労働の必要性と、休息の必要性

 つべこべ言わずに働け。問答無用でとにかく働け。労働者が上からそう言われたときに、それに従うことがいるのだろうか。

 労働の文脈にかぎった話ではあるが、労働の反対である休息を持ち出すことで、これを図と地としてとらえてみたい。図と地の関係は反転させることができるものである。図が地になり、地が図になる。

 労働を図とすれば、休息は地になる。しかし、休息を図にして労働を地にすることも成り立つ。労働をよしとすると、休息はないがしろになりがちだ。休息をよしとすることがいることがある。

 労働の必要性ははたしてあるのだろうか。これを改めてみると、かりに一人の人が労働をしなくなったからといって、世の中がそれによって停止してしまうわけではない。世の中はいぜんとして動いて行く。世界は回る。

 休息の必要性を見てみたい。休むことの必要性があるのであれば、それは受け入れられるものだろう。ある人が疲れているとしたら、それは休むことがいるのをあらわす。疲れていないのだとしても、休みをこまめにさしはさむのがのぞましい。

 一人の人の命は地球よりも重いと言われる。これをふまえると、健康を保つためには、労働の必要性よりも休息の必要性のほうがより重要だ。仏教では天上天下唯我独尊と言われる。世の中が押しつけてくるものである労働の外圧があるとしても、一人の人の命のほうが(その人にとってはとくに)大切だから、休息を優先させることのほうが値うちがある。

 一時的にまたは慢性的に疲れているのであれば、休むことがいる。保養ができるとよい。疲れがおきているのは、その人のせいであるとは言いがたい。疲れをおこさせる外をとり巻く社会が悪い。疲れているのにもかかわらず、休ませなかったり保養させなかったりする社会はなおさら悪い。

 労働の中で働く人に課される要求(リクエスト)の量と質を見られる。この量が多すぎると疲れることになるので、十分な休息がいる。量が多すぎないようにならなければならない。不当な量や質が課されるようでないようになってほしいものだ。

 日本の社会は不正義になっていて、労働の外圧が過度に強くはたらいている。働く人の人格がいちじるしく軽んじられている。生活の安全保障が足りなく、安全網がすみずみまで張られていない。衣食住の基本的必要(ベーシック・ニーズ)が満たされていない。最低の生活の保障(ナショナル・ミニマム)がないがしろになっている。

 国民は命を保つ最低線の生活を送る権利があり、その権利を現実のものにする義務を国家は負う。その義務がしっかりと果たされていないで、自己責任として片づけられてしまっている。国民の不安は払しょくされず、危険性を個人が負うことになっている。これを個人が負うのではなく社会化して、危険性を分散することがもっとできたらよい。そのためには、これまでのや、いまのような、きわめていい加減なことをやる(言う)ような政権や政権与党には、まったく期待することができない。