歴史として残された過去の痕跡と、情報と情報源―過去の痕跡を見つけてたどり、光らせる

 従軍慰安婦にまつわる作品をあつかうもよおしに、文化庁補助金(税金)の交付を取りやめることを決めた。これにたいして、反対の声がさまざまなところから投げかけられている。政府が表現や言論を検閲することになると言われている。

 従軍慰安婦にまつわる作品とは何か。そう問いかけられるとすると、それは一つの痕跡(こんせき)だということが言えるのではないだろうか。過去の歴史にまつわる痕跡を形にしたものだ。

 残された痕跡をたどるさいに、犬の種類でいうと、ポインターとセッターがある。ポインターは残された痕跡があることをさし示す。セッターは痕跡をたどっていって、痕跡を残した者を追って行く。

 痕跡というのは情報だ。その情報というのは、情報があらわすそのもと(情報源)とまったく同じというのではない。その二つは切り分けられるものだというのが、小説家の平野啓一郎氏によって言われている。

 情報源をあらわすものである情報は、さまざまにあったほうがよいのではないだろうか。そのほうが、情報源についてを知ることの役に立つ。情報源についての情報の量が多いほうが、より確かに情報源を知ることにつながる。

 痕跡や情報について、それをできるだけ広く認めて行くことが、人々の益になることにつながる。効用が高くなる。それぞれの人が、さまざまな痕跡や情報に接することができて、それぞれの人が色々なやり方によって痕跡を光らせる。痕跡や情報を生きたものにする。それが求められているのだと言えるだろう。

 痕跡や情報について、日本の国にとってのぞましいものだけをよしとして、そうではないものはよしとしないというのだと、排他のあり方だ。日本の国にとってのぞましくないとされた痕跡は、光らせられることができなくなってしまう。眠りつづけることになってしまう。

 排他のあり方がひどくなれば、都合の悪いものが抹消されてしまうだろうし、抹消されたということもまた抹消される。無かったことにして、なおかつ無かったことにしたこともまた無かったことにするという、二重の抹消だ。そうはならないようにして、できるだけ眠らせることがないようにして、多元に色々な表現をよしとするのがよい。

 痕跡や情報というのは、適した能力をもつ人によって、光らせられたり目ざめさせられたりするのを待っているものだ。人々がさまざまな痕跡や情報について思考することが十分にできるようにして、そのさまたげとなるようなことはないほうがのぞましい。

 情報があらわすそのもとである情報源は実在や実体なのかというと、そうとは言えそうにない。痕跡や情報に接する受け手である人間もまた、一つの痕跡や情報だとされる。人間もまた痕跡や情報なのであって、客観に実在する実体であるというよりは、主観の意味づけによっている。

 主観の意味づけをとり払って行けば、あとに残るのは仏教で言われる空(くう)であり虚無であるかもしれない。空であり虚無であるというのは、たとえば、紙に記した記録や情報が、物理としてはただのインクのしみにすぎない、ということと同じことである。インクのしみにすぎないと見れば空だが、そこに主観の意味づけをすれば色(しき)となる。インクのしみにすぎないのは哲学で言われる質料(しつりょう)で、そこに主観の意味づけをするのは形相(けいそう)に当たる。

 参照文献 『「生命力」の行方』平野啓一郎現代思想を読む事典』今村仁司編 『思想の星座』今村仁司宗教多元主義を学ぶ人のために』間瀬啓允(ひろまさ)編