個々の情報の記録と、文明による記録―記録のごまかしが記録される

 政治において、時の政権にとって都合の悪い記録を消す。隠したり改ざんしたりする。そういうことをするのだとしても、それとは別に、文明のあり方としての記録がある。

 文明では情報などを記録して保存することが行なわれる。文明の中の個々の行為として記録を消したりごまかしたりするのだとしても、それを包括する上位の文明そのものとしては、けっきょくのところ何らかの形によって記録されることになるおそれが高い。断片のものではあったとしてもあとに行動の痕せきが残る。ことわざでは、壁に耳あり障子に目ありと言われる。

 個々の記録がどうかということだけではなくて、それを包括する上位の文明のあり方としての記録についてもまたくみ入れないとならない。それをくみ入れるようにして、いずれにせよ行動の痕せきが何らかの形で残る見こみが高いのだから、その痕せきがあとに負の影響をおよぼさないような行動をとることが時の政権には求められる。

 いくつかの時の政権があるとして、そのうちの一つだけがずるをすることが許されるのだとすると、それによって負の影響があとに残る。公正さの価値が損なわれて、不公正なあり方になってしまう。自由主義では二重基準のあつかいになるとさしさわりがおきる。そういう負の影響があとに残るような行動をとらないようにしないとならないし、負の影響をおよぼす負の痕せきがあとに残らないように自制することが求められる。

 戦争に負けたすぐあとには、不都合な記録が残っていてはまずいということで、日本のそのときの上層部はせっせと書類などを燃やしつづけたという。燃やす火によって煙がもうもうと上がった。それで書類などを燃やしたことによって、記録をもみ消すことはできたかもしれないが、そのことによって貴重な記録となる資料の一部があとに残らなくなった。記録をもみ消したという行動の痕せきが、記録としてあとに残ったのもある。

 あとに残っているすべての記録がぜんぶ正しいとは言えず、中にはまちがったものも残ることがあるだろうし、またどのように読みとるのかが関わってくるのもある。そこに主観が入りこむのはまぬがれない。そこに気をつけるのはいるが、日本の政治においては、まだまだ中途半端な形でしか文明化ができていなくて、記録を大切にしないところがあるし、あとに記録をきちんと残しておこうとはしないところがあるのはいなめない。そうであるにしても、情報社会である状況にとり巻かれているので、色々な情報が出回ることは避けられそうにない。

 参照文献 『読書のユートピア清水徹 『知った気でいるあなたのための 構造主義方法論入門』高田明典(あきのり) 『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫法哲学入門』井上達夫