やじの主体と、やじられる客体の、非固定的なありかた(関係主義的なありかた)

 こんな人たちには負けてはならない。ここでいうこんな人たちとは、選挙の演説中に、演説者に向かって厳しいやじを飛ばした人たちをさす。いわば、厳しいやじを飛ばしてきた人たちを逆手にとって、演説者がやんわりとやじをし返したようなものである。それにしても、たとえ一部の聴衆が厳しいやじを飛ばしてきたからといって、その人たちを、こんな人呼ばわりするのはいかがなものだろうか。そう言いたくなる気持ちもまったく分からないわけではないが。

 せっかく首相が選挙の演説に駆けつけて、そこで声を発している。それを聞きにきている人たちも少なからずいる。そうした人たちの邪魔をしてしまうのであれば、けしからんことである。また、選挙妨害にあたってしまうし、規則に反しているのはいなめない。

 もしそうした選挙妨害や規則に反しているのを(やや無理やりではあるが)肯定できるとすれば、たとえば緊急事態みたいなのを持ち出すことができるだろうか。それくらい、国政がいま危機におちいっているとの認識を一部の人がもっているとすれば、規則から少し逸脱してしまってもしかたがない。これは、実存状態または政治状態(非規範状態)がおきていることをあらわす。

 そんなふうにして、実存状態や政治状態などといったのを持ち出すことで、規則に反するやじを正当化してしまってよいのか。そうした点については、やや卑怯であるかもしれないが、人間の尺度を超えた自然史の観点を持ち出せるかもしれない。この観点においては、人間の尺度を超えてしまっているので、演説者にたいする否定のやじがおきるのは、理非曲直ではちょっとはかりがたいところとなる。演説者をぶん殴ったといったようなのならまちがいなく問題だが、やじの叫びを投げかけたのだと、そこは判断がむずかしいところが出てくる。

 演説者に向かって厳しいやじの叫びを投げかけたのは、けしからん面があるのはまちがいない。実証的に、厳しいやじが投げかけられたのがあるわけだが、それをあらためて見てみるとして、なぜそうしたやじが投げかけられたのか、とすることもできるだろう。やじが投げかけられたのを結果として、その原因はいろいろありえる。まったく言われもないのにやじが投げかけられたわけではないだろう。もっとも、そこは人それぞれの見かたによってまた違ってくるものではある。

 やじを投げかける人を、何かよからぬ陰謀をもった人だとか、こんな人たちだとかいって、いちがいにさげすんでしまうだけでよいものだろうか。さげすまれてしまう面はたしかにあるかもしれないが、逆に言えば、そうしてさげすまれるのを覚悟のうえで、あえてやじを投げかけたのかもしれない。そうであるのなら、やじを投げかけた人への惻隠(そくいん)心をもつこともあるいはできるかもしれない(そんなことはしたくもないとする人も少なくないかもしれないが)。

 演説者に向かって厳しいやじを投げかけるといった心情はわからなくはない。しかしそこは建て前である規則を守るべきなのではないか。そうしたことが言えるだろう。それについては、建て前とは義理であり、それを守るのは温かい義理であるときならやりやすい。しかし冷たい義理になってしまうのだと、もはや守りがたくなってしまい、心情が強く出てきてしまうところがある。これは、当為(ゾルレン)と実在(ザイン)でいうと、当為よりも実在が上まわってしまうようなあんばいだ。

 当為よりも実在が上まわってしまうのがいけないかどうかというと、それはものや場合によりけりだと言えそうだ。当為とは建て前であるから、集団の論理である。それが個の自由をさまたげてしまうことがありえる。そうであるとすると、個による自由を求める声が出てきてもおかしくはない。個の自由による権利(right)は、それがひいては正義(right)となり、みなの権利の肯定に結びつく。ちょっと虫がよいとらえ方であるかもしれないが、そうした面もありえる。

 理性(ロゴス)によって、ものごとを穏やかにやりとりし合うのも大切だ。しかしときには、荒ぶる感情(パトス)が表に出てきてしまうこともある。感情(パトス)とは受難でもある。感情や情動が動因となることによって、響きと怒りをもたらす。こうしたところからくるやじは雑音でもある。しかし雑音は必ずしも否定的なものとは言い切れそうにない。秩序の前には雑音による乱雑さがあり、混沌がある。唯物的に言えばそのようなところがありそうだ。

