全体は虚偽であるとも言われるから、全体に奉仕することも虚偽であるかもしれない

 戦争において、国のために戦った。または戦わせられた。それで命を失うことになったとして、それははたして崇高なことなのだろうか。これについては、功利主義における例と少しだけ似ているかもしれないという気がした。

 功利主義における例の一つでは、遭難中の船に、船長と船員と、3人のきわめて優れたノーベル賞級の科学者がいるとされる。ここで科学者のうちの一人が、一つの提案をする。船員を残りのみなのための食料として犠牲にするのである。それによって、船員は犠牲となるが、そのかわり人類全体にとっての益は損なわれないですむ。

 船員を犠牲にすることによって、科学者の人たちの命がつなぎ止められるため、功利性が保たれることになる。功利主義の観点からすれば、この判断は肯定することができるような気がしてくる。しかし、それ以外の観点を持ち出すことができるのもたしかだ。

 はたして、このような功利主義による説明を船員が聞かされるかどうかは分からない。かりに聞かされるとして、船員はうんそうだなとして納得するだろうか。納得するかもしれないし、納得しないかもしれない。

 功利主義はとりあえず置いておけるとすると、船員には自然的権利がある。自分の命を保つことができるものである。もしそれが叶わなくなるのだとすれば、その時点において、船員にとっては、社会状態が破られて、自然状態となる。万人が万人にとって狼となるようなあんばいだ。

 個人主義をふまえてみると、人間の一人ひとりの命が保たれるようであることがいる。もしそれが損なわれてしまうとすると、そこで持ち出されてくる理由としては、たとえば国家の論理みたいなのがありえる。こうした論理について、一見すると正しそうな気がしてくるのだとしても、必ずしも完全に基礎づけることはできそうにない。

 正義とは、かくあるべしといったような当為(ゾルレン)であると言えそうだ。そういった正義は、一つだけなのではなく、いろいろな立場においていろいろなものがありえる。誰が犠牲になるべきなのかとして、そこに筋道を立ててつじつまを合わせることができるけど、それだけがすべてではない。というのも、そこでは、同一の世界観による駆り立てが行なわれてしまうのがある。人間が手段として道具のようにあつかわれてしまう。そうではなくて、それぞれの人間が目的としてあつかわれるのが理想だといえそうだ。じっさいには難しいものではあるだろうけど。