはいないとの前提に立つ。言っていることが現実と不整合にならないのであれば、解釈としてみて受け入れられるものである。

 はたして真理であるのかどうかといったのをひとまず置いておけるとすると、ナチスのできごとは、一つの認識論的断絶であると見なせるのではないか。あまりにも悲惨かつ多大な被害をまねいてしまったナチスの負の行ないは、そこに一つの不回帰点を形づくった。そうしてできた不回帰点には、できるだけ回帰しないように努めることが、後世に残された人間にせめてものできることの一つである。深く刻まれている負の痕跡を、あたかも正の痕跡であるかのように読み替えてしまうのはちょっとまずい。

 負の痕跡は、暴力によって形づくられた過去の廃墟であり、(ありのままにといったようには行かないだろうけど)やりようによってはそこから意味を浮かび上がらせることができる。そうではなく、廃墟などなかったとしてしまうのであれば、消極的な虚無主義のようになってしまう。虚無主義におちいってしまうのは多少はいなめないとしても、不用意に意味をでっち上げるのだとまた問題だ。これは言葉によってものごとを記述したり発言したりするのにさいしておきてしまうやっかいさだろう。虚無主義からの言動は、群衆によって担われる。根づよい虚無にとりつかれた群衆の心理は全体主義を呼びこむ。権威づけされた虚焦点としての指導者がまつり上げられる。そうした危なさもありえる。

 群衆と言ってしまうと、なにか大衆を見下したようなふうになってしまいかねない。そうしたおそれはあるけど、それぞれの個人といった単位を前提とするのとは別に、あるひとかたまりの個人の集まりを想定することもできそうだ。そこでは、虚偽によるイデオロギーからの呼びかけに受け答えることによって主体が形づくられる。それは虚偽によるイデオロギーに都合のよい主体である。そうした構造の効果として主体があるといえそうだ。ある構造が作用した結果としてひとりの主体はありえる。構造主義ではそのように言われているという。

 英語は国際語であり、屋外語であるといわれる。いっぽう日本語は国際語ではなく、屋内語であるとできるようである。こうしたちがいはそれほど確固としたものではなく、あくまでも相対的なものではあるだろう。そのうえで、日本語は屋内語であり、屋内である日本国内でさえ通用すればそれでよいのだ、としてしまいがちなところがありそうである。そこで失われているのは、(周辺国を含めて)屋外でははたしてどうなのか、といった点だろう。そうした点もふまえられれば、屋内に閉じこもってしまうことを少しは防げそうだ。内外の相互関係性がとられていたほうが、内だけとか外だけとかにならずにすむ。

法治によるのでないと、適材を適所にあてるのはできづらそうである(人治になってしまうと、不適材を不適所にあてることになりかねない)

 国民が、税金をおさめる気をなくす。そのようになってしまうのであればまずい。ただでさえ、国が国民からとる税金は強制によるのだから、しっかりとした運用や運営がなされていないようであれば、不満がおこっても当然だろう。

 政権のスキャンダルにおいて、証拠となる資料を廃棄してしまったり、隠してしまったりした。そうして真相を明らかにするのを拒むことで、政権は命びろいしたところがある。ほんらいであれば、(問題意識をもっている)国民には真相を知る権利があり、政権にはそれを告げ知らせる義務がある。その義務をきちんと果たしたのかといえば、そうとは言えないだろう。

 直接に真相を明らかにすることからは逃れられたのだとしても、それとはまたちがった間接による視点を持つことができる。ことわざでいう、頭かくして尻かくさず、といったようになるわけである。もしほんとうに不正をやっていないのであれば、真相を明らかにするのを渋るのはおかしいし、非協力になるのは理にかなっているとは見なしづらい。どんどん協力して、さっさと身の潔白を晴らすほうが、どちらかといえば理にかなっているだろう。

 スキャンダルにおいて、証拠の隠ぺいに加担をしてしまったとされるのが、財務省の官僚の人だった。その人が、国税庁の長官に任命された。そのご、就任のさいの会見を開いていないのがあり、それはおかしいとの声が上がっている。せめて、就任のさいの会見くらいは通例どおりに開ける人でないと、示しがつきづらい。国民の納税意識を低くしてしまうのがあるから、これはちょっと国の人事において、不適材不適所だといった面があるようだ。