誤解と志向性による意味づけ

 誤解であることによる。政治家の人が失言をとり沙汰されて、そのように弁解した。受けとるほうが誤解しているのであり、まちがっているのだとしている。たしかに、失言したことが、もしそのように整合してとらえられるのであれば、その余地がある。しかし、受けとるほうが誤解したとするのが整合しないのであれば、かなり苦しい弁解にならざるをえない。受けとるほうが誤解したのにほかならないとして、先見でもってして決めつけていることになる。

 重箱の隅をつつくようにして失言をあげつらうのであれば、やりすぎになるおそれがある。しかし、言明の中心において失言をしていたのだとなれば、それについては大目にとらえて見すごすわけにはゆかないのではないか。ゆるがせにはできづらいところである。あまり厳しすぎるのもよくないかもしれないが、かといって大甘に見てしまうのだと、法の恣意的な当てはめになりかねない。なにが優先されるのかにおいて、それがかりに国家であるのだとしても、国家とは法である。ゆえに、ここはちょっとまずいといった線引きを踏みはずしてしまうのであれば、そこは非を指摘されてもしかたがないものだろう。

集団の長としての、建て前が守られたうえで発言がなされればよかったのだろう

 自衛隊としてもお願いしたい。防衛相をつとめる稲田朋美大臣は、選挙演説でこのようなことを述べた。それが波紋を呼んでいる。自衛隊を政治利用したと受けとられかねない。それで非難を受けているようだ。

 自衛隊を政治利用することは、政治的中立に反することになる。明らかに法に違反しているとの見かたもある。そこで、野党などは稲田防衛相の罷免を求めている。この求めを政権与党は退けた。与党と近しい日本維新の会松井一郎代表も、罷免はしなくてよいと述べている。窮地におちいっている稲田防衛相を、まわりの者が防衛しているようなあんばいだろうか。

 稲田氏が属する自由民主党の関係者からは、どうしてこのようなことを(稲田氏が)言ったのかがさっぱりわからない、とする声も上がっているという。しかし、稲田氏の日ごろからもっているであろう政治思想をふまえれば、むしろつじつまが合っている発言といえるのではないかという気がする。個人よりは集団を重んじる思想をもっているのだろうから、自衛隊を一つの集団として、それを束ねる長の意思がもっとも優先される。そうした全体論による発想をとっていてもおかしくはない。

 ほんらい、自衛隊は政治的に中立であることがいるとされる。しかし、稲田氏の日ごろから抱いているであろう思想をふまえてみると、この中立性がないがしろにされていても不思議ではない。中立をよしとするのではなく、もっと実質にふみこんでゆくような立場をとっているであろうからである。そうして実質にふみこむと、それをよしとしてくれる支持者もいるだろうけど、中立がないがしろになる面はいなめず、それが危険さとして生じるところがあるだろう。

 脳科学者の中野信子氏は、稲田氏が司法試験を通過(合格)している点を持ち出していた。それくらい頭がよいのだから、何かきちんとした計算にもとづいて発言をしたのだろう、といったふうに見ていたようである。たしかにその可能性もなくはないだろうけど、しかし逆に、まったく計算をしていないで、日ごろ頭に抱いている思想にもとづいてごく自然に発言したおそれもある。

 ちょっと例は適切ではないかもしれないが、たとえば頭がよいとひと口にいっても、オウム真理教の幹部をつとめていた信者に高学歴の人が多かったこともあげられそうだ。高学歴で、優秀な学校に入れるような人でも、必ずしもつり合いのとれた見かたができるとはかぎらないだろう。カルトのような、実質による世界観にころっとやられてしまうこともありえる。

 中立とは、何か単一の価値が押しつけられることとはいえそうにない。さまざまな実質による価値を、それぞれの人の意向に合わせて持つことを認めることだろう。そして、できるだけ公の場ではそうした実質による価値を一方的に持ち出さないようにする。こうした中立をある公人が守ったからといって、積極的に褒められたり評価されたりすることはあまりありそうにはない。逆に、中立をないがしろにして、実質による価値をぶち上げたほうが、一部の人からの大きな支持を得られやすい。ただそうした動きには、たとえ誘因や動機づけがはたらいてしまうにせよ、危ないところがあることはたしかだと言えそうだ。

