原子力爆弾の投下を肯定して、日本のことを否定することには、受けとり方によっては必ずしも直結はしないのではないか

 原子力爆弾を投下したときのきのこ雲をあしらった洋服を着ていたことがとり沙汰されている。この洋服を着ていた韓国のアイドルグループのアイドルは、日本での活動をとり止めることを余儀なくされている。きのこ雲をあしらった洋服を着ていたことで、日本のことを否定したと受けとられて、批判を受けているためだ。

 きのこ雲をあしらった洋服を着ていたことを前提条件として、それによって日本のことを否定したというふうに必ずしも言えるものだろうか。たしかに、きのこ雲をあしらった洋服を着ていたのはあるのだろうが、そうだからといって必ずしも日本のことを否定したと見なせるとは限らない。そこには若干の飛躍があるのではないか。

 戦争のさいに日本に原爆が投下されたのは、日本にとってのいちじるしい惨事であり不幸である。しかしそれだけにとどまらず、人類にとっての普遍の意味あいがあるということも成り立つ。日本だけにとどまらず、広く人類にとってあってはならないことがおきたのがある。人類の全体の罪だということもできるだろう。

 きのこ雲をあしらった洋服を着ていたことで、日本を否定したのではなく、戦争を否定したというふうに受けとることはできないものだろうか。なぜ日本に原爆が投下されたのか。日本に原爆が投下されたことについて、独特の受けとり方をなぜ韓国の人はするのか。それはひいては戦争が悪いことを示す。帝国主義による植民地支配もまた悪い。

 抽象的に見れば、戦争が悪いことから、戦争にまつわるさまざまな不幸が引きおこされた。戦争を記憶して風化させないで、想起しつづけるようにしないとならない。戦争は自国や他国の国民を不幸にするから、肯定しないで否定するようにする。

 きのこ雲をあしらった洋服について、それをつくった製作者が善意をもっている(悪意をもっていない)とするとして、寛容の原則を当てはめられるとすれば、必ずしも日本の国を否定する意図をもっているとは見なさないことができる。大きな論点でいえば、自国や他国の国民を犠牲にしたもとである、戦争を引きおこした責任のある独裁による国家権力や、戦争そのものや、膨張主義による他国への侵略が、責められたり憎まれたりするべきだと見なしたい。