 なぜこうしたそぐわない任命がされてしまったのかというと、その原因の一つには、民主主義の現実と理想がかかわっているかもしれない。現実においては、多数派の代表がいまの政権であり、その政権の(直接または間接の)命令を受けて、財務省の官僚の人は動いた。ここには多数派の代表である政権の意思がたぶんに反映されている。国家としての公のありかただ。

 そうしたありかたとは別に、ほんらい民主主義においては、理想としては、多数派の利益ではなく、公共の利益をどうするのかがふまえられていないとならない。国家の公ではなく、人びととしての公だ。そうした公共の利益の観点からすれば、政権のスキャンダルにおいて、嘘をついたり証拠を隠ぺい(または廃棄)したりしてはいけなかったのがある。

 多数派の代表であるいまの政権には、力があることはまちがいがない。しかしその力(数の力)は、少しでも気を許すとたちまちにしてごう慢におちいるおそれがある。力のおごりといったものである。そこについて、はたの者が十分に警戒の意識をもつのは、意義があることではありそうだ。それだけよけいに労力がかかるのはあるだろうけど。

 力と正義を結びつけてしまうのではなく、それを別々なものとして見るのがあると、一元論にはまりこんでしまうのを少しは防げそうである。一元論になってしまうと、政権と一体化しがちになるが、そうではなく、対象化することがあるのがのぞましい。一体化して癒着するのではなく、対象化して距離感をもつことがあったほうがよいだろう。

よっぽど公平な中身でもないかぎり、ゴールポストは合致しなさそうだ

 ゴールポストが動く。これをムービング・ゴールポストとも言うそうだ。ここで言うゴールポストとは、日本と韓国とのあいだの慰安婦問題についての合意をさしている。合意の到達点が動いてしまってはまずい。こうしたなかで、自由民主党安倍晋三首相は、ゴールポストは動かない、との見かたを述べていた。

 はたして、日本の側は合意の到達点であるゴールポストを動かしてはいないにしても、韓国の側はそれをしているのだろうか。そこがちょっと疑問だなという気がする。日本と韓国とのあいだに共通のゴールポストがあるとの前提があるわけだけど、それ自体が錯覚なのではないだろうか。そのようなものはないわけである。

 もし、ゴールポストが日本と韓国にとって等距離にあたるようなところにあれば、どちらの労力も同じくらいになる。そうして等距離の場所にゴールポストが置かれているのであれば、ことさらに日本が韓国にたいして合意を守れと主張することはおきづらいのではないか。うら返せば、どちらかといえば日本の側に近い場所にゴールポストが置かれているために、日本が韓国にたいして合意を守れと主張することがおきる。そうした見かたもとれるかもしれない。

 日本には日本のゴールポストがある。そのいっぽうで、韓国には韓国のまた別のゴールポストがある。韓国は、自分たちのゴールポストにどんどん球を蹴りこんでいっている。そうしてとらえることができそうだ。

 安倍首相が言うように、ゴールポストは動かないとのとらえ方は、あくまでも日本の側のそれであるにすぎない。なので、日本の側のゴールポストが動かないのだとしても、韓国の側のそれとはまた別の話となってくる。

 こうしたゴールポストの不一致は、ある点ではしかたがないことであるかもしれない。日本と韓国とはおたがいに主権国家として別なものとしてある。そのため、それぞれの主権国家によるゴールポストの持ち方が許されてしまう。そうしたありかたを乗りこえるには、かなりの困難があることはいなめない。日本と韓国とのあいだには(正と反といったような)矛盾があるといえ、その矛盾によってそれぞれのゴールポストができてしまうことになる。

 たとえ一時的、いやもっといえば一瞬のことであるにせよ、日本と韓国とのあいだで意見が一致したのは、意義があることかもしれない。それは日本と韓国とのあいだに温かい義理ができあがったことをあらわす。そうした温かい義理は、ほんの一瞬ですぐさま冷めてしまう。芯からの温まりではなく、ほんの表面が熱せられただけだから、すみやかに冷たい義理となる。内からの本音による心情が前に出てくることになる。