貧しくなる自由があるとしても、市場による調整が成功するとはかぎらない(市場にまかせすぎると、失敗するおそれが高い)

 若い人たちに告ぐ。みなさんには、貧しくなる自由がある。何もしたくないのなら、そうしてもよいが、そのかわり貧しくなる。その貧しさを楽しんだらよい。いぜん、経済学者の竹中平蔵氏はこのようなことを述べたそうだ。

 たしかに、貧しくなる自由はあるのかもしれない。貧しくても豊かな生きかたはありえるだろう。いやむしろ、貧しいからこそ豊かな生きかたができるといったこともありえる。Less is more(より少ないことは、より豊かなことである)とも言われる。しかしいっぽうで、ことわざでは、貧乏暇なしなんていうものもある。竹中氏が述べているような、貧しさを楽しむゆとりは現実にはちょっともてそうにはない。

 なぜ、現実には、竹中氏の述べるような、貧しさを楽しむゆとりをもちづらいのか。いろいろな理由があげられそうだが、一つには、日本が経済一辺倒の単線型社会であることによりそうだ。経済で勝ち組になれればよいが、もしそうなれなくて負け組になってしまうと、お金がものを言う社会のなかでは生きてゆきづらい。

 経済による単線型の社会だと、安全網がはたらきづらいところがある。きちんと安全網をはたらかせるうえで、貧しくて落ちこぼれてしまうのを、負けではないようにする見かたがあってもよさそうだ。そうすることで、単線型ではなく複線型にすることができる。貧しくてもそれは質であり、経済的に勝つのとはまたちがったものだとできるわけである。

 単線型の社会では同質さによるありようがとられるが、そうではなくて、ちがう質も認められるようにすれば、単純な経済の勝ち負けで振り分けられてしまうことを防げる。たとえば、体質でいうと、陽のタイプと陰のタイプの人がいるとできる。そうした 2つのタイプがありえるが、単線型で同質さのありようがとられていると、陽のタイプを基準としてそこに最適化されてしまう。ちがう質をもった陰のタイプのことはあまり顧みられなくなる。

 生きてゆくうえでの基本的需要(ベーシック・ニーズ)は、誰しもそれを受けられるようなことがあるのがのぞましい。これについてはきれいな手(クリーン・ハンズ)の原則がはたらかない領域と見なせる。もしこうした基本的需要を受けることができないようであれば、それは問題だろう。それが与えられたうえで、さらに自分がどれくらいさまざまな物やサービスが欲しいかの、欲望の度合いに応じて、お金をたくさん稼ぐために努めてゆく。

 働かざるもの食うべからず、といったことわざもあるわけだけど、財政の一つの考えによれば、きれいな手の原則がはたらかない領域として、生存の欲求を見なすことができるそうだ。なので、生存にまつわる最低限の基本的需要を満たすのについては、条件つきの仮言命法ではなく、無条件の定言命法でもかまわない、と理論としては言えそうである。

 人間なら誰しも少しくらいの超自我(良心)は備えていると見なせるので、かりに無条件で基本的需要が満たされるとしても、それですぐさま社会が崩壊してしまうようにはならないのではないかという気がする。そこは、うまく人々の意向をそれとなく社会の維持のほうへもってゆくことも、工夫しだいによってはできなくはないだろう。より以上に欲しいものがあるのなら、市場原理によるところへ自由に参入することもでき、領域を線引きすることによって組み合わせをとるようにする。

厚生労働省による、医療の情報を見るときに気をつけておくべき 10個の注意点

 情報を見きわめる。そのための 10ヶ条の要点を記したサイトが、厚生労働省のなかにあった。それがこちらである。医療についての情報を見きわめるときに意識するためのものらしい。たしかに医療についての情報は、玉石が入り混じっているので、うまく見ぬくことはなかなかできづらい。医療にかぎらず、ほかの情報を見定めるときにもまた当てはまるところがありそうである。

 政治においても、こうした 10ヶ条の注意が守られていたほうが有益な議論になることがのぞめる。逆にいえば、この注意がおろそかにされてしまうようだと議論が不毛になってしまうおそれが避けづらい。おたがいに揚げ足をとり合ってしまうようになることもありえる。

