心の環境汚染だと言うが、環境汚染という不適切な言い方は置いておけるとして、心ではなく頭によることなのではないか(頭で知ったり認知したりするものなので)

 あまり本音を言うと、いまの役職を首になるおそれがある。それでも言わせてもらうが、自分にとっては戦時中の従軍慰安婦の問題は、心の環境汚染の問題だ。与党である自由民主党の議員はそう言ったと報じられている。

 日本の子どもたちにまちがった歴史観を教えるのは、心の環境汚染だ。これを思うと夜も眠れなくなってしまう。

 日本は国際連合に多くのお金を出しているのだから、日本にとって好ましくないことを国連が言ってきたら、それにたいして言い返したほうがよい。

 自民党の議員はこうしたことを言ったようだ。この発言は会合の中でのもののようだが、自分でもこの発言をすることで自分の首が切られるかもしれないと言っているように、内輪での利益は高いが危険性もまた高い発言だ。

 この発言によって首が切られるかもしれないという心配は杞憂ではないかもしれないが、そもそもこのような発言をするような思想を持っているから、いまの自民党の中でとり立てられているのにちがいない。

 日本の子どもたちは学校でまちがった(自虐史観による)歴史観を教えられている。議員はそう言っているが、この見なし方ははたして正しいと言えるのだろうか。

 そもそも、学校では近現代の歴史は力を入れて教えられているとは言えそうにない。時間を十分にかけて教えられているのではないだろう。そのこともあって、権力に近い政治家をはじめとして、きわめていい加減な歴史修正主義による近現代の歴史の認識がはびこっている。このことこそ心配するに値する。

 議員が言うことが完ぺきにまちがっているというのではないにせよ、改めて見直して問いかけをしてみることができる。子どもたちというふうに一くくりにしてもよいのか。歴史観において、正しいとかまちがっているとかいうのはどういうことなのか。それは単一なのか複数なのか。そもそも歴史観(歴史の表象)というのはどういうことなのだろうか。

 教えるというのは、一方的に押しつけることでよいとは必ずしも言えそうにない。子どもたちが受動ではなく能動で、色々な質問をもち、それを発信して投げかけるのがあってよい。言われたことをうのみにしないで、自分で調べさせてみるのはどうだろうか。

 歴史については史実だけではなく伝承もまたある。伝承として口伝えで経験が語られていることが必ずしもまちがったことだとは言いきれそうにない。体験した人が自分の体験をもとにして直接に近い形で語っているものもあるから、伝承としてその地で言われていることがまちがっているとは断定はできない。ものによっては寛容の原則を当てはめてみることができる。

 国際連合に日本は多くのお金を出しているということだが、それはそれとして、厳しいことをときには言ってくれるのが本当の友だちだろう。甘いことを言ってくるのはたんにこちらにとり入ってくる茶坊主の疑いが低くない。お金を多く出していれば厳しいことは言われず、少なくしか出していないのだと厳しいことを言われるのであればそんなあり方は公平ではなくおかしい。

 一方的に国連に日本が言われっぱなしになる必要はないだろうから、もしおかしいところがあればお互いにやり合うようにしたらどうだろうか。岡目八目というように、日本のおかしいところは国連などの他者からのほうがよりよく見えるものだ。日本のことは日本が一番よくわかっているというのは必ずしも成り立たない。盲点があるものだ。