存立危機事態の主語を(日本だけに限定せずに)広げてしまうと、修辞におちいってしまいそうだ

 アメリカのグアムにある米軍基地が攻撃されたとする。もし北朝鮮によってそうした攻撃がなされれば、日本は存立危機事態となる。集団的自衛権を発動できることになる。自由民主党小野寺五典防衛相は、そのようなことを述べていた。この発言において、なぜ、アメリカのグアムにある米軍基地が攻撃されると、日本の存立危機事態になるのだろうか。

 集団的自衛権は、日本の憲法ではそれを行使することは認められていない。しかし、国際法ではその権利が認められている。ここで要点となるのは、国際法と日本の憲法をごちゃ混ぜにせずに、あくまでも分けてとらえることにあるという。いわば、よそはよそ、うちはうちである。よそとうちとを混ぜてしまわないで見てみると、日本の憲法では個別的自衛権が解釈によって認められるにとどまっている。

 国際法で権利が認められているのだから、集団的自衛権を行使してもかまわない。このように見なしてしまうと、日本の憲法がないがしろになってしまう。ここはあくまでも、国内の建て前を守ることがいるところだという気がする。せっかく国内に建て前として持ち出すことができる理由があるのだから、(言い方は悪いかもしれないが)わざわざ出てゆかなくてもよいのではないか。

 集団的自衛権は、ほんらいは集団的他衛権であるとも言われている。そうしたものを用いるのにさいして、要職に就いている人が勝手に決めてしまうのはうなずきがたい。危機だからというのは決定的な理由とは言いがたいものである。せめて、国民のみなを巻きこんで色々な意見を出し合い、議論したうえでという過程がとられることがあるのがのぞましい。そうした過程すらとられず決めてしまうのであれば、権力の濫用にあたる。

 ほんらいは日本の憲法では認められていないのが集団的自衛権である。そのうえで、(百歩ゆずって)かりにその権利を持ち出すのだとしても、何が何でもそれを使わなければならない、といったことではないだろう。使わないでいることもできるはずだ。

 そうした権利をいうよりも、むしろ義務のほうに目を向けるべきだという気がする。憲法尊重擁護義務は、とりわけ権力者において、その義務を果たさないでもよい自由はない。その(例外的な)自由があるとするのは主権の論理であり、それは独裁制に行きつく。そうしたおそれがあるから、危ないことはたしかである。

隠ぺいしてしまうのではなく、できるだけ明るみに出して、発見(discover)するほうがすっきりとすることはたしかである(cover しておおい隠してしまうのではなくて、それをとり外すようにする)

 疑惑が国会でとり沙汰される。そのさい、当事者をその場に呼んでくるのでないと、なかなか疑惑が解明されづらい。追求される側が招致に協力的でないのは残念だ。解明されてしまうとまずいことになるから、あえて呼ばないのだと受けとれてしまう。これは、(当事者の)不在による現前みたいなところもある。ほんらいその場にいる必要のある人が不在であるためにかえって現前されてしまうといったあんばいだ。

いきなり再起動されていてちょっとだけびっくりした

 オペレーティング・システムが更新プログラムによって更新される。そのさい、再起動がいるわけだけど、きちんとこちら側に都合をたずねてからことを運んでくれるようになっていた。しかし新しいウィンドウズだと、何もこちら側にたずねずにことを運んでいってしまう。これは政治でいえばタカ派的な進めかただといえそうだ。機械の側から、またはマイクロソフト社の側からすれば、一刻も早い再起動をするのがいるのだろうけど、切れ目がなさすぎるのだとあまりに機械的である。

たんなる偽ニュースならとるに足りないけど、本物の疑獄なのであれば、そこだけを外科的に切除はできづらいおそれがある

 政権の支持率が高く保たれてきていた。それをかりに健康なありようだと見ることができる。そうした健康なありようが損なわれてしまうのだと、病気におちいったことをあらわす。これは比喩として言っているつもりなので、ほんとうに健康であったり病気であったりするわけではない。

