建国記念の日における、首相の日本の国への言及―実在の日本の国への言及なのだろうか

 建国記念の日ということで、首相は抱負を述べていた。その発言の中で、日本の国はさまざまなよさを育ててきたとしている。そのよさとは、平和や豊かさや自由や民主主義や人権の尊重や法の遵守などだ。そのよさをこれから先も引きついでさらに発展させて行きたいとしている。

 首相が言う日本の国がこれまでに育ててきたさまざまなよさというのは、日本の国にたいする性格づけとしてうなずけないところがあるから、うのみにすることはできづらい。

 首相が言っていることは、どちらかというとそうあるべきことに当たるもので、現実にそうあることだとは見なしづらい。実在としての日本の国であるとは言えず、そこから少なからずずれがある。美化されている。

 日本の国が育ててきたよさとしてあげられているものは、それぞれがよいものだから、それらを発言の中でとり上げるのは悪いことではない。それは悪いことではないものの、日本の国の過去の歴史をふり返るとすれば、あたかもさまざまなよさを順調に育ててきているかのような見なし方はそこまでふさわしいものではないだろう。

 日本の国の過去の歴史をふり返ってみるのだとすると、平和や豊かさや自由や民主主義などのさまざまなよさをふみにじってきた主体は、日本の国だということができる。その負のあやまちがあるのにも関わらず、あたかもそれが無いことであるかのように言うのはどうなのだろうか。それが無いかのようにしてしまうのだと、過去の負のあやまちから教訓を引き出すことにつながりづらい。英語のことわざでいう、痛みなくして得るものなし(no pain no gain)というのがある。

 来し方と行く末ということでは、来し方をかえりみることは後望(レトロスペクティブ)だ。その後望がおかしいのであれば、行く末である前望(プロスペクティブ)もまたおかしくなってしまいかねない。いい加減な後望にはならないようにして、過去の負のことがらを色々に見て行くことがもっといるのではないだろうか。そこがいい加減になってしまっていると、適した前望ができづらい。

 完ぺきに過去を正確にふり返ることはできないことだろうが、あまりにふり返り方がいい加減なものになりすぎるのはまずい。首相の発言からは、首相という地位につく人間としてあるべき最低限のふさわしい過去へのふり返り方をあまり見てとることができず、人それぞれで過去への見なし方はちがっていてよいという範囲を少なからず逸脱してしまっているようなところがある。そこに不安や心配を感じてしまうのだが、そうしたまずいところが、(悪い意味での)日本の国柄の一つなのだと言ってしまうのは、よくないことかもしれないが、あえてきびしいことを言うことが許されるとすれば、そう言ってみたい。

 参照文献 『歴史という教養』片山杜秀(もりひで) 『正しさとは何か』高田明典(あきのり) 「いま、敗者の歴史を書くべきとき(戦後五〇年目の年 日本の論壇)」(「エコノミスト」一九九六年一月二・九日合併号)今村仁司