 ゴールポストとは、そこに到達するべきだといった当為(ゾルレン)であると見なせる。これが日本と韓国とでおたがいに利益となるような一つのものであればそれに越したことはない。しかしながら、日本には日本の利益があり、韓国には韓国の利益がある、となってしまうのもたしかである。なすべきものである当為とは別に、現実から見ると、もっと別の強い要求が内なる心理から生じてくる。そうしたことをふまえると、なすべきものである当為のゴールポストは、絶対化されず、相対化されてしまうのはいなめない。

 過去にはペーソスをもち、未来にはユーモアをもつ。作家の星新一氏は、そのようなことを言っているそうだ。問題が問題なだけに、未来にたいしてユーモアをもつのは難しいことではあるかもしれない。どうしても深刻にならざるをえないところがある。そのうえで、未来志向による両国の関わりを目ざすのであれば、そこにゆとりとしてであるようないくばくかのユーモアの切り口があってもよさそうだ。ユーモアと言ってしまうと語弊があるのをまぬがれそうにはないが、二者関係においてはどうしても緊張が高まりすぎてしまうのがあるから、そこを緩和することもいりそうである。

 小さなことからこつこつと、と言われるように、段階をふんで実行が易しいことからやってゆくのもよさそうである。大目標があるとして、それは実行が難しいのだとすれば、小さい目標に細かく分けてしまう。そのようにせずに、いきなり大目標を実行せよとしてしまうと、挫折するおそれが高い。それはやり方がまずいのが原因となっているとも言えるだろう。

 終極目的(テロス)をどこに置くのかといった見かたもとれる。それを、たとえば両国の友好に置くことができる。さらに具体的には、慰安婦像や徴用工像をあまりたくさん設置しないでもらう(できるだけなくしてもらう)ことを終極の目的とすることもできる。そのようにするのにおいては、目的さえ達することができればよいのだから、手段はとくに限られない。焦ることもない。かならずしも合意やゴールポストにこだわらなくてもよいわけだ。合意によって圧力をかけるのもよいだろうけど、それは目的を達するために本当に有効なのかをそのつど見てゆくことがいる。

全体は虚偽であるとも言われるから、全体に奉仕することも虚偽であるかもしれない

 戦争において、国のために戦った。または戦わせられた。それで命を失うことになったとして、それははたして崇高なことなのだろうか。これについては、功利主義における例と少しだけ似ているかもしれないという気がした。

 功利主義における例の一つでは、遭難中の船に、船長と船員と、3人のきわめて優れたノーベル賞級の科学者がいるとされる。ここで科学者のうちの一人が、一つの提案をする。船員を残りのみなのための食料として犠牲にするのである。それによって、船員は犠牲となるが、そのかわり人類全体にとっての益は損なわれないですむ。

 船員を犠牲にすることによって、科学者の人たちの命がつなぎ止められるため、功利性が保たれることになる。功利主義の観点からすれば、この判断は肯定することができるような気がしてくる。しかし、それ以外の観点を持ち出すことができるのもたしかだ。

 はたして、このような功利主義による説明を船員が聞かされるかどうかは分からない。かりに聞かされるとして、船員はうんそうだなとして納得するだろうか。納得するかもしれないし、納得しないかもしれない。

 功利主義はとりあえず置いておけるとすると、船員には自然的権利がある。自分の命を保つことができるものである。もしそれが叶わなくなるのだとすれば、その時点において、船員にとっては、社会状態が破られて、自然状態となる。万人が万人にとって狼となるようなあんばいだ。

 個人主義をふまえてみると、人間の一人ひとりの命が保たれるようであることがいる。もしそれが損なわれてしまうとすると、そこで持ち出されてくる理由としては、たとえば国家の論理みたいなのがありえる。こうした論理について、一見すると正しそうな気がしてくるのだとしても、必ずしも完全に基礎づけることはできそうにない。

 正義とは、かくあるべしといったような当為(ゾルレン)であると言えそうだ。そういった正義は、一つだけなのではなく、いろいろな立場においていろいろなものがありえる。誰が犠牲になるべきなのかとして、そこに筋道を立ててつじつまを合わせることができるけど、それだけがすべてではない。というのも、そこでは、同一の世界観による駆り立てが行なわれてしまうのがある。人間が手段として道具のようにあつかわれてしまう。そうではなくて、それぞれの人間が目的としてあつかわれるのが理想だといえそうだ。じっさいには難しいものではあるだろうけど。