 政権をになう与党であれば、自分たちだけのことを重んじる 1人称の立場がありえる。しかしそれだと、自分たちだけのことを重んじるわけだから、それに都合の悪いことをねじ曲げてしまいかねない。そのようにならないようにするためには、1人称だけではなく、2人称や 3人称の立場にも立たなければならない。そうしたいくつもの視点に立つことによって、はじめて偏りを少なくすることができるようになるとされる。

 先の国会では、与野党による議論が生産的なものにはならなかったとの反省の弁を、首相は記者会見で述べていた。それを、少しでも生産的な議論になるようにするためには、情報を見きわめるための 10ヶ条をふまえることが多少は役に立つ。しかしじっさいの政治の場では、自分たちに有利な情報には飛びつきやすいだろうし、逆に不利な情報はうとんじて遠ざけたい。そうした思わくがはたらく。そこに弱さがあるということもできるだろう。

 弱さがあるのだからしかたがないとして、大目に見ることはちょっとできがたい。それを言い訳にしてしまうようだと、性善説の立場に立ってしまうことにつながってくる。もしそうであれば、政府はいらないか、もしくは夜警国家のようにかぎりなく小さくしてしまってもかまわない。そうではなくて、性悪説の立場に立つのであれば、悪いことをやっていないかをつねに監視されたり、約束をきちんと守るかどうかをチェックされたりすることを受け入れるかぎりにおいて、はじめてあるていどの大きさの政府があってもよいものだろう。

 そうしたふうに言えそうなので、何らかの事情で政権(政府)が弱っているときこそ、あえて他からの批判を受け入れるようになれればよいのではないか。そうしたほうが、医療でいえば、変な情報に引っかかることを防げる。スキャンダルがもちあがって政権が弱っているときに、自分たちに都合のよい情報をもち出したり、都合の悪い情報を隠したりしてしまうのは、人情としてはわからないでもない。しかしそれをやってしまうと、医療でいえば、変な情報に飛びついてしまい、引っかかってしまうことに通じてくる。ちょっと例えがおかしいかもしれないが。

力量のある人が力を発揮するのも大事だろうけど、絶対優位ではなく比較優位であってもよさそうだ

 国のために国会議員ははたらく。あるていど以上の力量をもっているのであれば、つまらないスキャンダルによってつぶされてしまうのはもったいない。国にとっての損失になる。そうした意見も言えそうではあるが、そのスキャンダルの内容がいちじるしく遵法精神(コンプライアンス)を損ねているものなのであれば、おとがめなしとするのはちょっとだめなのではないかという気がする。

 政治家と秘書とのあいだで、力関係による嫌がらせ(ハラスメント)があったとして、多少のことであればやむをえないところもありそうだ。ただこうした嫌がらせは、まったくないのであればそれに越したことがないものでもある。ないですませられればそれが一番のぞましいので、必要悪のようなものだろう。現実には、そうした嫌がらせが少なからずおきてしまうところはあるだろうが、だからといってそれをもってしてよしとしてしまうようだと、自然主義による誤びゅうにおちいるおそれもある。現実にはこうだからとするよりかは、現実(ザイン)と当為(ゾルレン)を分けて別々に見るほうがよいのではないか。

 上の者と下の者といった関わりは、社会のなかでの役割と見ることができる。この役割は、擬制(ロール・プレイ)であることもたしかだろう。なので、その関わりを絶対であるかのように見なしてしまうのは間違いのもとになりかねない。こうした役割は、仏教でいえば空観であったり仮観であったり中観であったりと見なすことができそうだ。角度を変えて見ることができる。

 役割による関わりは相対化して見ることができる。役割による力の差といったものは、社会的な評価などによるものである。そうした評価は思いこみである観念がそこにはたらいている。表象(イメージ)みたいなものであり、それをかりにとっ払ってしまえば、たんなる人間であるのにすぎない。人間はみな自分を愛することがあってよいはずだし、自分を大切にすることがあってよい。そうした自己配慮を、何かの条件をもち出して不当に傷つけるようなことがあるのはまずいのではないか。

