一九四五年のころをもとにした NHK のツイッターのツイートに批判の声が投げかけられている

 もしも七十五年前にツイッターがあって、人々がツイートをしていたとするのなら、どういうことをツイートするのか。七十五年前の一九四五年のころはどうだったのかということで、NHKひろしまタイムラインというのをツイッターのツイートでやっているという。

 一九四五年の当時のじっさいの記録などをもとにして三人の架空の人物をつくり、その三人の人物にツイッターのツイートでツイートをさせている。そのなかで、一九四五年の敗戦のあとのことについて、朝鮮の人への差別に当たるようなツイートがつぶやかれたことに批判の声がおきている。

 NHKひろしまタイムラインでやっていることにまずいところがあるとすると、どういうことがあげられるのだろうか。色々なことがあげられるだろうが、まずは NHKひろしまタイムラインでツイートを流しているテクストが架空のつくられたものだという点だろう。そして、架空の登場人物が三人しかいないのは視点の数が少なすぎていて、視点の多数化への努力が足りていない。さらに、そのテクストをとり巻く文脈(コンテクスト)が省かれてしまっている。

 ツイートであるテクストよりもむしろそれをとり巻く文脈のほうこそが大事だと言えるのがあり、文脈を省いてしまってテクストを流してもあまり意味があることだとは言えそうにない。ツイッターは一四〇文字の短い情報をやり取りする場だから、どうしても文脈が省かれてしまいやすい。そこの省かれやすい文脈をできるだけていねいに説明して行くことがいる。

 一九四五年のさいの文脈としては、日本が軍事国家で帝国主義をしていて、膨張主義によってアジアを侵略していた。それでほかの民族がいる地域を植民地支配していた。天皇に近い日本人は相対的に優で、ほかの民族を劣としていた。だから日本に植民地支配されていた朝鮮の民族の人たちが日本人から差別されていたのである。

 日本が帝国主義によっていたさいに、天皇を中心として、それに近い日本人は相対として優とされていて、ほかの民族は劣とされていたのがあるから、それをくみ入れることがいる。それをくみ入れるのだとすると、優である日本人の目線からではなくて、劣とされていたほかの民族の目線から一九四五年の当時のツイッターのツイートを流すのであればまだ少しは意味があるかもしれない。

 一九四五年の当時にツイッターのツイートがあったのだと仮定するのであれば、それをその当時の日本人の目線からではなくて、劣とされていた少数のほかの民族の目線から流したほうがよくて、そうであったほうが、その当時の日本人のもっていた欺まんがよく見えてきやすいだろう。そうではなくて、NHKひろしまタイムラインでやっているように、その当時の日本人の目線でツイートをすると、どうしても日本人を中心とする自民族中心主義から抜け出しづらい。その当時の日本人がもっていた欺まんが見えてきづらい。

 テクストによるのだけではなくて、それをとり巻く文脈をしっかりととり上げるようにして、一九四五年のさいの天皇制による天皇が神とされて絶対化されていたあり方がいかにおかしいものだったのかや、帝国主義によってほかの地域の民族を植民地支配していたことがいかにまちがったことだったのかを言うようにして行く。それをしないで、ただテクストを流すだけで、それをとり巻く文脈を省いてしまうと、何のためにテクストを流すのかという意味がはっきりとはしてきづらい。

 戦争の過去についてのテクストを流すのであれば、文脈をしっかりととり上げるようにして、階層の秩序があったうちで、優に置かれていた日本人の目線ではなくて、劣に置かれていた他の少数の民族の目線からのものにしたほうが、その当時の日本のおかしさが見えやすいものだろう。

 階層の秩序があるうちで、とり上げる意味があるのは、優とされていた多数派の階層ではなくて、劣に置かれていた少数派の階層なのがあり、劣とされていた階層をもっととり上げるようにしたらどうだろう。そうすれば、その当時の日本人の欺まんや、その当時の日本人がよしとしていたこと(よしとさせられていたこと)がいかにまちがっていたものだったのかというのを見る助けになることがのぞめる。

 優の階層ではなくて、劣の階層のほうに、その当時の日本の国のおかしさがより強く反映するのがある。劣の階層の生きづらさや生活の苦しさを見ていって、そこから当時の日本の国のもっていた価値観のおかしさを見るようにしたら、過去の日本の国がもっていたまちがった価値観を批判することにつなげやすい。

 参照文献 『一冊でわかる 帝国 a very short introduction』スティーヴン・ハウ 見市(みいち)雅俊訳・解説 『できる大人はこう考える』高瀬淳一