くだらないことのほうがむしろ本質的だということもできないではない(くだらなくないことと関係しているということはあるだろう)

 くだらないことはくだらないことなのかというのがある。くだらなさの同一性をずらすことができるのではないかと言える。一見するとくだらないようなことでも、それはくだらなくないこととつながっているのだとすれば、くだらなくないことを見るようにすることができる。

 くだらないことであっても、くだらなくないことと関わっているのであれば、くだらなくないことをとり上げることによってくだらなくないようにすることはできないことではない。

 くだらない話し合いはしないようにして、くだらなくない話し合いをするのがのぞましいのであれば、くだらない話はやめにして、くだらなくないことをとり上げて話し合えればよい。くだらないこととつながっている、くだらなくないことをとり上げればよいのである。

 ほんとうの戦争の話は、戦争についての話ではないのだ、というのがあるそうである。これになぞらえることができるとすると、戦争についての話は大きな意味あいのあることがらであるけど、戦争についての話に関わっている、戦争についての話ではないものもある。戦争についての話ではないことを話し合うのだとしても、それに意味がないわけではなく、むしろ大きな意味があるし、戦争に関わらないわけでもない。

 直接と間接というふうに分けることができる。直接にその話をとり上げなくても、間接として関わっているということがあるのであり、間接のことをとり上げるのが、直接のことを浮かび上がらせることになるのがある。直接のほうが重要で、間接は重要ではない、とは言い切れず、むしろ間接のほうがより重要なことがある。間接に関わっていることをとり上げたほうが、直接にやるよりも意味があることもあるし、直接と間接が入れ替わることがある。直接が間接になり、間接が直接になる、ということである。

 直接のものだけを見るのであれば、具象をとらえることで価値判断をすることになる。それだと一面による見かたになってしまう。それを避けるためには、直接のものを見るのだけではなくて、間接に関わっていることを見られればよい。そうすることによって、具象だけではなく、抽象によるようにすることができる。一般として言ってというふうな形の価値判断をとることができる。直接のものだけを見るのではなく、間接のものも合わせて見るようにすることで、直接のものだけを見て価値判断をするのを避けることができる。関連性を見ることができるので、見かたが固定化するのを避けやすい。くだらないという価値判断をカッコに入れられるようになる。

 ゲシュタルト心理学でいわれる図と地の関わりがある。図と地は視点を移すことによって入れ替えることができる。図としていることであっても、それを地とすることができる。地としていたものを図とすることによって、それが重要な意味あいを帯びてくることがある。いま図としているものだけを見るのではなくて、地としているものを見ることがあったほうがよい。図と地を入れ替えて見るようにする。そうしたほうが理解が深まりやすい。地としているものが図なのだということもできるのだから、そうすると話はまたちがってくるということができる。