クルーズ船と、仕事と遊び―遊ぶ人間(ホモ・ルーデンス)だとも言われる

 クルーズ船の乗客は、自分たちの意思でその船に乗った。お遊びの船だ。それを日本の政府が救うことがいるのか。そうしたことがツイッターのツイートで言われていた。

 たしかに、クルーズ船は観光の船だし、その中ではカジノが行なわれていたのだという。仕事をするための船だというのではないだろう。

 仕事と遊びというのはそんなにはっきりと価値がちがうものとして分けられるものなのだろうか。ひと口に仕事といっても色々なものがあるのだから、その中には価値があるものももちろんあるが、価値がないものもあるし、害があるものもある。たとえば政治家や役人の汚職などだ。

 仕事によってプラスのものが生み出されるのだとしても、たんにプラスなだけではなくて、それとともにマイナスも生み出していることがあるから、プラスなだけのものだとは言えないものが少なくない。マイナスのところに目を向けてみれば、それを過小視することができないとも見られる。たとえば環境の破壊がある。有限な資源が枯渇するおそれがあるし、もはや地球の人間圏には総量の規制がかけられているのだとも言われている。学者の松井孝典(たかふみ)氏による。

 船の中で遊んでいたのだとはいっても、そのことを船に乗っていた人そのものと同一視することはできそうにない。そこを分けて見ることができる。ある人が、あるときには遊んでいることもあるだろうが、そうではないときもあるのだから、遊んでいるときだけを切り取って、その人そのものと同一視するのは、公正なことだとは言いづらい。

 生きているかぎり、たとえば死ぬ寸前のぎりぎりになってとんでもない仕事を瞬間的になすこともありえないではない。そうして人生の全体を総合して見られるから、生きているかぎりはまだ完全には完結していないので、何があるかはわからなく、こうだというふうにはできるだけ一方的に決めつけないようにしたいものである。性急な(部分の)一般化には気をつけたい。何々であるから何々であるべきだ(またはべきではない)を導く自然主義の誤びゅうにも気をつけたいものだ。

 日本では明治の時代からのあり方として富国強兵によるあり方がいまにおいても引きつづいていて、国の経済や軍事が優先されがちだ。気を許すとすきあらばといったことで軍国化しかねない(すでに方向としてはなりかけている)。過去の戦争の経験や記憶は風化が進んでいる。仕事については、それに価値があるいっぽうで、遊びには価値がないというふうになっているのだとすると、それを絶対に正しいものだとするのには待ったをかけたいものである。

 富国強兵によって、とにかく仕事をすればするほどよいのだとか、または軍事力を強めれば強めるほどよいのだとかとするのが、個人の幸せにつながるのかには疑問符がつく。仕事をするにしても、それを長く行なって行くためには、そこに無理があってはならない。とにかく仕事だからよいことなのだというふうになっていたり、または長時間で低賃金で(またはそれなりの賃金であっても)働かされる人が少なからずいたりするのでは、持続性の点からいっておかしさがある。

 クルーズ船の中で新型コロナウイルスによる新型肺炎の感染がおきたわけだが、それは船に乗っていた人の責任であるとは言えそうにない。じかにその感染とは関わらないことではあるが、それとは少しちがう文脈として、社会のあり方のぜい弱性が浮きぼりになっているのがある。あまりに一か所にものごとが集中しすぎていて、密集しすぎている。量による効率が高いかわりにもろさがある。量や数字が優先されるために、質がないがしろにされている。そこのぜい弱性を見るようにして、改めて行くようにすることがあればのぞましい。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦カッシーノ! 一,二』浅田次郎 『日本進化論 二〇二〇年に向けて』出井伸之(いでいのぶゆき)