学校や大学の存在理由―ウェブとの関係性

 学校の休校がつづいている。一部では再開されたところもある。その中で、学校とウェブや、知とウェブの関係を見てみられるとすると、はたして学校はそこまで必要なものなのだろうか。

 ウェブがおきる前とそのあとで分けられるとすると、ウェブがおきることで知が開かれるようになったのがある。そのことで、ブツ(物質)としての学校はウェブがおきる前よりもその必要性が高くはなくなったところがある。

 ウェブがおきたことで、まったく学校が不必要になったというのはあまりにも言いすぎではあるが、学校の存在理由があらためて問われているのはあるだろう。まちがいなく必要性や存在理由が確固としてあるのだという自明性の厚い殻があるとは言い切れそうにない。

 学校は選別の働きをもつので、できる者とできない者や持つ者と持たざる者に分けられてしまうのがいなめない。豊かな階層は高い学歴を持ちやすいという説がある。豊かな階層だと高学歴が世代を超えて再生産される。貧しい階層は高い学歴をもつことができずに断念せざるをえないことがある。

 ウェブがおきたことで知が開かれるようになったのがあり、それをくみ入れられるとすると、学校や大学のあり方はもっと改めて見直されるのがあってよいのではないだろうか。

 大学では高い学費によって学生に重い荷が背負わされることになっている。無知な学生の弱みにつけこんで借金を背負わせているのがあり、借金を背負った学生はそれを自力で返すのは大変だ。借金を背負うとはいっても自己責任で決めたことだろうという声があるかもしれないが、そこには学歴社会の弊害があり、(学歴社会に適合するために学歴を身につけるというような)本末転倒になっている面がある。

 すべての人に知の機会が等しく開かれているようなあり方になっているとは言えず、閉じているところがある。すべての人にたいして知をもっと身近にさせるようなあり方になっているとは言えず、包摂性が十分にあるとは言えないのがある。そこが改まったらよい。

 参照文献 『インターネット完全活用編 大学生のためのレポート・論文術』小笠原喜康(ひろやす)