日本人感を気軽に出してはいけないのかどうか―何々らしさ

 日本人感を出さないでほしい。ツイッターのツイートではそう言われていた。日本人そのものといえるほどの日本人らしい日本人ではないのなら、気安く日本人感を出すべきではないということだ。

 日本人らしい日本人とは言えないのなら、たやすく日本人感を出してはいけないのだろうか。

 日本人ということを、男性と女性ということで置き換えてみると、男性らしさや女性らしさとなる。このさいの男性らしさや女性らしさは、二分法でとらえられるものとは言えそうにない。すごく男性らしいとかやや男性らしいとか、そういった色々な度合いがある。

 かりに男性ということで言うと、男性なら男性らしくあるべきだというのはあまりよいものではない。男性とひと口に言っても、さまざまな人がいるのであり、そこには度合いのちがいが色々にあるものだろう。それと同じように、日本人なら日本人らしくあるべきだというのもまたあまりよいものとは言いがたい。日本人らしくないとされるとしても日本人であってよくないことはない。らしさを強引に押しつけるほうがおかしいものだろう。

 男性や女性は、量からいって多くの人がいるように、日本人もまた量からするとおよそ一億人くらいいる。その量の中に含まれる人はさまざまだ。だから、さまざまな人によるさまざまなとらえ方がなりたつ。

 さまざまな人によるさまざまなとらえ方は、実在(ザイン)によるものだ。それとはちがって、日本人はこうであるべきだという、らしさによるのは当為(ゾルレン)だ。らしさを強引に押しつけるのには無理があり、色々なあり方があるというよりほかにはない。

 日本人はこうであるべきだという、らしさによる当為は、まったく客観で自明な大前提であるとはできづらい。その自明性はかなり揺らいでいて、日本人とは何なのかは不明であるところが少なくない。不明なところがあるのは、日本人が実体で独立のものではないことから来ているものだろう。ほかのものとの関係によっているのにすぎない。関係の網の目の中の仮想の点が日本であり日本人だ。

 日本人ということでそれぞれの人が思いえがくものに差がある。さまざまな文脈がおきてくる。そのさまざまな文脈をすべてくみ入れることによって日本人がなりたつのがあるから、その中の一つの文脈をとり出して、これが日本人なのだと言ってみても、それは多くの標本の中の一つにすぎないことになる。それが決定的な標本になるとは言えそうにない。標本のとり出し方にかたよりがおきることはまぬがれそうにない。すべてをくみ入れた全体像は定かとは言えないから、日本人の全体というのは虚偽だということも言えるだろう。哲学者のテオドール・アドルノ氏は、全体は虚偽であると言っている。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』西林克彦 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編