 力関係による嫌がらせは現実にはおきてしまうのだとしても、たとえば何かで怒ったのだとしたら、そのあとが大事になってくるのではないか。たんに非を責め立てて怒ってそれで終わりとするのではなくて、怒ったのなら怒ったぶんだけあとで埋め合わせるようにする。下の者が非を犯したのだとしたら、そのあと始末をしてあげるなどができたらよい。怒りっぱなしにするのではなくて、そのあとの面倒までしっかりと見てあげるようにすれば、下の者もついてくるのではないか。もしあとの始末や面倒をいっさい見るつもりがないのであれば、そのかわりに怒りもしない、などとする。じっさいには難しいことかもしれないし、場合によってもちがうだろうから、必ずしもよい手ではないかもしれないけど、怒りっぱなしにするよりかは少しはよいだろう。

失敗をしてしまったことにおける、動機と結果のちがい

 そんなつもりではなかった。それを理由に持ち出して、失敗したことの言い訳としてはならない。政治家の人が、自分の秘書にたいして、そのようなふうにとがめた。そんなつもりではなかったのを言い訳にして失敗が許されるのであれば、たとえば車で人をひいたさいにもそれが持ち出せるではないか、といったことを例としてあげていた。

 そんなつもりではなかったというのは、動機である。そして、失敗をしてしまったのは結果である。このさい、動機はまちがってはいなかったが、結果がまちがってしまった、といえる。動機がよかったのだとしても、結果がまちがってしまったのであれば、台なしであることはたしかである。

 動機はよくても結果がだめだったのであれば、故意ではなくて過失だといえる。そして、動機がよいことをもってして、結果がだめだったことの言い訳にはできない、とするのは正しいだろう。しかし、たとえ正しいからといって、あまりねちねちとしつように非を責め立てるのはどうだろう。少なくとも、動機も結果も共にだめであるよりは救いようがあるし、情状酌量の余地もあるのではないだろうか。性善説により、失敗者へ惻隠(そくいん)心をもつことができる。もっとも、動機がよいとはいっても、それは建て前であり、じっさいにはすごい怠慢をしているのであれば、本音が問われることになる。

 車で人をひいてしまったなんていうことであれば、そうとうな大ごとであり、民事や行政や刑事の責任が運転手には問われることはまちがいがない。そうした事故においては、すでにそれがおきてしまったのであれば、現実と化したわけであり、後戻りできない不回帰点がおきたことになる。

 車の事故であれば、あるていどはどのような罰則が科されるのかの予測が立つ。罪刑法定主義がとられているためである。しかし、仕事での失敗なんかだと、どれくらい上の者からとがめられるのかがわかりづらいところがあるかもしれない。上の者のそのときの虫の居所しだいによってしまうおそれがある。ひどく虫の居所が悪いときであれば、失敗を必要以上に誇張されて、あたかもとんでもないことをしでかしたかのような言われかたをされかねない。冷静に見れば、そこまで言われることでもないものであることもありえる。

 上の者は、絶対君主ではないのだから、朕は法なり、みたいなふうにならないようであればさいわいだ。たとえ上の者において、朕は法なりとして、その法がふさわしいと見なせるものであったとしても、そこにおいて通じている理屈は、完全に正しいものであるとは言い切れない。(上の者による理屈において)下の者を不当にいじめてしいたげるつもりはなかった、との動機から、結果として下の者をそうしてしまったことの言い訳にはちょっとなりそうにない。

出発点となるところをいったん取り消して、原則(石破 4原則)に立ち返ってやっていったほうがよいのでは

 特定の地域の一ヶ所だけ、特区として規制をはずす。その一ヶ所に当たったのが、たまたま首相と長年のつき合いのある友だちのところだった。自由民主党安倍晋三首相は、友だちをとりたてて優遇したのだと見なされるのをたいへんに嫌って拒んでいるようだ。そこから、はじめは一ヶ所だけにかぎって特区にしていたのを、全国にまで広げようとする案を打ち出した。こうすることによって、友だちをとりたてて優遇したと見なされるのをかわす狙いである。

 ちょっとつじつまや段どりが合っていないのではないかな、といったように感じてしまった。というのも、そもそも友だちだからといってとりたてて優遇したのでないのであれば、特区を全国にまで広げることはいらないのではないだろうか。なぜ友だちをとりたてて優遇したのでないにもかかわらず、特区を全国にまで広げようとしているのか。それはいったい何のためにしようとしているものなのかがいぶかしい。かえって、友だちを優遇していたことを認めるふうな、逆効果になりはしないだろうか。