 政権への支持率が高くて、不支持率が低いのであれば、健康が保たれていると言ってよい。しかしそれが一転して、支持率が低くなり、不支持率が高くなるのであれば、病気におちいったと見ることができる。病気と言ってしまうといささか不謹慎ではある。そのうえで、そこの判定については、有権者の価値判断や倫理や道徳による見かたがかかわってくる。そのいかんによって線引きは変わってくるだろう。

 たとえば、政権の醜聞として、疑獄のようになってしまうようであれば、火の手が上がってしまったことになる。そうして火の手が上がってしまうまえに、いくつかのぼやみたいな前段階がありえる。その前段階でしかるべき対処ができていれば、のちに大きな火の手にならずにすむ。そうしたことが言えるのではないか。これをうら返せば、前段階としていくつかのぼやを放置してしまったがために、そのぼやが積み重なることによって、ひいては大きな火の手となってしまう。

 まだ前段階である小さい火がぼやなわけだけど、これは東洋医学では未病と言われるものにあたりそうだ。未病とは予兆のようなものである。その予兆をないがしろにせずにいちいち対処するのは一見すると面倒ではあるが、あとになってみれば楽である。これを見すごしてしまうことによって、じっさいの病気になってしまう危険さが大きくなる。

 人は色々な事情をかかえているわけだから、かりに前兆や予兆を見落としたとしても、とりたてて何か非があるわけではない。誰しもできれば健康でありたいものであり、健康を損ねたい人がいるとは見なしづらい。そのうえで、対処の楽さといった点に立てば、健康を少し損ねてしまっているくらいのところで手を打てれば、労力をそれほどかけないですむ。

 政権への支持率が高く、不支持率が低いのは、健康なありようであるといえる。その健康であるときに、ひそかに病気の種がまかれてしまう。そうした見かたをとることができそうだ。その種が芽を出して木になってしまうのを避けるためには、芽が出た段階でそれを認知して摘んでしまうことがいる。ひとたびしっかりとした木にまで成長してしまってからそれを切り倒そうとするのだと、下手をすると倒れた木の下敷きになってしまいかねない。そうした危うさがあるのがありえる。

置かれている条件がちがうわけだから、単純に年月の長さで比べるのはどうなのだろう

 日本は、世界でもっとも年上の国である。2677歳になる。デンマークがついで1500歳、イギリスがそれについで 1000歳である。日本たばこ産業の広告では、こうしたことが言われているそうだ。

 ここで言われる国とは、そもそもどんなしろものを想定しているのだろう。近代国家なのであれば、たしか 17世紀ほどにウェストファリア条約によって成り立ったものだろうから、それによって順次できあがっていったものといえそうだ。それ以前にさかのぼれば、近代国家としての国はないわけだから、あまりさかのぼっても意味がなさそうである。

 日本の国が 2677年も続いてきたとはいえ、それを 0からずっと連続してとらえるのにはいささか無理がありそうだ。質のちがいを無視してしまっている。記号表現(シニフィアン)が日本であっても、記号内容(シニフィエ)はそうとうに異なっているはずだ。なので、ひとくくりに日本(人)とするのは適当とはやや言いがたい。

 日本が世界でもっとも年上なのであるとするのに加えて、日本は神さまがつくった国でもあるという。そうしたことが広告の中で言われているわけだけど、そもそも、国だとか神さまだとかいったものは、厳密にいえば実体ではない。精神分析学のフロイトは、国は超自我の虚焦点である、と言っているそうだ。見る者の内なる超自我が投射されているわけである。

 神さまについても、それは世界を実体化したものであるという。世界そのものは物自体なのでとらえることが難しいものとされる。そのうえで、世界がなぜあるのかというさいに、それを説明する物語が持ち出される。その物語は本当のこととはいえないにしても、受けとる者において現実味が高ければじっさいのことのように見なされる。

