日本の国の社会保障は、ベーシック・インカムにすればそれでうまく行くのか―修辞学で言われる量と質の型(トポス)

 すべての国民に毎月に七万円くらいを支給する。その代わりに生活保護や年金は廃止する。このベーシック・インカムの案を経済学者の竹中平蔵氏はテレビ番組で言ったそうだ。

 竹中氏がテレビ番組の中で言ったように、日本の国の社会保障において、ベーシック・インカムを採用するのがよいのだろうか。その案にはまずいところはまったくないのだろうか。もしも採用したさいにまずいことになったときの不確実性への備え(コンティンジェンシー・プラン)はあるのだろうか。

 修辞学の量と質の型(トポス)を持ち出して見られるとすると、これまでにとられている生活保護や年金の制度は量の型だ。それとはちがい竹中氏が言っているベーシック・インカムの案は質の型に当てはまる。

 量の型は一般や慣習や持続だ。質の型は特殊や独創や革新だ。

 量の型にまずいところがあり、それを乗り越えるものとして質の型を持ち出す。それでうまく行くのかというと、そうとは言い切れず、質の型にもまずさがある。

 量の型は、持続がよしとされて保守であり、慣性がはたらく。日本の国の社会保障の制度では、量の型において制度疲労や制度がいまの現実と合っていないところがあり、困っている個人を救うようには必ずしもなっていないところがある。

 救いの手がいる個人がいるのにも関わらず、そこにたいして個人に即して救いの手がさし伸べられていない。とりわけ弱い個人が放ったらかしになっていて、制度の網の目のあちこちに不備があるためにこぼれ落ちてしまっている。強いつまり標準の型の中におさまれる個人であれば、相対的には制度の網の目の中に入られて、すくい上げられやすい。あくまでも相対的にではあるだろうが。

 標準の型におさまれる強者は強者で、そこにおさまれない弱者は弱者で、互いに没交渉でいられるのかといえば、そうとは言い切れそうにない。強者と弱者のあいだには相互作用がはたらく。下の不安が上にまで波及して、全体に不安がまん延して行く。底辺に落ちまいとする底辺への競争(the race to the bottom)が引きおこる。

 たとえ日本の社会の全体が一見すると充実して栄えているように見うけられるのだとしても、よくよく見てみるとそこここからうつろな響きが聞こえてくるのがあり、救われていない個人が少なからずいるのが現状だろう。そのうつろな響きをいっさい無視して無いことにしてしまえば、日本の社会の全体は何ごともなくうまく行っていて充実して栄えているように映る。

 国の社会保障で新しい質の型を持ち出すのだとしても、古い量の型からどうやって滑らかに移行させるのかが不確実だ。新しい質の型を当てはめてまったく何の非の打ちどころもないくらいに完ぺきにうまく行くのかは確かではない。新しい質の型の中に何かしらの非があるのだとすると、すべての国民が幸福になるのからほど遠くなることになりかねない。

 一か〇かや白か黒かの二分法によらないようにするのだとすると、日本の国の社会保障では、古い量の型にまずさがあるにしても、それを根底から変えるようなまったく新しい質の型をそうかんたんにとることはできず、どちらにしても困っている個人を救えないことがおきている。すべての国民を幸福にするようにはなっていないのがある。

 参照文献 『発想のための論理思考術』野内良三(のうちりょうぞう) 『ここがおかしい日本の社会保障山田昌弘 『底辺への競争 格差放置社会ニッポンの末路』山田昌弘 『ダメ情報の見分けかた メディアと幸福につきあうために』荻上チキ 飯田泰之 鈴木謙介 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司