親米か、反米か―アメリカの国がもつよいところと悪いところの二面性

 アメリカの国をよしとするか、それともそうしないか。親米かそれとも反米かである。このさい、親米であるとして、アメリカの国がもつよいところを学んで真似をするのか、それとも悪いところを学んで真似をするのかがある。

 日本の国は、基本として親米とはいっても、従米といったほうがよいところがある。その中でアメリカのよいところを学んで真似をするといったことであるよりも、むしろ悪いところを学んで真似をしてしまっている。そういうようなところがあるのではないだろうか。

 アメリカの国にはよいところもあるし悪いところもあるのだとすると、よいところから学んで真似をするようにしたい。悪いところは学ばないようにして真似をしないようにしたい。日本の国はこれとは逆になっているふしがある。よいところは学ばずに真似をせず、悪いところを学んで真似をする。ざんねんなあり方だ。

 いまの日本の国は自民族中心主義(ethnocentrism)のところが強くなっていて、かつてのような欧米に追いつき追い越せ(catch up)といったことすらなくなってしまっている。日本の国はすごいんだといったようなことで満足してしまっているのがある。

 日本の国はすごいんだといったことで満足するのではなくて、日本の国に足りないところや欠けているところを見て行く。比較と分析をして行って、日本の国の劣っているところと他の国のすぐれているところを見ていって、他の国のすぐれているところを日本の国にどんどんとり入れて行く。それで日本の国のあり方をいまよりも少しであったとしてもよいから少しずつよいようにして行きたい。

 欧米にはすでにとっくのとうに追いついていて、それと肩を並べているのが日本の国であり、日本の国はすごい。胸を張ってそう言うことがいえるのかといえばそれはできづらい。自信をもってそう言うことはできづらいのがあるのはいなめない。

 きびしく見れば日本の国は局所の最適化のわなにはまっていて、理想といえる大局の最適からへだたっている。それがあるのだとして、そこを改めて行きたい。日本の国はすごいとしているだけだと局所の最適化のわなにはまりつづけることになり、そこから脱する見こみは立ちづらい。ほかの国のもつよいところを見ていって、そこから学んで真似をして行く。日本の国の中にそれをどんどんとり入れて行く。それとは逆にほかの国のもつ悪いところを学んで真似をしないようにしたい。

 参照文献 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき) 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利