政治家とかっこよさとカタリ―形式と実質

 はじめて政治家のことをかっこいいと思った。テレビの出演者は大阪府知事のことをそう言っていた。

 大阪府知事新型コロナウイルスへの感染の対応の中で、テレビ番組によく出ているようだ。府知事は精力的に対応に当たったりテレビ番組に出ていたりしていて、そのことをよしとする声は少なくない。テレビ番組でも持ち上げられている。

 人によってどのように見なすのかは色々にあってよいものなのはたしかだが、気をつけなければならないのは、政治家によるカタリ(騙り)だろう。政治家が自分に都合の悪いことをあえて言うことは考えづらいことだから、嘘やごまかしがあるかどうかを確かめて見て行くことがあったらよい。

 大阪府知事に限らないことだが、国の政治では、いまの首相による政権の言うことややることで目だつのは、カタリの横行である。見てくれやうわべはいっけんすると充実しているようであっても、中身はすかすかなことが少なくない。まんじゅうで言うと、外の皮はりっぱだが肝心のあんが中に入っていない。

 首相が長たらしく間を伸ばして発言することは、ほんとうにそうする必然性があるのではなく、水ぶくれしているのにすぎないことが少なくない。ぎゅっと引きしめればほんの少ししか肝心の核となることを言っていないか、またはひどければまったく核となることを言っていないこともある。ひどいときには、ただ何か言っているという形ばかりがあるだけだ。

 政治家をどう見なすかで、かっこいいというのはちょっとどうなのかなという気がする。そこに危なさがあるのだというのがある。政治家によるカタリにまんまと乗せられてしまっているとすると、政治家のいいようにしてやられてしまう。そこを見抜くことがあったらやられることを少しは防げる。

 ことわざでいう石橋を叩いてわたるではないが、もしも政治家がかっこいいと映るのだとすると、それは政治家が国民をだましにかかっているしるしなのではないだろうか。それがよく見うけられるのがいまの首相による政権だ。国民のことをだますために、見てくれやうわべに力を注いでいる。見てくれやうわべに力を注ぐのは、政治として力を注ぐ方向性をまちがえている。力を注ぐ方向をまちがえてはいるが、じっさいに国民に受けるのがあるから、(残念ながら)効果があるのはたしかだ。

 かっこいいというのは、形式と実質で分けられるとすると、形式に当たるものだから、実質を保証するものではない。かっこ悪いとしても、それは形式に当たるものにすぎないから、実質まで駄目だということには必ずしもならない。そこを切り分けられるのがあるから、かっこいいつまり映りがよいのだとしても、実質が駄目なことがある。

 詐欺でいうと、詐欺師はうわべは人当たりがよいが、これは形式に当てはまる。形式は実質のよさを必ずしも保証しないから、形式がよいとしても実質が駄目なことがあり、詐欺師はそのちがいを利用して人をだましにかかる。このさいに人間の心理における基本の帰属の誤りがおきている。形式が駄目であれば、あるていど警戒する心をもちやすいから、実質が駄目かどうかをうたぐりやすいが、形式がよいのなら、実質もよいのではないかとなりやすく、基本の帰属の誤りがおきやすい。

 帰属というのは、因果関係で原因と結果を特定することで、その特定が誤りになることがある。形式から実質をおしはかってしまいやすい傾向があるのが、基本の帰属の誤りだ。政治家でいうと、何となく立派そうだとか、堂々としているとか、そういう形式に当たることがよければ、実質もよいのではないかとしてしまうのがある。じっさいに、弱々しく頼りない政治家がもしもいるとすれば、よしとしようという気がおきづらいのはあるが。

 参照文献 『政治家を疑え』高瀬淳一 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『「日本人」という、うそ 武士道精神は日本を復活させるか』山岸俊男