どちらの側にも非があるとしてしまうと、価値についてをとり落としてしまうのがありそうだ

 どちらにも非がある。アメリカのドナルド・トランプ大統領は、ヴァージニア州でおきたもめごとについて、そのように述べたという。このもめごとは、極右団体のデモにたいして、それの止めに入った対抗派とのあいだでおきたものである。これにより、女性が 1人死亡し、19人のけが人が出たと報じられている。

 トランプ大統領は、どちらにも非があり、どちらにも責任があると述べたそうだ。このように述べてしまうと、ことわざでいうあぶ蜂とらずみたいになってしまう。もめごとをおさめることはのぞめそうにはない。

 たしかに、ぶつかり合いがおきてしまったのについては、どちらにも非があるのかもしれない。それは、どちらもが結果として同じようなありかたになってしまったと察せられる(あくまでも想像にすぎないが)。そのあり方とは、強い自我によるものである。この強い自我とは、我とそれといった姿勢だ。これは、哲学者のマルティン・ブーバーが説いたものであるそうだ。

 極右勢力は、自分たちである我から見て、その右翼的思想にそぐわない人たちを、それとして見なす。いっぽう、対抗派において、おそらくではあるが、自分たちである我から見て、その左翼的思想にそぐわない極右勢力の人たちを、それとして見なした。こうしたお互いのありかたによって、不幸にもぶつかり合いがおきてしまったと推しはかれる。

 こうしたぶつかり合いの表向きのありかたを見れば、たしかにどちらにも非があると言えないでもないかもしれない。しかしそれだけで終わらせてしまってはいけない、との切実な声が上がってきているのを無視することはできそうにはないのもたしかである。

 ぶつかり合いにおいては、強い自我による、我とそれのありかたがとられてしまったのがありえる。それはそれとして、そもそもどうあるべきなのかといった視点をあらためて見てゆくことがいりそうだ。というのも、強い自我による、我とそれのありかたでは、白人であるなら白人の、単一のものを至上とする主義が成り立ちやすいのはいなめない。

 そうした単一のものを至上とする主義でないようにするためには、一つには、弱い自我による、我と汝のありかたをとることがいりそうだ。このありかたをとるようにすることができれば、自民族中心主義(エスノセントリズム)を脱することに多少はつながりやすい。我と汝をともに尊重することができるのだとすれば、雑種として、いろいろな人たちがともに混ざり合いながら、調和してやってゆくことがのぞめる。人間はもともと直立猿人からきているのは同じであり、そこからすると、連帯性(兄弟性)がとれないでもないだろう。こうしたことは、建て前であり、理想にすぎないのはあるだろうけど、そうしたものがないと無秩序をまねく危なさもありそうだ。

 トランプ大統領は、強い自我による指導者としてやっていっているのがある。そういう主体的な面があるために、なかなかそれを曲げることができづらい。いわば、自分で自分を仕立て上げているようなところがあるのだろう。もしそうしたありかたを曲げてしまえば、トランプがトランプでなくならざるをえない。逆にいえば、トランプによるトランプというくびきのようなものを、手放すことができるかもしれないのに、その機会を自分でみすみす逃してしまっている、ともいえるかもしれない。

原発をどうするのかと、現政権が保たれるのがよいのかは、少しだけ似ているところがあるような気がした

 原子力発電所の是非を問う。そうした問いが有効性をもつのは、原発を導入するかしないかのはじめにおける分かれ目のときにかぎられる。導入されてからずいぶん経ってしまった今となっては、原発は是と見なされるよりほかはない。原発のことについて対応する政権の要職者が、このようなことを述べていたようである。

 こうした原発の是非のありかたを問うのは、導入からずいぶん経ってしまった今となっても、いやむしろそれだからこそ有効性をもつところがありそうだ。その点については、固定した見かたがとられないようにすることができる。肯定性である確証をもつだけではなく、否定性による反証によって見ることもできるだろう。

 原発についての賛成か反対かといった問題は、一強他弱といわれる現政権がこのまま維持され続けるのがよいかそれとも退陣(交代)したほうがよいのかといった問題とちょっとだけ似ている。この二つの問題については、維持するのがよいとも見ることができるし、その逆にやめてしまったほうがよいと見ることもできる。大きくいえばそのようにできそうだ。

