生活保護の制度があればすべての困っている人が救われることになるのか

 さいごの受け皿として生活保護の制度があるからこのままでかまわない。自由民主党菅義偉首相は国会でそのように答えていた。新型コロナウイルス(COVID-19)の感染が社会の中に広がる中で生活に困る人がおきてきている。国民が生活に困ったとしても生活保護があるのだからそれを受ければよいのだという。菅首相はそう言っているがそれでよいのだろうか。

 生活保護の制度は制度としての正義として十分なはたらきをもっているのだろうか。社会の中のすべての個人がみな平等に自分にたいする尊厳を持つことにつながっているのだろうか。少数者や弱者の尊厳がうばわれるような不正義がおきているのであれば自由主義(liberalism)の点からするとまずい。

 個人が生きている中でどん底に落ちることになる。そのさいに受けることになるのが生活保護だろう。どん底に落ちていってしまうさいのその傾きの角度のゆるさときつさがある。もしも個人がためとなるようなお金や人間関係などをたくさん持っていればどん底に落ちて行くまでの傾きの角度はゆるい。個人がためを持っていなければ傾きの角度はきつい。すぐにどん底まで落ちていってしまう。

 どん底に落ちていってしまってからではなくてその過程において、人それぞれによって持っているための量や質がちがう。そこに格差がおきてしまっている。社会の中に包摂されやすい人と社会から排除されやすい人とのちがいがおきてくる。社会から排除されやすいぜい弱性(vulnerability)をかかえている人を救う手だてが十分にとられていない。社会から排除されたのならその人が悪いといった自己責任になってしまっている。

 社会から排除されてどん底に落ちていってしまったらその人が悪いことになって自己責任になるのだろうか。そうとは言えないのがあり、生活にいる衣食住を手に入れられなくなるのは相対的はく奪(relative deprivation)がかかわってくる。ほんらい個人が生活にいる衣食住を手に入れられるはずのところを、個人からうばってしまっているのだ。その責任は個人にではなくて社会のほうにあると言えるだろう。

 与党である自民党新自由主義(neoliberalism)による市場原理をよしとしているところが大きい。新自由主義の市場原理から出てくることになるのが自己責任論だ。そこに抜け落ちてしまうことになるのが贈与原理だ。日本の社会では個人にたいする贈与原理が手うすなところがあることはいなめない。

 戦後の日本では自民党が与党であることが長かったが、そのさいには自民党がとくに何かやらなくてもそれなりに世の中が上手く回っていた。世の中の経済が右肩上がりだったからである。教育と家庭と会社の三つが放っておいてもうまく回って流れていた。この三つの歯車が回りづらくなっていて、それぞれにまずさがおきているのがあるとすると、それらをそのまま放ったらかしておいて、市場原理にまかせるだけでうまく行くのかははなはだ疑問だ。

 教育と家庭と会社の三つをそのままに放ったらかしておけば自然にうまく行くのだとはいえそうにない。それにくわえて三つの中の家庭についてをとり上げてみると、自民党がもつ保守(反動)の家父長制の家族観にはまずさがある。家父長制の家族観では現実論として家庭をよくするのに有効性があるとはいえそうにない。家庭の中の一人ひとりの個人を幸福にすることのさまたげになるのが家父長制の家族観だろう。個人主義の点からするとそう言える。

 個人にたいする贈与原理がしっかりととられるようにして、生活にいる基本の衣食住の必要(basic needs)が満たされるようにして行く。理想論としてはそうなっていることがいるが、現実論においては市場原理に重きが置かれすぎているのがある。市場原理によりさえすればすべてが上手く回って行くのだといったようになっている。

 よりよい生を個人が送って行くためにいるのが社会福祉(Social Welfare)だから、個人が生を送る(fare)ことが少しでもよりよく(well)なって行くようにすることがいる。ことわざでは衣食足りて礼節を知るといわれるのがある。基本の衣食住さえも個人が手に入れられないのであれば最低限の尊厳すらもてなくなる。そうすると社会の全体の空気が悪くなり、社会に悪い作用をおよぼす。社会の中がぎすぎすしてきてうるおいがいちじるしく欠けてきて生きて行きやすい住みよいあり方ではなくなってくる。

 すべての個人がよりよい生を送って行ける社会福祉のあり方が理想論としてあるとすると、きびしく見ればそこからあまりにも隔たりがおきてしまっているのが現実の社会保障の制度なのではないだろうか。現実論においては制度としての正義が十分ではなくて欠けてしまっている。だから菅首相が言うように生活保護があればよいとするのではなくて、それがあるからそれで十分条件になっているのだとは見なさないようにしてみたい。

 これまでの制度が疲労をおこしていていろいろな不備や穴が空いてしまっている。硬直化していて柔軟性に欠ける。それをそのままに放ったらかしにしておいて市場原理によってうまく行くのだとするのには疑問を感じざるをえない。

 市場原理を重んじることでこと足りるとする。それによりさえすればうまく行くのだとする。そのことになぜ疑問を感じるのかといえば、それぞれの個人が持っているための量や質にちがいがありすぎて不平等になってしまっているのがあるからだ。

 どん底まで落ちて行きづらくて傾斜の角度がゆるい人とそれがきつい人とのちがいがある。傾斜の角度がきつい人はその人が悪くて自己責任だとされてしまう。じっさいには自己責任ではなくて、社会が個人を排除しているのがある。ほんとうは個人が得られるはずの基本の衣食住にたいする相対的はく奪がおきている。市場原理を埋め合わせておぎなう個人にたいする贈与原理が手うすすぎることにまずさがあるのだと見なしたい。

 参照文献 『反貧困 「すべり台社会」からの脱出』湯浅誠 『ここがおかしい日本の社会保障山田昌弘 『大貧困社会』駒村康平(こまむらこうへい) 『社会福祉とは何か』大久保秀子 一番ヶ瀬(いちばんがせ)康子監修 『日本を変える「知」 「二一世紀の教養」を身につける』芹沢一也(せりざわかずや) 荻上チキ編 飯田泰之 鈴木謙介 橋本努 本田由紀 吉田徹 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『一三歳からの法学部入門』荘司雅彦 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『現代思想の基礎理論』今村仁司