 日本は神さまがつくった国だとするのは、日本のはじまりを説いたものである。これは起源を説く神話であると言ってさしつかえがない。日本には日本の神話があってもよいのもたしかである。それにくわえて、日本には八百万の神さまたちがいて、その一人ひとりにもまた神話があると言ってもよさそうだ。日本人の一人ひとりにもまたそれぞれの神話があるだろう。

 神さまとはいわば、よく分からないものにフタをするようなものである。そのフタをとってしまえば、神さまを抜きにしたこととなる。たんに世界の中に一つの島があり、そこに人が住んでいる(きた)だけにすぎない。そうした点をふまえると、日本の国をつくったのが神さまだとするのは、汎霊論(アニミズム)からの観点によった見かたである。

増税に耐えられる経済の足場を整えるのと、反対派を説き伏せるのとは、どちらのほうが難しいのだろう(どちらのほうが易しいのだろう)

 消費税の 10%への引き上げは、予定どおりおこなう。テレビ番組に出演したさいに、自由民主党安倍晋三首相はこのように述べた。2019年の 10月に予定されている消費税の増税をおこなう意思を示した。

 首相は合わせて、財政の赤字を減らして健全化をはかるとしている。また、国内総生産に占める債務残高の割合を低くするように努めると語っている。消費税の増税とともに、これらはできるだけなしとげるべき目標であるとしていた。

 おもうに、消費税の増税については、ここでこそていねいな説明をしたほうがよいことなのではないかという気がする。この点についてていねいな説明が欠けてしまっているせいで、陰謀理論がはびこってしまったり、即興による解説がなされてしまったりしてしまう。擬人化して見立てる、擬人的思惟にはまりこむ。

 消費税の増税を予定どおり行なうのであれば、それをするのはなぜなのかといった理由づけや、背景となる観点や条件を説く。増税を行なうのが正しいとできるような論拠を出すことによって、しっかりと論証してゆく。そうした過程がとられたほうがよいだろう。反対の立場からの反論があるはずだから、その立場ともやりとりをする。

 一人二役ではないが、アメとムチのようにして、増税の延期を土壇場になってちらつかせるのは、ムチを引っこめてアメを差し出すようなものだといえそうだ。土壇場になってアメを差し出されれば、それについ手を出してしまうのは人情でもある。こうした点については、ことわざでいう、良薬は口に苦し、なんていうのを持ち出すこともできるだろう。たんに苦いだけでは国民は納得しないのはあるわけだから、そこは首相の口からあらかじめていねいな説明をするのがあったほうがよい。それによって、陰謀理論や即興による解説のまん延を、巷から少しは払しょくすることができそうである。

労働と休暇の折衷

 問題が山積みなのにもかかわらず、夏休みをとるとはけしからん。(就任中の)バラク・オバマ前大統領にたいして、このような批判を言った。批判を言ったのは、大統領に就任する前のドナルド・トランプ氏だ。そしてトランプ氏はいざ大統領になった今となって、夏休みをとることにしたという。オバマ氏に投げかけた批判が、自分にはね返ってきてしまったかっこうだ。

 トランプ大統領は、夏休みをとるのにさすがに気がねがしたのか、ワーキング・バケーションであると言っていた。休暇をとりながらも働くのだという。日本語に訳すと、働きながらの休暇、といったところだろうか。これでは、働くのか休暇をとるのか、どっちなのかがよく分からない。車の運転でいえば、アクセルを踏みながらブレーキも踏む、みたいなあんばいだ。

 働くと一と口に言っても、形だけ働くとすることもありえる。いわば口実のようなものである。ワーキングは建て前であり、本音はバケーションのほうにおかれている。そうしたことがありえるだろう。休暇のほうが楽しいのは人情だから、労働とはいっても気もそぞろとなり、身が入らずにおざなりになってしまうことになりそうだ。