 あくまでも、友だちをとりたてて優遇したのではないが、世間の一部や野党がいろいろうるさいことを言ってくるから、しぶしぶ新しい手を打つことにしたのかもしれない。しかしそれだと、世間の一部や野党がいろいろうるさいことを言ってきたことで、それに屈服したことになりはしないだろうか。屈服したのではなくて、たんに折り合いをつけただけなのかもしれないけど、そこは折れないほうがよかったのではないかという気もする。もし友だちをとりたてて優遇していないのであれば、ぶれたり折れたりしないようにもできたのではないだろうか。

 あとから首相が打ち出した、特区を(一ヶ所ではなく)全国にまで広げる手は、もしそうする必要があるのであれば、はじめからそうするのがふさわしいものだと言える。首相が新しい案を出したことで、今度は、とってつけたような泥縄式でやろうとしているのではないか、何ていう新たな見なしかたもできてしまう。

 はじめは一ヶ所にかぎって特区を認めて、規制をとり外そうとしていた。しかしそれが友だちを優遇していると見なされたことから、特区を全国にまで広げる案を打ち出す。あらためてこの案を打ち出したところで、友だちを優遇したとする見かたが払しょくされるわけではない。なので、友だちを優遇したとする見かたを払しょくしたいのであれば、首相が新たに打ち出した案はさしたる意味がないような気がする。疑惑をかわせたことにはちょっとなってはいない。かろうじて疑惑を薄めることはできるかもしれないが。新しい案によって、公平に近づいただろう、と首相はしたいのかもしれないけど、疑惑の出発点の核のところは消せていないので、そこはとくに変わっていなさそうだ。

 はじめの一ヶ所ではなくて、全国にまで特区を広げる案は、それがうまくゆくのであればよい。ただ、市場による調整の仕組みがうまくはたらくとはかぎらないし、失敗するおそれがある。そこは万能ではないだろうから、心配な点である。

 岩盤規制を打ち壊す、なんていうのは勇ましいかけ声であり、なかにはそれが有効なものもあるのかもしれない。しかし、規制がかかっていることに意味があるものもありえる。必ずしも既得権益として悪と見なせるものばかりとはかぎらない。自生的秩序とか具体的秩序といったものがありえるので、それを外から一方的にぶち壊そうとしてしまうのも、一概によいものとはいえないおそれもあるだろう。

推測によるとはいっても、的はずれなものもありえるし、当たっているものもありえそうだ

 推測にもとづくものが多い話である。なので、それについて何かコメントするには値しない。政治スキャンダルの当事者の一人とされる政治家の人が、そのようなことを記者に述べた。これは、文部科学省事務次官をいぜん務めていた人の記者会見を受けての発言である。

 推測によるところが多い話だから、何かコメントするには値しないというのは、ちょっとどうなのだろうという気がした。推測によるとはいっても、いっさい何の関わりもない部外者によるあてずっぽうなものとはわけがちがう。官僚組織のなかで、しかるべき地位にいて、じっさいのことに長く携わっていたわけであり、それなりの情報の質と量を備えていると見なせる。なので、推測であるからといって切って捨ててしまうことはできづらい。

 娯楽ではあるけど、ミステリーなんかでは、探偵の役を担う人が、確たる証拠が無いなかで、自分の推測の力をもってしてものごとの真相を突き止めてゆく。いくつかの足跡が残されているのをふまえて、そのたどられたであろう道ゆきをさぐる。これは、物語と言ってしまえばそのようにも言えるものである。そのうえで、柔軟な大衆的知性(インテリジェンス)をもちいて、いくつかの残された足跡という情報(インフォメーション)から、試みとして一つの小さな物語を導くことはあってもよいものだろう。

 でまかせの物語を導いてしまってはよくないところがあるだろう。とはいえ、大きな物語といったものが通用しづらい現状もある。いまの世の中は情報過密社会なので、何が本当かがわかりづらくなってはいるが、そうであるのなら、小さな物語に自分なりに賭けてみることがあってもよいだろう。そのさい、自分がよしとするものがあるとして、そこへの認識がまちがっていることはありえる。そのまちがいのおそれはあるが、あえて多少のまちがいをいとわないで一つの立場を選びとることがあってもよい。

