自由民主党が偽証についてを定めた見かたは、適したものであるとはできづらい(受け入れられない見かたである)

 記憶に忠実な陳述であるかぎり、偽証には該当しない。自由民主党の与党筆頭理事は、そう述べている。いぜんに財務省事務次官でかつ国税庁の長官だった役人を、偽証の疑いで告発したくないことから、自民党は偽証についての自分たちの見かたを示している。

 自民党が示した偽証についての見かたを、野党の議員はおかしいとしている。記憶のかぎりではという枕ことばをつけさえすれば偽証にならないことになってしまう。記憶のかぎりではという枕ことばをつければ、記憶に忠実な陳述だと見なせるのである。

 記録とはちがい、記憶はあいまいなことがあるのだから、記憶に忠実な陳述をしたとしても、あいまいなことを言っただけになることがある。記憶を持ち出したとしても、それはあいまいであり疑わしさを完全にはまぬがれない。それによって偽証を定めてしまうと、あいまいなものになる。

 自民党は偽証についておかしな見かたをしているが、そうした見かたをしてしまうと、ものごとをぼやけさせてしまう。ものごとをはっきりとさせることのさまたげとなり、有害にして無益である。偽証についての見かたでは、ものごとをはっきりとさせるという目的をとるのがふさわしいだろう。

 自民党が示した偽証の見かたは、反転可能性の試しがまるでなされていないものだろう。その試しをするのがないと、ほかのところで通用しないものになるから、説得性が低い。ほかのところで通用するものでないと、二重基準になってしまうから、特殊な見かたにすぎないことになる。その場をしのげればといった場当たり的なものになる。

 記憶に忠実な陳述であるかどうかは、客観で確かめようがなく、あかしを立てることはできそうにない。主観のものにとどまっている。たとえ記憶に忠実な陳述であったとしても、不整合なものであればみなが納得するものにはなりづらい。それで偽証ではありませんと言ったとしても、はいそうですかとうなずくことにはならないものである。

 自民党の示した偽証を定めた見解は、とうてい受け入れられるものとは言いがたく、まちがったものであると見なすしかない。記憶に忠実な陳述であるのを根拠にして、それで偽証ではないというふうになるわけがないのだから、おかしな見解であると言える。偽証であるかないかは、他との開かれた話し合いのやりとりをすることの中で少しずつ見えてくるものだろう。