 なんの個人的な借りがないのだとしても、あえてトランプ大統領に忖度してみるのだとすれば、雑種(ハイブリッド)のようなふうにして、労働と休暇を同居させる試みであるかもしれない。あるいは、弁証法のようにして、労働であるテーゼと、休暇であるアンチ・テーゼを止揚(アウフヘーベン)させるようなもくろみであるかもしれない。

 ことわざでは、虻蜂とらずといわれる。二兎を追う者は一兎をも得ずともいわれる。こうしたことをふまえると、どちらか一つにしぼったほうがよいような気がする。けっきょくどちらも中途半端に終わってしまうようであれば不完全燃焼(不完全休養)みたいなことになりかねない。よけいなおせっかいではあるかも知れないが。

憲法を中学生に寄せるのもよいだろうけど、中学生を憲法に寄せるのであってもよいのでは

 中学生が読んで、自衛隊違憲となる憲法なのはおかしい。政治学者の三浦瑠麗氏は、そのように述べていた。中学生が読んでということであるが、小学生の場合はどうなのだろう。または、高校生や大学生だったらどうなのだろう。かならずしも中学生を想定する必要はないような気がする。

 いろんな立場があるわけだけど、かりに憲法をできるだけ尊重しようとする、護憲派の立場をふまえてみる。この立場においては、憲法を守ることが、もっとも優先されることになる。何が一番で何が二番で、といった優先順位をつけるものである、順序数的効用において、憲法が一番にくるわけだ。

 そうした護憲派の立場をふまえてみると、憲法をできるだけ守るのがよいのであるから、自衛隊はその次にならざるをえない。極論でいえば、憲法を改正するよりも、自衛隊を解散するべきだろう。しかしかならずしも解散することはいらない。個別的自衛権に限定するのであれば、憲法の解釈によって自衛隊は肯定される見かたが成り立つ。そうしたことが言えるそうである。

 憲法をできるだけ守ろうとする護憲派の立場が、そのほかの立場よりも正しいとはかぎられない。そうしたことは言えるわけだけど、だからといって、改憲派が正しくて護憲派がまちがっているとはかならずしも言えないだろう。そのちがいについては、それぞれの効用のあり方のちがいによってくるところがある。

 現実をいちばん効用の高いものとする。憲法はその次にくるのであり、効用は低いと見なさざるをえない。改憲派であればそのようになるだろう。ここで問題となってくるのは、現実と一と口にいっても、極論でいえば、それは玉虫色として受けとれるものである。どこから見るのかによってちがってくる。なので、現実を見るのについても、できるだけ遠近法的解釈として、解釈が複数あってよいとするのがのぞましそうだ。よっぽど整合性に欠けるのでないのであれば、いろいろな立場がありえるので、どれがとりわけ正しいのかは一概には言えそうにない。

もっとも短い伝記は、生まれて、苦しんで、死んだ、というものらしい

 人生には救いはない。作家の車谷長吉氏が、そのように述べていたのを見かけた。車谷氏は、生まれたころから遺伝性の副鼻腔炎(蓄膿症)を患っていたそうで、鼻から息を吸うことができなかったという。そうした辛い境遇をかかえていたこともあり、また生きてゆく中でのいろいろな人生の経験や観察もそこに重なり、救いがないとする結論にいたったのだろう。

 気持ちがふさいでしまっていて、ひどくゆううつなときには、たしかに人生に救いはないのかもしれないといった感じがする。救いがないことにたいして少なからぬ説得力を感じるのである。

 たとえ救いがないのだとしても、それでかえって肩の荷が下りることもありえる。これは逆説であることになる。しかし、そうして逆説がはたらくのは必ずしものぞめない。救いがないことをまともに受けとめてしまうといったふうに、通説みたいにしてしまうありようがある。こうした通説の受けとめ方になると、文字通り救いがないことになり、どこまでも浮かばれないかのようである。