 それ以上の有益な代替案があまり見あたらないとの点においては、原発と一強他弱の現政権とは相通じるところがある。だからこのまま維持されるのがよいとすることもできる。負の面はあるけど、そこには目をつぶるよりない。これは今のありかたを維持するのが妥当だとするありかただ。

 今のありかたについて、妥当とするのではなく、不当と見なすこともできる。原発でいえば、算定される費用が低く見積もられているのを、破局的な事故のおそれをふまえれば、その費用がもっとはね上がることになる。トイレのないマンションといわれるのがあるように、核のごみをどうするのかの解決がむずかしいのも見のがせない。こうしたやっかいなことがらは、たんに(正しい知識の不足からくる誤りである)欠如モデルをあてはめてそれでこと足れりとするのはできづらいものだろう。

 一強他弱による現政権についてみても、そこには社会関係(パブリック・リレーションズ)のまずさが見うけられるような気がしてならない。たとえば何かの不祥事がおきたとして、それをたんに印象操作だとか、偏向な伝えかただとか、でっち上げだとかして片づけてしまうのは適切とは言いがたい。そうしたことで片づけられたとはできないのはたしかである。支持している人にとっては、十分に片づけられたことにはなるだろうけど。

 なんの悪いこともしでかしてはいないのに、濡れ衣を着せられているだけなのだとしたら、はなはだ心外な気がするのは自然である。しかしそのさい、社会関係である PR の文脈をおろそかにするのは賢明ではない。そうした PR の文脈がからんできてしまうのを想定しておくのが賢明である。なぜなら、あらゆるものは誤解されるからである。誤解への対処をまちがうと、けっきょく損をすることになる。そうした現実はありえるだろう。

 もし個人や少数者をよってたかって叩いてしまうのであれば、弱者をしいたげているのであり、これを独力で何とかしようとすることは困難だ。できるかぎり弱者や少数者をおもんばかるようにして、歩み寄れるようであるのがのぞましい。そのいっぽうで、権力者は強者だといえるので、PR の文脈において説明の責任がある。そうした責任にくわえて、協力をすることもいる。そうした説明や協力がなされないと、一方的なありかたにならざるをえない。

 原発の問題と、一強他弱による現政権とを、同じようにして並べて話してしまうのは、雑なところがあるかもしれない。そのうえで、この二つについては、ほかにめぼしい代替案がないとして、維持されることの妥当性がそれなりに高いのだとしても、だからといって完ぺきに基礎づけられるものでもないのがありえる。いろいろな条件のもとにおいて、いろいろな是非の見かたをとることができるのがあるだろうから、肯定と否定の両面でとらえたほうがよいのかもしれない。

一問一答式のようには答えが出てこないのであれば、急いで唯一の総論(結論)を出さなくてもよいのもあるだろう

 日本の戦前や戦時中について、あたかも自分で見てきたようなことは語れない。当たり前ではあるが、そうした面があると少しだけ省みられる。いっぽうで、じっさいに見たり経験したりした人であるのなら、語ることができるのはたしかである。しかしそのさいに、自分で見たり経験したりしたことは、何らかの器みたいなものに移すことがいる。経験を入れる容器のようなものである。

 戦前や戦時中に日本がどうであったのかだとか、または日本の憲法をどうするだとかについては、自分で自分を認めるようなところがある。これは自己言及がからむので、やっかいな作業である。芸術では、こうした性質のものは、モダニズムの芸術であると言われているそうだ。一人称の私についての主題をあつかったものだ。たとえば文学ではフランツ・カフカの小説などがそれにあたるという。写実主義のようには受けとることができづらいものとなっている。

 学校での試験のように、一問一答式で、問いと答えが一対一の対応をしてはいない。そうしたものであるとすると、その点に注意するのがあってもよさそうだ。一つの答えではなく、多くの答えが可能であるといったふうでありえる。

 鏡のように、唯一にして絶対の答えをうつし出すようにはなっていない。そのようなあり方をふまえて見ることができる。どういった文脈をとるかによって、意味づけが変わってくることになる。それがあるので、一つの文脈にだけよるのではなく、いくつもそれを持ち替えるようにできれば、固定された見かたにおちいらないですむ。