 いくつかの足跡と見なせる情報が明らかになっているとして、その足跡がほぼまちがいなくたどったであろう道をさぐる。その動きを強いて止められるものではない。そこには動機づけがはたらく。動機づけをはたらかせるなとするのは無理な話だろう。意欲と経験がかけ合わされることによって、何かが形づくられたり表出されたりする。

 明らかにこういうふうな足どりを運んだであろうと受けとれるものがあれば、そこから整合性を見いだしてつじつまを合わせて読みとるのがむしろ自然なのではないか。それを、まったく非の打ちどころのない完ぺきな根拠がないからとしていっさいを退けてしまうほうがちょっと不自然だと言えてしまいそうだ。

 いずれにせよ、罪ありと見なすか、それとも罪なしと見なすか、どちらにおいても、あるていど推定することは避けられそうにはない。そのさい、罪といっても、違法でないのであれば問題ないではないか、とする見かたもなりたつ。しかし、合法的正当性だけが正当性ではない。違法でないとしても、それは十分条件とはいえないところもあるだろう。くわえて、法の網の目をかいくぐってといったこともありえる。古代ギリシャでは、法はクモの巣であり、大きいものは巣を突き破って飛んでゆき、中くらいのものや小さいものだけが巣に引っかかる、と言われていたそうだ。

合理に重きが置かれてもよいだろうが、そこには限定と限界がある(可謬的であり、可疑的である)

 仕事ができないとして、強く責め立てられる。その責め立てかたは、しつようなものであったらしい。それで、その政治家の人のもとで働いていた秘書の人は、長くは持たなかったようである。秘書がひどい責め立てられかたをしていたのが明らかにされて、政治家の人は所属していた党を離党することになったという。

 仕事ができないのだとしても、それでひどく責め立てられてしまうと、嫌がらせであるハラスメントが関わってくることになる。そうした力関係からの嫌がらせによって、それを受ける側は小さくはない精神的外傷をこうむることがありえる。ひどいのであれば、そうかんたんに癒えない深手を負う。

 仕事ができない人において、その人自身に原因があるともできるが、必ずしもそれだけとはかぎられない。仕事ができないのを結果であるとすると、何かほかのところに原因があることもありえる。そのように複雑系によって見ることができるのではないか。何かちょっとした小さなかみ合わせが合っていないだけなのかもしれないし、また何らかのことで動機づけがうまくはたらいていないのかもしれない。賞罰(アメとムチ)のありかたがおかしいこともありえる。

 強く叱るというのも、一つの手として絶対に認められないものではないかもしれない。しかし、その強く叱る手だけしかないわけではないだろうし、その手がじっさいに有効に作用するかどうかもいぶかしい。たんに自分がその手を用いたいだけなのだとすれば、手段が自己目的化しているだけであり、撞着してしまっている。

 仕事ができるかできないかで区別されてしまうのはある程度はしかたがないところがあるかもしれないが、差別になってしまうおそれがいなめない。区別は差別にたやすく横すべりしてしまう。そうではなく、できるだけ個人が尊重されるようであるのがのぞましいだろう。人と違うようであってもよいわけで、その違いが否定されないようであればさいわいだ。

 あまりに効率性が重んじられすぎてしまうと、あたかも個人が部品のようにあつかわれかねない。そうした機械的な世界像に適合できないものは、邪魔ものであるとか役立たずであるとか見なされてしまい、ののしられたり排除されてしまう。そうした世界像においては、量が重んじられ、質がないがしろになる。量にできない質をもったものは、同一ではなく非同一さをもつ。同一をよしとするのであれば、非同一なものはのぞましくないので悪玉化されやすい。かっこうの標的になる。

 同一をよしとする世界像に当てはめがたいものを悪玉化するのではなく、できるだけ有用性を持つものとして見ることができたらよさそうである。そういったゆとりがあったほうが、関わり合いのなかで心理的な効用が高くなることがのぞめる。そうした実践をすることができれば、抑圧されてしまうことが少なくなるだろうし、解放につながることが見こめる。何か一つのありようにのみ還元されるようでないほうがよいだろう。力関係において、弱者がなるべくしいたげられないようなふうであればのぞましい。