 現にこうして救われていないように受けとめられる自分がいるのだとすると、それはけっこう強い例証となる。あまり例証にしたくはないのもたしかだけど、どうしてもそうなってしまうところがある。自分による足場に引っぱられてしまうようなあんばいだ。自分ばかりを気にするのはよくないこともあるわけだけど。

 救いがないのは、一面の真実であるような気がする。自分が落ちこんでいたり沈んでいたりするようなときには、とりわけ真相であるかのようにひしひしと感じられる。しかしそれと同時に、救いがないのを証明することもできづらい。たとえ空手形をつかまされることになるおそれが高いのだとしても、いつかはほんとうの約束手形をつかめるのではないか。決して賢くはないかもしれないが、そうした期待をもってしまうこともたしかである。

 哲学者のショーペンハウアーは、この世について厭世的な見かたをとっていたという。神さまではなく、悪魔がこの世を支配しているといった悲観主義によっていた。悪魔がこの世を支配して動かしているとする見かたは、必ずしも頭から捨て去ることができそうにはない。それなりの整合性をもっているのはたしかだろう。ある種のつじつまは合っていると言わざるをえない。ただ、あんまりこのような見かたによりすぎると、偏ってしまうところもあり、ことによると危ないようになりかねない。

 厭世観による悲観主義は、一つの見かたであるけど、それだけをもってしてこと足りるとはいえないものである。色々な見かたが成り立つのがあるから、一つの見かたにだけよるのではないようであるのがのぞましい。

 止まない雨はないとも言われる。それをふまえると、ずっと空に厚い雲がおきてばかりいるとはかぎられない。いつかは雲と雲のあいだに割れ目がおきて、光が差すことがのぞめる。積極的な態度であるとはいえないかもしれないが、それを待つのも悪くはないかもしれない。そうして他力によるばかりではなく、少しは自力でもやってゆかないとならないかもしれないのもある。

 時間とは変化のきっかけであるから、時間がたてばものごとは何らかの形で動いてゆく。ずっと静止しているわけではないだろう。それにくわえて、空間の面に目を向けてもよいかもしれない。もしかりに厭世や悲観による空間があるのだとしても、それとはまたちがった空間も別にありえる。なので、厭世や悲観とはまた別な空間に移行するみたいなこともないではない。それについては、空間の現実味や臨場感(リアリティ)がかかわってくることになりそうだ。または、文脈(コンテクスト)であるといってもよさそうであり、それを交換したり持ち替えられたりできるのだと、単一なだけであるよりかは融通がきく。場合によっては難しいかもしれないが。

 文脈とは意識による志向性をさす。その志向性によって意味づけがされる。主観による志向性で意味づけするのを、たまにはカッコに入れてみるのもよいのかもしれない。そのようにできれば、またちがった角度からものを見ることができるようになるのがのぞめる。それまでとはまたちがった意味付与ができることがありえる。そんなにうまくはゆかないものではあるだろうけど、うまくすれば陰と陽の転換みたいなこともできるかもしれないので、それができればさいわいである。

人間からの排除(上方もしくは下方への排除)

 人間あつかいしてごめんなさい。こうした憎悪表現(ヘイトスピーチ)によるかけ声が投げかけられていたらしい。このかけ声をあらためて見ると、人間あつかいにするのがふさわしくないものとして、必ずしも人間以下(とされるもの)であるのばかりではない。人間より上(とされるもの)である神さまや仏さまなんかがいるわけだから、そうしたものである可能性もあげられる。無神論の人であれば、神さまや仏さまがいることを否定するかもしれないが、それ以外でも、超人なんかを持ち出せる。

 人間は万物の霊長であるとしても、人間の範ちゅうにはいろいろな人がいることもたしかである。それにくわえて、自分が人間に属するからといって、人間を優遇するのはおかしい、とする意見もある。人間中心主義になってしまうからである。自分が人間に属しているとしても、それだからといって人間を優遇するのは必ずしもふさわしくないのもあるから、反人間中心主義の視点に立つこともあってもよさそうだ。