戦争をしてでもうばわれた領土をとり返すことと、カルト宗教の図式―大善(理想)と小善(現実)のつり合い

 北方領土竹島を、戦争をしてでもとり返す。戦争をしないととり返せないのではないか。国会議員はそう言っていた。

 たしかに、北方領土竹島は、日本の領土とされているものが、他国に実効支配されているものである。他国に実効支配されているのは日本の本意ではないだろうが、その他国に実効支配されている北方領土竹島を、戦争をしてでもとり返すというのは、うなずけるものではない。それで国会議員にたいして色々なところから批判の声がおこっている。

 国会議員の言っていることは、カルト宗教の図式になぞらえられる。カルト宗教では、大善と小善の図式がとられることがある。大善というのは、そのカルト宗教がよしとする大きな理想だ。小善というのは現実の決まりだ。

 小善である現実の決まりや大切なことを破ってまで、大善である理想につっ走る。これは理想と現実とのあいだのつり合いを欠いたものである。理想と現実とはどちらかだけが大事なのではなくて、そのあいだのつり合いを取って行かないとならない。

 大善である理想だけをとるのであれば、それにたいして反対のものである、小善による現実の決まりや大切なことを持ち出すことがいる。ここでいう大善と小善というのはあくまでも相対のちがいであって便宜のものだ。大きな理想である大善にたいして、小善は現実の決まりや大切なことに当たるが、それとともに小善には理想が含まれてもいる。

 かりに、国会議員が言う、戦争をしてでも北方領土竹島をとり返すというのを大善だと言えるとすると、それにたいして小善となるのは、日本国憲法の平和主義や不戦の誓いや、国際連合国連憲章武力行使を禁じた決まりだ。いきなり大善に行くのではなくて、それよりも先に小善である現実の決まりや大切なことを重んじなければならない。

 これまでの歴史の積み重ねによって、正しい戦争があるという正戦観(正戦論)から、戦争は法に反するという違法戦争観にまでいたるようになった。そのこれまでの歴史の積み重ねに逆行するものが、正しい戦争ならしてもよいとする正戦観だと言えるだろう。

 前近代における正戦観に戻らないようにして、違法戦争観による小善を守って行って、それを広めて行って少しずつ理想を現実のものにすることが大切なのではないだろうか。

 前近代のような正戦観や、(戦争はいけないことだという理想を捨てて)現実だけをとる現実主義(無差別戦争観)は、力の支配を許すものだから、のぞましいことだとは言えそうにない。戦争と平和については色々な見なし方があるから、人それぞれではあるかもしれないし、現実主義による力の均衡というのもあるわけだが、少なくともそのあり方が絶対的に安全だとか確実だとか正しいとまでは言いがたい。

 参照文献 『戦争の克服』阿部浩己(こうき) 鵜飼哲(うかいさとし) 森巣博(もりすひろし) 『論理的な思考法を身につける本』伊藤芳朗(よしろう) 『政治のしくみがわかる本』山口二郎