 なにも、一つの日本であるのではなくて、いくつもの日本があってもよい。そうした見かたもとれるという。いろいろな過去の負の痕跡が日本だけではなく世界(東南アジアなど)の各所にあることをふまえれば、そうした痕跡による部分について、全体と照らし合わせてみる。たとえ小さな痕跡だとしても軽んじないようにする。それによって、いろいろと整合するいくつもの見かたをとることができそうだ。そのさい、全体と部分とが不整合になることについて気をつける(それを避けるようにする)。

 主体としての日本と、客体としての日本とがありえるとすると、主体による見かただけが正しいとは限られそうにはない。盲点や、見落としや、未知なるありようもありえるだろう。主体が善で、客体が悪であるとしてしまうと、客体に悪を押しつけてしまう。主体にもまた非が少なからずあるとするようにできれば、一つだけではなくいくつもの見かたをとりやすい。

 昼の視点と夜の視点といったものもありえる。この 2つがあるとすれば、昼の合理による視点だけで割り切ることはできそうにはない。もしそのようにして割り切ってしまうと、夜の不合理な視点が隠ぺいされてしまう。夜の視点とは、廃墟であるようなものである。暴力のまん延によって、すべてが廃墟と化してしまったような荒廃したありようだ。たとえ昼のさなかの繁栄を謳歌しているのだとしても、つねにわれわれは過去の廃墟である夜の視線にひそかにさらされているのもありえる。昼の世界に向けられた、夜の反対世界からの視線だろう。そうした視線やまなざしを十分にくみとることがたまにはあってもよさそうである。

矮小化してしまうよりかは、全否定するほうがよいような気が個人的にはする(戦争のあやまちについては)

 全否定は過去を見あやまる。政治学者の三浦瑠麗氏は、東京新聞記事において、このように述べていた。太平洋戦争において、極端に日本人の人権が損なわれたのは、2年間のあいだにすぎない。せいぜい、1943年から 45年の間だけだという。

 そのように 2年間の間だけにかぎってしまうのは、ちょっとどうなのだろうという気がする。全否定が極端なのだとしても、かといって矮小化するのもまずいだろう。戦前や戦時中に日本が自国民や他国の人へおよぼした悪い行ないは、十分に一般化するに足りることだと見なせる。これを矮小化したり限定化したりするのには個人的にはあまり賛同できない。

 記事の中で述べられている三浦氏の意見については、正直いって、矛盾がたくさんあるのではないかという気がする。ちょっと偉そうなことを言ってしまうけど、できるなら、矛盾は一つだけにしぼってほしいところである。いくつも矛盾があると、いちいち指摘するのに労力や時間がかかってしまう。とはいえ、こうしたことは、たんに受けとるほうが勝手に見いだしていることにすぎないとも言えるものではある。

 護憲派改憲派も、ともに志が低かったり、小さかったりする。そうしたことがあるのだとしても、だから駄目だとするのには疑問が生じるのもたしかだ。かりに志が低いのだとしても、いったいそれの何がいけないのだろうか。逆にいえば、志が高かったとしても、それによってめちゃくちゃなことをしでかしてしまうよりはずっとましだろう。志が高いのをもってよしとするのは、日本陽明学の発想のような気がする。

 陽明学については、くわしくは知らないから、とらえ方において的を外しているおそれがある。そのうえで、こうした日本陽明学からの発想は、どちらかといえば、車でいえばアクセルを踏むようなありかただといえる。そうして加速してしまうのではなく、それに待ったをかけるブレーキの視点も欠かせない。

 ブレーキからの視点がいるのについては、一つには、今の日本はそれほど民主主義が成熟しているとは言えないし、人権もきちんと保障されているとは言えないような気がするからだ。民主主義については、成熟ではなくむしろ退廃しているとすら言えるふしがある。人権について見てみても、どうもそれを保障するのに手抜きや手ぬかりがされてしまっているように見うけられる。みなに、生きるうえで基本となる自由の幅が、平等かつ十分に与えられているとは見なしづらい。

 日本の警察は優秀で、抑制がきいているともいうけど、これについてもちょっとうなずきがたい。というのも、ほんとうに抑制がしっかりときいているのであれば、警察は容疑者を逮捕することができないのではないだろうか(現行犯を除いて)。容疑者というのは、疑いをかけられているわけだから、ほんとうに抑制をきかせるのであれば、そうした疑いをもってはならないものであるだろう。疑うのは、有罪推定の前提に立ってしまっているからだ。これはかなり極端な話ではあるわけだけど。